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中川勝彦は中川翔子の父親!経歴やスキャンダルとは?死因は白血病?

中川翔子の父親としても知られる中川勝彦。若くして天国に旅立った彼ですが、その死因は何だったのでしょうか。そこで今回は、中川勝彦の経歴やスキャンダルについてや、死因に関して迫ってみたいと思います。また、彼の楽曲についてもご紹介します。

中川勝彦のプロフィール

  • 本名(ふりがな/愛称):中川勝彦(なかがわかつひこ/)
  • 所属事務所:不明
  • 生年月日:1962年7月20日
  • 現在年齢:32歳没
  • 出身地:東京都文京区
  • 血液型:A型
  • 身長:不明
  • 体重:不明
  • 活動内容:マルチタレント(ミュージシャン、歌手、俳優、声優)
  • 家族構成:妻、娘

マルチタレントとして活動

中川勝彦は、多才でありマルチタレントとして活動をしていました。80年代にミュージシャンや歌手、俳優、声優など幅広く活躍していたのです。なお娘の中川翔子も、マルチタレントとして活躍中です。

美男子シンガーとして有名

中川勝彦は、整った容姿も特徴でした。容姿が魅力的であり、”美男子シンガー”としも言われていました。また、彼の漫画好きなどの趣味は娘にも影響を与えています。娘の中川翔子は9匹の猫と暮らしていて、彼女の猫好きも中川勝彦の影響があったものと考えられるでしょう。

中川勝彦の経歴はどんなもの?

続いては中川勝彦の経歴について探ってみたいと思います。中川勝彦はどの様な経歴の持ち主だったのでしょうか。

生い立ちは裕福

中川勝彦は1962年に会社社長の長男と生まれ、裕福な家庭で育ちました。文京区第六中学校では、生徒会長も務めていたといいます。

ヤングミュージックフェスティバルに出場

中川勝彦は、1978年に慶應義塾高等学校に進学しバンド活動に目覚めたといいます。そして高校3年生の時に”ヤングミュージックフェスティバル”に出場したことが、デビューのきっかけとなりました。

慶応義塾大学を中退

その後には慶応義塾大学に進学しました。大学受験では、慶応義塾大学法学部と早稲田大学法学部に合格したのだといいます。慶応義塾大学に入学しましたが、後に中退してしまいました。

俳優としても活動

中川勝彦は、俳優としての活動も行っていました。彼は、1981年に映画『ねらわれた学園』に出演しています。そして翌年には映画『海峡』に高倉健と大谷直子の息子役で出演しました。青森県と北海道を繋ぐ青函トンネル開通工事に関する映画であり、本編の終盤辺りに中川勝彦がセリフ付きで登場している模様です。

また、1985年には、南野陽子主演のドラマ『時をかける少女』にも一夫役で出演しています。

Charとのバンド『MAJI-MAGIC』を結成

1987年に、中川勝彦はギタリスト・Charと共にバンド『MAJI-MAGIC』を結成しています。そして彼は、1987年に同名のアルバムも発売しました。

沖田総司役で注目される

1986年12月30日と31日に放送された、年末時代劇スペシャル『白虎隊』に中川勝彦が出演しました。彼は新選組の沖田総司を演じ注目を集め、端正な顔立ちによりファンを獲得しています。

ラジオパーソナリティーとしても活動

中川勝彦は『MBSヤングタウン』の金曜日パーソナリティーを務めるなど、ラジオでも活躍しました。ただし、下ネタがエスカレートした末に2度謹慎処分を受けたといいます。下ネタも厭わない、ざっくばらんな人柄だったのかもしれません。

中川勝彦にスキャンダルがあった?

中川勝彦には、スキャンダルがあったことを知っているでしょうか。続いては、中川勝彦のスキャンダルについて迫ってみたいと思います。彼に一体何があったのか、見てみましょう。

女性との写真が流出

中川勝彦のスキャンダルが発覚したのは、彼が亡くなった後のことでした。死後17年経った2011年に、中川勝彦と妻以外の女性との営みの写真がネット上に出回ったのです。写真の総数は合計で24枚に及んだといいます。この写真が、誰によっていつ撮影されたのかは不明です。

朗読CDの話題性のため?

写真がインターネットに投稿された時期には、中川勝彦の肉声を集めた朗読CDが発売されていました。写真での話題性を使い、朗読CDの販売促進に繋げようとする意図があったのではないかとの見方もあります。ただし、これは真偽が不明となっているでしょう。

なお、朗読CDは『復刊ドットコム』の2011年年間販売ランキングにおいて、1位を獲得しました。

中川翔子も画像を見た

上記の流出した24枚の写真を家族が見たとしたら、心を痛めることは推測できるでしょう。しかし、娘の中川翔子はその写真をインターネットで見てしまいました。そして父親に対して反発心を覚え、大事にしていたバースデーカードを破り捨てたのです。

その後には、中川翔子も”父親はモテていたのだからそれくらいはある”と思えるようになったといいます。また、バースデーカードは母により修復され現在は保管されています。

中川勝彦の死因は何だったの?

中川勝彦は既に故人となっていますが、どうして亡くなってしまったのでしょうか。ここで、中川勝彦の死因についてお伝えします。

1994年9月に死去

中川勝彦は、1994年9月17日に逝去しました。娘の中川翔子は既に誕生していて、彼女は当時9歳でした。妻や幼い娘を残して旅立つことに、無念さはあったものと推測できます。

死因は急性骨髄性白血病

中川勝彦の死因は急性骨髄性白血病です。彼は、これにより32歳という若さで亡くなりました。急性骨髄性白血病では、骨髄中で骨髄芽球(白血球に分かれる過程の未熟な細胞)に異常が発生します。そして、がんとなった細胞(白血病細胞)が骨髄で急激に増殖してしまう病気です。

正常な血球をつくる細胞が破壊されてしまうのです。急性骨髄性白血病は、女優の夏目雅子も1985年に27歳で死去している病気でもあります。

1992年に発症していた

中川勝彦は、1992年9月に急性骨髄性白血病を発症していました。それから9か月の闘病を続けたのです。その後に復活したものの、1994年8月に病を再発したのでした。それから1か月ほどで、中川勝彦は帰らぬ人となってしまいました。

助かる見込みはあった?

では、中川勝彦は助かる見込みがなかったのでしょうか。娘の翔子は、母からの手紙により『父親は骨髄移植で治る可能性があった』と後に知ることになりました。治療のために家族全員の骨髄検査をして、適合するかを調べたことがありました。

しかし最後に翔子の検査をしようとすると、闘病をする中川勝彦は『幼い娘に検査による負担をかけたさせくない』と言い検査を断っていたのです。また、骨髄バンクへのドナー登録は20歳以上55歳以下と決まっています。そのため、もし娘が適合したとしても移植できませんでした。

親しい人にも病気の詳細を伝えていなかった

中川勝彦は、自身の病状について親しい知人にさえも伝えていませんでした。芸能界では特に北野誠や兵藤ゆきと親しかったといいますが、彼らにも自分から話すことはなかった模様です。北野誠らは、中川勝彦が体調が悪いため休養をしているようだと、人から聞いたのだといいます。

彼は、周囲の人に心配をかけたくなかったのかもしれません。

葬儀はどこで行われた?

中川勝彦の葬儀は、密葬において文京区千駄木の道灌山(どうかんやま)会館で営まれた模様です。道灌山会館は西日暮里駅からも近いでしょう。なお当時の葬儀の新聞記事を、中川勝彦の妻・桂子がツイッターで後に公開しています。また中川勝彦の戒名は『惠空院耀翔日彦居士』となっています。

そしてお墓は台東区谷中の常在寺にあるるでしょう。

中川翔子がACジャパンのCMに出演

中川翔子が、ACジャパンの『日本骨髄バンク支援キャンペーン』のCMに出演しました。父親の中川勝彦が亡くなってから、24年後となる2018年7月のことでした。CMの中で彼女は父についても語っており、映像では父親との写真が使用されています。

中川勝彦の妻は誰?

美形として名高い中川勝彦ですが、一体どういった女性と結婚をしたのでしょうか。次に、中川勝彦の妻について迫ってみたいと思います。中川翔子の母親は、どの様な女性なのか見てみましょう。

妻は中川桂子

中川勝彦の妻は、一般人の桂子という女性です。彼女は、サケやマスのふ化を導入・推進したとされる伊藤一隆の曾孫でもあります。一般人ということもあり、生年月日等は不明となっているでしょう。

できちゃった婚だった

中川勝彦と桂子は、桂子が18歳で妊娠をしたことをきっかけに結婚しました。つまり、できちゃった婚だったということです。妻の桂子は、若くして母親となったのでした。この時にお腹に宿った赤ちゃんが、中川翔子だったのです。

結婚を隠していた

中川勝彦のイメージダウンを避けるためか、事務所の意向により2人の結婚や妊娠が隠されました。娘の存在についても、信頼できる近い人あるいは関係者のみに明かされていたのです。中川翔子が、芸能界で活躍するようになり『父親は中川勝彦』と明かしたことで、公に知られるようになったのでした。

なお、中川勝彦は音楽をやっていたこともあり、仕事で家にいることは少なかった模様です。そのため、娘の中川翔子も父親と一緒に遊ぶ機会は多くなかった可能性もあります。

妻・桂子はショーパブを経営していた

中川勝彦の死後に、生計を立てるために桂子はショーパブを経営するようになりました。その頃には、現在映画コメンテーターとして活動をするLiLiCoも働いていたといいます。

中川勝彦の幻の絵本が復刻した?

中川勝彦は多才であり、絵本の制作も行っていました。彼の幻の絵本が復刻したとの話がありますが、それは本当なのでしょうか。続いては、中川勝彦の復刻された絵本についてご紹介します。

90年代に2度刊行

中川勝彦の幻の絵本と言われているのは、『未知の記憶 Unknown Memory』です。この絵本は90年代に2度、限定ルートにて刊行されました。中川勝彦が白血病罹患前から製作していて、病床にありながら完成させた作品でもあります。また、彼の唯一となる著書でもあるでしょう。

 

そして、ファンの間でも“伝説の絵本”であると言われてきました。なおこの絵本の制作は、幼かった中川翔子も手伝ったのだといいます。

2011年3月に復刊

そして時を経て、2011年3月に『未知の記憶 Unknown Memory』が復刊ドットコムにより復刊しました。復刊を望む、多くの熱心なリクエストが9年間にわたりあったことで実現された模様です。

CD付きになっている

『未知の記憶 Unknown Memory』は、中川勝彦が全本文を朗読したCDが付いているスペシャルエディションと、書籍のみのスタンダードエディションがあります。この付録のCDは、前述の写真スキャンダルの際に話題性として発売されたと言われたものです。

また絵本の巻末には、中川勝彦によるあとがきやフォトギャラリーも収録されました。

中川勝彦の代表曲は何がある?

ここで、中川勝彦が生前にリリースした楽曲を数曲ピックアップしてご紹介します。中川勝彦の楽曲にはどの様なものがあったのでしょうか。

してみたい

1stシングルは、1984年2月22日に発売された『してみたい/愛じゃない』です。楽曲を歌っている動画では、80年代を象徴するような濃いメイクをしていた点が特徴でしょう。

ナンシー・Chang! (REMIX)

中川勝彦の5枚目のシングルは、1985年7月10日に発売された『ナンシー・Chang! (REMIX)/なぎさホテル』です。『ナンシー・Chang!』の動画では、様々な衣装で登場していますが、細身であることがうかがえるでしょう。

fromシンデレラ

『fromシンデレラ』は7thシングルであり、1986年5月25日に発売されています。かっこいい楽曲となっているでしょう。また、『BE MY GIRL』がカップリングとなっています。

くらもちふさこの漫画のモデルになった?

漫画『いつもポケットにショパン』などで知られる、漫画家のくらもちふさこ。くらもちふさこが中川勝彦をモデルとして漫画を描いたという話があります。さて、それは本当なのでしょうか。最後に、くらもちふさこと中川勝彦の関わりについて迫ってみたいと思います。

くらもちふさこが中川勝彦の大ファン!

くらもちふさこが若かりし頃、中川勝彦の熱狂的なファンだったのだといいます。彼がビジュアル系シンガーだったこともあり、くらもちふさこもファンになった模様です。漫画家のくらもちふさこがファンだということから、中川勝彦も知名度がアップしたとも言われています。

 

そうしたことから、2人は若い頃から親交がありツーショット写真も存在するという話もあるでしょう。

『ハリウッドゲーム』の中川君

くらもちふさこの1981年の作品『ハリウッドゲーム』に登場するキャラクター・中川君は、中川勝彦がモデルになっているとされています。ちなみに中川君というのは、高校の出席日数はギリギリではあるものの、プロのミュージシャンを目指し頑張っているというバンドマンです。

『東京のカサノバ』も中川勝彦がモデル?

1983年の『東京のカサノバ』という漫画も、中川勝彦がモデルになっているという話があります。この点を知ったある人は、中川勝彦がモデルだと知り納得をしたといいます。そして、『大都会東京のイメージキラキラとぴったり重なる』気がしたとも言っていました。

中川勝彦は急性骨髄性白血病で死去!

中川勝彦は、音楽や俳優業、絵本の制作など多才な男性でした。彼に起きたスキャンダルとは、死後に妻以外の女性との情事の写真がネットに晒されたことだったのです。これには娘の中川翔子もショックを受けたとされます。しかし、時間が経ち気持ちの整理もできた模様です。

中川勝彦は1994年に32歳という若さで亡くなりましたが、その死因は急性骨髄性白血病でした。中川翔子もまだ幼かった頃です。現在は、妻の桂子や娘・中川翔子のことを天国から見守っているのかもしれません。

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