初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれるところは存在していました。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主の私的な生活の場である「奥」の境界がハッキリしていなかったのです。この境界がハッキリしたのは、2代将軍・徳川秀忠が「壁書」を制定した時からです。本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分されました。3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていきました。

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