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2023/12/22
大今里
『傾国の美女』という言葉を一度は皆さんも耳にしたことがあるはずです。この言葉の意味を知っていますか?また、どんな女性を指すか知っていますか?
今回は、『傾国の美女』の意味や、『傾国の美女』と呼ばれた女性について日本から中国、西洋の女性を中心にみていきましょう。それではご覧ください。
傾国の美女とは、皇帝・王・将軍と言った高い身分の男性でも夢中になって己の職分を顧みなくなるほどに魅了できる美貌を持つ女性を指す表現のこと。傾国の美女のことを「傾城の美女」ともいうことがある。
とても美人の人を指す言葉が『傾国の美女』というと覚えておくといいでしょう。実際に実在したとても美人な女性により、男性が翻弄されたことでこの言葉が生まれたようです!
ここでは、皆さんも知っているであろう日本に代々言い伝えがある『傾国の美女』を7人紹介していきます。皆さんは、今から挙げる日本の美女たちを全て言えますか?
日本の歴史から伝わっている『傾国の美女』とは、どんな人を指すのでしょうか?それでは早速ですが、見ていきましょう!ご覧ください。
小野小町は、社会の教科書、国語の教科書などで学んだ人も多いかもしれません。平安時代の作家で、日本では「世界三大美女」の1人として言われています。
小野小町は、どこで生まれたのか、何年に生まれたのかなどはっきりとわかっていない人です。また、小野小町のお墓は、日本に10か所近くあるとされていてどこで亡くなったのかもわかっていません。謎の多い女性ではありますが、美人だったということで有名です。
小野小町が生きていた、平安時代の日本は、男女の恋愛は『歌』でやり取りするのが一般的です。小野小町がつくる歌には魅力があったのでその歌で男性を虜にしていったようです。つまり、「外見の美しさ」ではなく、「想いを書いた歌」で男性たちの心を想像させた人物で非常に魅力的な女性であるという専門家の考察もあるようですね。
小野小町に魅了された男性・深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、愛を伝えるために00日通ったという逸話が残されています。「百夜通い」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、このことです。
深草少将は、毎日雨の日も、風の日も、どんな日でも彼女に愛を伝えるために通うのですが、99日目の夜、雪が降っていたのですが彼は、力尽きて亡くなってしまうという悲しいお話なのです。
『世の中に 恋てふ色は なけれども 深く身に染む ものにぞありける』
(訳:世の中に恋という色は無いけれど、まるで色が染みこむ様に深く身に染みて感じます・・・・)
『あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな』
(訳:もうすぐ私は死んでしまうでしょう。せめてあの世への思い出にもう一度あなたに抱かれたいものです。)
『涙川 おなじ身よりは ながるけど 恋をば消たる ものにぞありける』
(訳:涙も恋も同じ身体から流れているけど、涙の川では恋の火を消してはくれないものです。)
和泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代にとてもモテた女性として有名な方です。たくさんの和歌を残していますが、そのほとんどが自身の大恋愛に関するものばかりです。
多くの男性が和泉式部の虜となり恋愛をしてきたことが分かります。それだけ美人で魅力的な女性だったと言えるのでしょう。
お市の方(おいちのかた)は、皆さん知っていると思います!織田信長の妹であり、「戦国一の美女」と言われていた女性です。お市は、浅井長政と結婚をして3人にの娘を出産しています。豊臣秀吉の側室である、淀様を産んだのが、お市です。
お市の人生は、まさに波乱万丈です。一番最初の夫は、信長に裏切られ殺されてしまいます。そして2番目の夫は豊臣秀吉に裏切られ滅ぼされてしまいます。この時、2番目の夫と共に亡くなったお市様です。秀吉は、ここでお市が死ぬとは思っていなかったのでしょう。
淀様もとてもきれいな方だと言われているようですが、これはお市の地を受け継いでいるからだと言われています。そして、秀吉は、淀様を側室にして子どもを産ませあの大きな戦いになっていくのでした。
陸奥亮子(むつりょうこ)は、明治時代の政治家兼外交官でもあった伯爵・陸奥宗光の妻でした。この女性の写真が残っており、とても美人だと有名です。その美しさは、日本だけでなく、海外でも有名だったそうです。「ワシントン社交界の華」や「鹿鳴館の華」と言われていたそうです!
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
(意味:あかね色の紫野をあちこちに行ったりきたりしながら手を振るあなた。野守にみつかってしまいますよ)
額田王(ぬかたのおおきみ)の名前は聞いたことある人も多いのではないでしょうか?この方もとても美人な女性だったと言われています。飛鳥時代に生きていた有名な女性歌人として一般的に知られています。
額田王は、兄・天智天皇のお妃さまであり、その後に弟の天武天皇のお妃さまとなった方です。額田王はとても美人だったので、兄弟で取り合いになり徐々に兄弟仲が悪くなっていったそうです。政治的対立を生んだのも額田王が影響していたとされています。
上記にある有名な歌を残しているのも額田王です。天智天皇の妻でありながらも弟の天武天皇のことを思いながら書いた歌だと言われています。額田王は、おそらく弟のことが好きだったのでしょう。しかし、兄と結婚をして弟との亀裂を生んでしまうことになっています。
常盤御前(ときわごぜん)は、あの有名な源義経の母です。常盤御前は、平清盛にとても愛されていた”絶世の美女”だったと言われています。
平清盛は、源氏を滅ぼした後に、源氏の当主・源義朝の妻だった常盤御前を自分の愛人にします。愛人になった頃に、常盤御前には、今若丸・乙若丸・牛若丸(のちの源義経)の子どもがいました。平清盛は、この3人の子どもを殺すつもりでしたが、常盤御前の”お願い”により、殺すことはなかったそうです。3人の子どもは、寺に預けられたとされており、すくすくと成長をしてのちに『源平合戦』が起きるのです。源平合戦の頃は平清盛は、もう死んでいまいした。
『源平合戦』で戦った源義経は、大活躍をしており勝利しています。もし過去に、常盤御前のいうことを聞いていなければ、平清盛は殺していたでしょう。そうすれば歴史も変わっていたかもしれません。自分が愛した女性に、頼まれたことでのちに大きな戦いを招くことになろうとは思いもしなかったことなのでしょう。
待賢門院(たいけんもんいん)という女性もとても美人だったそうです。待賢門院(たいけんもんいん)の本当の名前は、藤原彰子という名前でした。藤原氏の権力を大きくするために天皇家に行くことになった人物でもあります。
鳥羽天皇の妻になった彼女でしたが、鳥羽天皇の祖父・白河法皇と不倫関係にあったそうです。夫の鳥羽天皇からすれば、待賢門院の不倫相手である白河法皇は、実の祖父でした。そして、なんとこの不倫のことを知っていたそうです。夫は、祖父の白河法皇をかなり憎んでいたという話も残っているようですね。
『保元の乱』の原因を作ったのは、待賢門院の不倫です。なぜこのようなことになったかというと、鳥羽天皇と待賢門院の間に子どもが産まれたのですが、実はこの子どもは、不倫相手の白河法皇の子どもであるという説もあるほどです。当時は、親子鑑定(DNA鑑定)などはできなかったので相当揉めたと言われています。
このもめごとの後に、鳥羽天皇と待賢門院の間に後白河という子どもが誕生したと言われています。様々なことを考えながら生きていた子どもたちが起こした『保元の乱』だと言われています。
彼女は、自らが政治に介入し、たくさんの人から恨みを買ってしまった女性ですが、とてもきれいな人だったようです。平安時代の女官であり、藤原縄主の嫁として3男2女の子どもを出産しています。
長女の嫁ぎ先である平城天皇は、長女ではなく藤原薬子を愛していたという話もあります。そして、娘といっしょに平城天皇のところで優雅な生活をしていた所、平城天皇の父である桓武天皇がかなり激怒をしてしまい、追放されました。
そして、「薬子の変」を起してしまい、最後は自殺をしたという話があるようです。
ここからは、日本から離れて海外の様子を見ていきましょう!中国編です。中国は歴史も古く、もしかすると皆さんも知っているであろう中国に代々言い伝えられている『傾国の美女』を5人紹介していきます。皆さんは、今から挙げる中国の美女たちを全て言えますか?
中国の歴史から伝わっている『傾国の美女』とは、どんな人を指すのでしょうか?それでは早速ですが、見ていきましょう!ご覧ください。
西施(せいし)は、生まれた年、亡くなった年などは不明です。中国の美女で有名な、王昭君、楊貴妃、貂蝉(ちょうせん)と並ぶ『中国四大美人(女)』の1人として数えられています。
西施(せいし)の本名は、施夷光(しいこう)『中国四大美人(女)』の1人である彼女は、川で洗濯をしていたらその川にいた魚たちも泳ぐのを忘れてしまうほど、美しい女性だという話も残っているほどの美貌の持ち主だったそうです。しかし、彼女には、足が太い(大根足)というコンプレックスを持っていたそうです。その足を隠すためにいつも長い裾の服を着ていたという話も残っているようですね。そのことから、「沈魚美人」といわれています。
西施(せいし)は、呉の国を亡ぼすための作戦に利用されたという説もあるようです。美しい女性を差し出し、戦争を辞めるように仕向けるために差し出されたのが西施(せいし)だと言われています。彼女の名前の由来は、西側の村に住んでいたからだそうです。
『三国志』が好きな方は、知っているでしょう。貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性のことをいいます。歴史上には存在していない人物になりますが、中国の美女で有名な、王昭君、楊貴妃、西施と並ぶ『中国四大美人(女)』の1人として数えられています。
『三国無双シリーズ』のゲームには毎回登場しており、とても美人なキャラクターとして有名です。
貂蝉(ちょうせん)の設定は、小さいころに市場で売られていた少女であり、王允が引き取り大事に育てられ、芸を学んで育っていたと言われています。そして、董卓を暗殺するために、董卓の養子である呂布と仲たがいをさせる計画を立てたそうです。
国語(古典)の教科書など学生時代に習った方も多いのではないでしょうか?楊貴妃(ようきひ)中国の美女で有名な、王昭君、貂蝉(ちょうせん)、西施と並ぶ『中国四大美人(女)』の1人として数えられています。
中国の唐時代の皇妃でした。姓を楊、名を玉環としています。貴妃は、皇妃の順位を表す名前だそうです。楊貴妃(ようきひ)という名前は、本名というわけではないということですね。楊貴妃(ようきひ)が『傾国の美女』と呼ばれるようになったのは、玄宗皇帝が溺愛しすぎたために『安史の乱』を引き起こすことからそう呼ばれるようになりました。
『世界三大美人』の1人でもありますが、『中国四大美人(女)』の1人でもあります。世界でも中国でも認められている美人な女性ということが分かります。彼女は、音楽や琵琶の演奏など様々な才能があったことでも有名です。
王昭君(おうしょうくん)は、中国の美女で有名な、楊貴妃(ようきひ)、貂蝉(ちょうせん)、西施と並ぶ『中国四大美人(女)』の1人として数えられています。
元帝(げんてい)の前漢の時代に生きていた人物です。呼韓邪単于(こかんやぜんう)の君主に差し出した美女が王昭君(おうしょうくん)です。皇帝が差し出すには、惜しいと思うほどの美女だったそうです。
王昭君(おうしょうくん)は、小説の題材にもなっています。小説のタイトル『夏姫春秋』の著者は、宮城谷昌光です。この物語では、王昭君(おうしょうくん)と関わった男性が次々に亡くなっていくことから”男性を狂わせた女性”といわれています。
王昭君は結婚をして、子どもを産みます。しかし、夫は早くに亡くなってしまい、その後に、陳の孔寧(こうねい)、儀行父(ぎこうほ)、霊公(れいこう)の3人と無理やりな肉体関係を結ぶこととなったのです。このことがきっかけとなり、王朝同士の争いが起きたとされています。
虞美人(ぐびじん)は、生まれた年などの詳細は分かっていない人物ですが、中国の美女で有名な、楊貴妃(ようきひ)、貂蝉(ちょうせん)、西施、王昭君(おうしょうくん)らの『中国四大美人(女)』と同じくらい美人だったそうです。
虞美人(ぐびじん)でわかっていることは、項羽の愛人だったことです。正確な名前などは明らかになっていないことからドラマや小説などでは、「虞姫」と表現されることが多いそうです。
また、項羽との馴れ初めなども明かされておらず謎がいっぱい残っている中国美女と言っていいでしょう。
ここからは、日本から離れて海外の様子を見ていきましょう!西洋編です。西洋の歴史も古く、もしかすると皆さんも知っているであろう西洋に代々言い伝えられている『傾国の美女』を10人紹介していきます。皆さんは、今から挙げる西洋の美女たちを全て言えますか?
西洋の歴史から伝わっている『傾国の美女』とは、どんな人を指すのでしょうか?それでは早速ですが、見ていきましょう!ご覧ください。
私たちが知っているクレオパトラは、クレオパトラ7世のことだそうです。『世界三大美女』の1人として数えられている人物です。小さいころからとても美人であり、人々が感心するほどの話術を持っていた魅力ある人物だったようです。そして声もとても美しく、小鳥が鳴いているような声だったそうです。「クレオパトラ」という名前の意味は、「父親の栄光」だそうです。
クレオパトラの肖像画は、横顔しか残っていません。姉のクレオパトラも大変美しい人物だったということが学者の研究結果により判明してきているという話もあるようです。
海外の世界三大美女の1人は、女神のヘレネーです。ギリシャ神話で最も美しいとされる人物です。小野妹子の代わりに数えられている美人の1人です。
女神から実の父は、ゼウスだと言われていたと言います。ヘレネーは、あまりの美しさから戦争を起こした人物だそうです。小さいころから美女だったことから、アーセウス王に連れ去られてしまいます。ギリシャ中の人々から求婚されたという伝説を残しているようです。
求婚をしてきた男性の中からメネラーオスを選び、妻となりましたが、トロイアという国のパリス王子にひかれてしまったヘレネーは、駆け落ちをすることになったのです。そして、この駆け落ちがきっかけとなり戦争にまで勃発したようです。
エイダ・ラブレスは、1815年12月10日に生まれ1852年11月27日まで生きた女性です。イギリスの貴族として生まれた彼女は、とても美人だと有名でありました。数学を愛している人物であり、当時では珍しく女性で頭がよかった人物だと言われています。
彼女は結婚をして3人の子供をもうけます。周りからは誰もがうらやましいと思う生活をしていたようです。彼女の死因は、子宮がんだと言われていますがその時の治療で瀉血(しゃけつ)をしたことによりその治療が失敗して亡くなったと言われています。
ポンパドゥール夫人は、フランスの国王であるルイ15世の公妾(こうしょう)です。 公妾とは、側室制度が許されなかったヨーロッパの歴史的な愛人制度のようなものだと言われています。1721年12月29日に誕生し1764年4月15日(42歳)で亡くなっています。
国王であるルイ15世に愛されていたことで、豪邸をたくさん建ててお金をぜいたくに使う人物として国民からは批判の対象になることも多かったようです。お金の使い方は、自分だけでなく、芸術家の支援などにも使っていたという歴史があるようです。ポンパドゥール夫人は、『七年戦争』が終わった後に、突如病死をしてなくなっています。
ポンパドールは、髪型を表すのに現代では使われている言葉ですが、ポンパドゥール夫人からきているとされています。男性の前髪を高くしているスタイルのことを指しているようです。また、女性の場合は、前髪を膨らませてピンなどで留めるヘアスタイルのことを指しています。当時の貴族の女性が、ポンパドゥール夫人に憧れて真似したことから伝わった髪型だと言えるでしょう。
ウジェニー・ド・モンティジョは、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后です。1826年5月5日 に生まれ1920年7月11日(94歳)で亡くなっていますが、当時としては90歳代まで生きた人は珍しかったとされています。
ウジェニー・ド・モンティジョは、美女でありながらも頭がよくまさに才色兼備な女性と言われていたそうです。人当たりもよくとてもいい印象の人物だったようですね。また、性格も勇敢なところがあり、美しさだけでなく、強さも兼ね備えていた彼女の評判はすぐさまヨーロッパ中を駆け巡ることとなっていきました。そして、国王から様々な人が彼女に求婚を申し込んでいたとされています。
タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァが彼女の本名です。長い名前なので、タチアナ皇女と呼ばれていたことが多かったようです。 1897年5月29日に生まれ1918年7月17日(21歳)の若さでこの世を去っていますが、死因は、家族とともに監禁され、銃殺をされるという悲しい亡くなり方をしています。
彼女は、幼少期の頃からとても美人で、端正な顔立ちであり、鼻が高く、彫刻刀で掘った顔のように美しかったとされています。また、タチアナは細身な体形であり、背も高く、赤褐色の髪色に、濃い青灰色の瞳をしていたという記録が残っているようです。4姉妹でしたが、タチアナが一番美人だったと当時の人々が語っていたようです。
誰もがタチアナと結婚したいと思っていたといい国王の息子と文通をしていたという話も残っているようですね。
エリザヴェータ・ロシア大公妃は、”ヨーロッパ史上最も美しい王妃(プリンセス)”と呼ばれていたとても有名な方です。1864年11月1日に生まれ1918年7月18日(53歳)まで生きた方です。14歳の頃に従弟から求婚を受けますが、それを断り別の男性と結婚をしました。
その男性こそが、ロシア皇帝の息子であるセルゲイです。夫婦で貧困の子どもたちを支える活動に積極的に参加をしていたとされています。そして、エリザヴェータ・ロシア大公妃の美貌は、瞬く間に有名になり彼女のファンがたくさんいたそうです。
夫が先に亡くなるのですが、その後も慈善活動は継続して行われています。ロシア革命で亡くなる最後まで周りの人の手当てをしていた心優しい人物です。
エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハが正式名称です。長い名前だったので、オーストリア皇后やハンガリー王妃と呼ばれることもあります。1837年12月24日に生まれ1898年9月10日(61歳)まで生きています。
彼女が生きていた当時は、美しさに加え、身長170㎝を超えていました。そして、ウエストが51㎝であるという細身の体形であり体重もずっと変わらず40キロ台をキープしていた驚異の体形だったと言われています。今この体形だと、痩せすぎと言われる容姿になってきますね。無理なダイエットを彼女もしていたそうで、年を取ると、だんだん皺くちゃになってきたことから、日傘や帽子などで隠していたという話も残っており、伝説の立ち振る舞いだと言われているほどです。
ウクライナの第10代と第13代首相だったのは、ユリア・ティモシェンコという方です。彼女は、ウクライナの中でも最も資産のある女性として記録されたこともある方です。
まさに、才色兼備の女性であり、美貌も兼ね備えていたことから首相になった当初よりとても話題を呼んでいました。別名「ガスの女王」と呼ばれていたこともあります。オレンジ革命の再投票で、ヴィクトル・ユシチェンコが当選したので”オレンジ革命のジャンヌダルク”と呼ばれるようになったという話もありますね。
しかし、彼女は、殺害事件の関与や脱税などの悪い噂などが広まり、起訴されてしまうこともありました。美しさも兼ね備えた彼女に対しての嫌がらせなのか分かりませんが、罠にはめられた可能性もあるそうです。
最後にお届けするのは、ローラ・モンテスという女性です。彼女の本名は、エリザベス・ロザンナ・ギルバートといいます。ローラ・モンテスは芸名です。彼女は、 1821年2月17日に生まれ1861年1月17日(39歳)まで生きた女性だと言われています。
アイルランドに生を受け、ローラ・モンテスは、とても美少女だと話題になった女性です。幼いころから周りにいた人々に愛され、人気の高い女性でした。そして、ロンドンでは、「スペインの貴族」とウソをついて男性を翻弄したそうです。
男性は、ローラのウソに見事に騙されてしまいうのでした。彼女のその後は、スコットランドやアメリカなど数多くの国を渡っていたそうです。アメリカでは、ダンサーをしていたようです。
これまで世界中の美女たちの紹介をしてきました。美女の基準とは何かということで時代背景から考察をしていきましょう。
日本の美女の考え方を紹介しますので見ていきましょう。
教科書などを見ると、飛鳥時代は、この二つの特徴の顔立ちの人が多く存在していることが分かります。この時代では、この条件をクリアするととても美人だったと言われる時代なのかもしれません。
奈良時代の「美人」の特徴は、このような顔立ちをしている人だったようですね。今の時代とは美人の基準は違いますが、最近では、太い眉が流行っていることもありますのでもしかすると昔の美人顔に戻ってきているのでしょうか?
平安時代の美人の特徴は、これらの条件に教養などがあることが条件だったようです。この時代は、和歌が盛んに読まれていた時代だったので教養も必要になっているのかもしれませんね。
武将が多く活躍をした時代です。このころは、受け身な女性ではなく、活動的な女性が好まれていたようです。美人顔と言えば、能面のような顔立ちをしている人が最も美人であると言われていたようです。
江戸時代の美人の特徴は、上記の4つだと言われています。このころから化粧も薄化粧になっていき、浮世絵の美人顔から変化していったようですね。
近代と呼ばれる時代を一気に見ていきましょう。明治・大正・昭和・平成なども”美人”と呼ばれる人たちの特徴がほとんど変わらなくなってきたのもこの時代です。
洋服がブームになってきたことから、その服に合った顔立ちの人が美人だと言われるようになってきました。目鼻立ちがはっきりとしている人を美人という定義にしているようですね。
歴史上に存在している世界中の傾国の美女を紹介してきました。皆さんいかがでしたか?中国・西洋・そして日本の美女を紹介してきましたが、様々な国で美人の基準が少し違うということもわかりました。
昔の日本は、切れ長の目で丸い顔の女性が美人だと言われていましたね。こうして各国の美人を調べてみるととても面白いです。その人自身の歴史などもわかります。この記事を見て、歴史に興味が出てくれたら幸いです。今回紹介をした方以外にもたくさんの美女が存在しています。ゲームやアニメなどの題材になっている人もいます!
ぜひ、皆さんも調べてみてください!
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【この記事は2020/04/19に更新されました】