岩佐真悠子の結婚相手は?引退した現在は介護施設で働いている?
2023/12/22
大今里
重信房子さんとは、日本の新左翼系団体「日本赤軍」の最高幹部であり指導者です。中東パレスチナを拠点として革命活動を展開して、テロ事件やハイジャック事件などを日本赤軍のメンバーたちと共に実行しました。
海外に長く逃亡生活を続けていましたが、2000年に別人になりすまして、日本国内に密入国していたところを公安に発見されて逮捕されました。裁判で懲役20年の判決を受けて、現在は獄中にいます。
今回は、そんな重信房子さんがどのような生い立ちから日本赤軍を設立したのかについて詳しくご紹介していきます。
重信房子さんがどうようにして国際的テロリスト、日本の新左翼系団体「日本赤軍」の最高幹部であり指導者になっていったのか、プロフィールや生い立ちを見ていきたいと思います。
重信房子さんは、1945年9月28日の太平洋戦争が終わって間もない頃に、東京都世田谷で4人兄弟の次女として生まれました。
父親の重信末夫さんは四元義隆さんと同郷の鹿児島出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼体金鶏学院の門下生でした。彼女はそんな父親の影響を強く受けて育ったと言います。
とは言っても、ごく普通に成長した重信房子さんは、東京都立第一商業高等学校を卒業後、キッコーマンで働きながら、小学校の教員を目指して、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通いました。大学では文学研究会で「一揆」というミニコミ誌を出していました。
この頃の彼女は、すごく可愛い美人で、周りから注目を集める存在だったようです。しかし、当時の大学生たちには学生運動の嵐が吹き荒れていて、重信房子さんも学費の値上げ反対をきっかけに明大紛争に参加していくことになります。
また、のちに日本赤軍のニュースで、必ず重信房子さんの顔写真が使用されていました。これによって日本赤軍の美人リーダーとしてたびたび報じられ、過激派のテロリストであるにも関わず、可愛いとして人気を集めました。日本赤軍の間でもそのルックスから強いカリスマ性に繋がっていました。
さらには、過激派を取り締まる役目を持っている公安警察の中にも少なくない数の重信ファンとも言える人々が存在していたとの噂もあります。
重信房子さんは、過激な共産主義者や日本赤軍のリーダーで指導員、国際的なテロリストなどの数多くの肩書きを持つことになります。しかし、明治大学に入学するまでの彼女はいたって普通の学生であったと言われています。
ここからは、いかにして重信房子さんが過激な思想を持つ共産主義者となり、日本赤軍を作り上げて、共産主義の女帝とまで言われるような存在になったのかについてまとめていきます。
重信房子さんは明治大学の夜間学校に入学してから、2年生の時に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務め、学費値上げに絡んで明大闘争に参加しました。この時代は、当時の大学生たちによる学生運動の嵐が吹き荒れていました。
そして、明大闘争で全学連によって立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力して欲しいとオルグされ、加入しました。系列の明大現代思想研究会や、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動したり、神田カルチェ・ラタン闘争にも関わりました。
重信房子さんはこの頃、共に学生運動に取り組んでいてのちに親友となる、遠山美枝子さんと知り合っています。彼女は、連合赤軍が引き起こす山岳ベースリンチ殺人事件(連合赤軍山岳ベース事件)の犠牲者となりました。
連合赤軍山岳ベース事件と言うのは、追い詰められた山岳地帯に拠点を置いていた連合赤軍が、逃亡を図るなどした仲間に対して総括(過去を振り返って反省する)と言う名のもとで、壮絶な暴行を加えて、12名を死亡させた事件になります。
この事件が発生した時に、重信房子さんは中東パレスチナにいました。この話を現地で聞いた彼女は、泣いて悲しんだそうです。そして、この悲しみがさらなる革命に駆けたとも言われています。
重信房子さんは活動に熱心で、次第に学生運動の中心的な存在となっていきました。1969年に結成された新左翼、共産主義同盟赤軍派の創立メンバーとなりました。
共産主義同盟赤軍派は、のちに日本赤軍や連合赤軍の母体となる過激な共産思想を持つ集団でした。暴動なども幾度となく起こし、公安警察からマークを受けるようになりました。
重信房子さんは、1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとしました。奥平剛士さんと偽装結婚をして、「奥平房子」という戸籍になり、2月28日に出国しました。のちにパレスチナ人の男性と結婚しています。
その後、奥平剛士さんたちとパレスチナで日本赤軍を結成して、創立当初は「アラブ赤軍」や「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」などと名乗っていました。名称がきちんと定まらなっていなかったのですが、1974年以降は「日本赤軍」を正式名称にしました。
重信房子さんが最高指導者になった日本赤軍は、レバノンのベガー高原を主な拠点にして「革命運動」を自称して、1970年代から1980年代にかけて、様々な事件を起こしました。多数の民間人をも巻き込んだテロ事件などを繰り返して、世界各国から非難を受けるようになりました。
革命戦争を主張する共産主義同盟赤軍派、その前にある作戦を立てます。それは首相官邸や警視庁を武装占拠して、人質をとり服役中の左翼活動家などの開放を要求する計画でした。
実行するにあたって軍事訓練が必要になると、山梨県にある大菩薩峠の山小屋に拠点を置いて、製造した爆弾を使って訓練を開始します。しかし、この計画は公安やマスコミに筒抜けになっていました。
マークしていた公安や、構成員を追及することで大菩薩峠での軍事訓練の現場を押さえ、凶器現場集合罪で現場にいた53人を逮捕します。大菩薩事件で主要メンバーの多くを逮捕され、大打撃を受けた赤軍派は、同時期に重信房子さんも沖縄返還運動に参加した容疑で逮捕されます。徹底的な取り調べを受けましたが、ひと月ほどで釈放されています。
2000年11月8日に大阪府高槻市で逮捕された重信房子さんですが、翌2001年4月に獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行いました。解散の理由は日本赤軍がすでに事実上の壊滅状態にあったためでした。
1980年にはすでにその思想が時代遅れとなっていた日本赤軍は、新たな支持者を獲得することができずに既存メンバーやシンパの高齢化も進んで、先細りの状況にありました。
重信房子さんは2009年に産経新聞のインタビューに答えていて、当時の活動を振り返り、「世界を変えると調子に乗っていた」とかつての活動を否定するような発言をしています。
主要幹部の多くを逮捕されたことで、危機に陥った共産主義同盟赤軍派は、日本国内からの革命は難しいと考えて海外に目を向けました。社会主義国家に潜入して、その国の指導員を巻き込んで暴力革命を起こすべく国際根拠地論を唱えます。
この理論に基づいて、現在でも有名な事件である日航機よど号ハイジャック事件を、1970年3月31日に起こします。9人の犯人たちは乗客を人質にとって、北朝鮮に亡命を希望して、同国に向かうように要求します。
犯人たちはこれによって北朝鮮に亡命を成功させます。この時の犯人グループの1人である、柴田泰弘さんのアルバムの中にチマチョゴリを着た重信房子さんの写真があったとされ、彼女も日航機よど号ハイジャック事件に関係していると疑われています。
重信房子さんは日航機よど号ハイジャック事件を誘発させた、国際根拠地論に基づいて、中東パレスチナに目を向けました。中東パレスチナは同地域にイスラエルが建国されてからは迫害を受けていて、土地を奪われて、長期間に渡る紛争状態にありました。
国際根拠地論とは、先進国における格差をめぐる階級闘争や、発展途上国で民族解放闘争を支援することを目的に社会的主義国家に潜入して、世界規模での暴力革命に発展させるとする思想になります。
この理論に基づいて、共産主義同盟赤軍派は次々と日本から脱出し、海外に拠点を置いて革命運動を行っていくことになります。重信房子さんもこの理論に基づいて、民族紛争が続く中東パレスチナに目を向けたのでした。
重信房子さんは1971年頃には、すでに警察から厳しいマークを受けていました。そのため、海外に秘密裏に渡航するために、同じく革命活動家の学生であった奥平剛士さんと偽装結婚をして、戸籍を変えて「奥平房子」として中東パレスチナに渡航を成功させます。
目的は中東パレスチナに赤軍派の活動拠点地となる基地を作るためでした。彼女は、奥平剛士さんたちと協力して、現地の武装組織、パレスチナ解放人民戦線PFLPなどと連携をしながら、革命活動を過激化させていくことになります。
重信房子さんらが中東パレスチナで革命活動を過激化させていた頃、日本国内では連合赤軍によって現在でも有名で、いくつもの映画の題材にもなった「あさま山荘事件」が発生しています。
1972年2月19日に、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢の山荘「あさま山荘」に人質を取り、立てこもりました。機動隊など1,000人規模の包囲を展開しますが、犯人グループは銃器やパイプ爆弾で武装して、人質救出は難航を極めました。2月18日に機動隊が強行突入して人質の救出に成功しました。
犯人5人たちは逮捕されますが、機動隊員2人、民間人1人が死亡して、その他27人が負傷するという大事件でした。この事件が発生したことで、赤軍派含む新左翼団体の危険性がより認識されることになりました。
一方でパレスチナに滞在して拠点を築いていた重信房子さんらのグループもイスラエルテルアビブ近郊にあるロッド空港で大事件を起こしています。1972年に、パレスチナ過激派がベルギーでハイジャック事件を起こして、仲間の開放を要求しました。
しかし、計画は失敗し、犯人2人が射殺されます。重信房子さんらと協力関係にあったパレスチナ解放人民戦線PFLPは報復を計画します。その計画は、イスラエルロッド国際空港を襲撃する作戦です。
紛争が続くイスラエルにアラブ系のテロリストを送り込むのは困難なので、日本人である奥平剛士さんたちメンバーに協力を依頼しました。
この作戦には、奥平剛士さんと京都大学と鹿児島大学の学生だった安田安之さんと岡本公三さんの3人のメンバーが参加しました。自動小銃と手りゅう弾で武装して、フランスのパリを経由してイスラエルに入国し、ロッド航空に侵入しました。
航空内で彼らは、警備員や乗客などに向けて自動小銃を無差別に乱射し、26人を殺害して、73人が重軽傷を負いました。また、空港内に駐機していた旅客機に手りゅう弾2発を投げつけて、爆破を試みるなどもしています。
奥平剛士さんは警備隊に反撃されて射殺されました。安田安之さんは手りゅう弾で自爆して、残る岡本公三さんは警備隊に取り押さえられて逮捕されました。重信房子さんは事件後に、奥平剛士さんの遺書を受け取ったことで、グループのリーダーとなる決意をしたとされています。
重信房子さんたちメンバーは、パレスチナに活動の拠点を移すにあたって、同じく共産思想(マルクス・レーニン主義)を掲げていたパレスチナ解放人民戦線「PFLP」との協力関係を申し入れました。
彼らの元で自動小銃や手りゅう弾などの本格的な武器を使用して、激しい軍事訓練を受けながら共同生活を送りました。それらをすることで、次第に密接な協力関係を築いていきました。
テルアビブ空港事件で奥平剛士さんたちがヒーローみたいになったことで、重信房子さんらグループはPFLPの絶対的な信頼を得えることが出来ました。以降、日本赤軍とPFLPは共同作戦で何度も過激テロ行為を実行していくことになります。
同志だった奥平剛士さんの死を受けて、重信房子さんは自分がリーダーになる覚悟を決めて、PFLPと一緒に犯行声明文を出します。この時に「日本赤軍」と正式に名乗ることになりました。
重信房子さんに率いられた日本赤軍は、「ドバイ日航機ハイジャック事件」や「シンガポール事件」、「ハーグ事件」などの数多くの凶悪テロ事件を発生させて、世間を騒がせることになります。
その後、彼女と日本赤軍は、主に中東地域の反イスラエルアラブ国家からの資金援助や、武器援助などを受けています。1990年代にアラブ国家からの支援が無くなるまで、その勢力は維持されていたとされています。
重信房子さんは、海外に潜伏して、20年以上も逃亡を続けていましたが、2000年に偽造パスポートを使って秘密裏に日本国内に不法入国し、大阪で逮捕されました。逮捕されたきっかけは、重信房子さんのあるクセだというのですが、そのクセとはなんだったのでしょうか?
1974年9月に日本赤軍はオランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を襲撃しました。大使らを人質に取り立てこもって、フランス当局に捕まっていた仲間(山田義昭さん)の釈放を要求するという事件が発生しました。これを「ハーグ事件」と呼びます。
重信房子さんはこの事件に関与したとし、逮捕監禁・殺人未遂などで共謀共同正犯の容疑で国際指名手配をされました。
重信房子さんは、1974年9月に発生した「ハーグ事件」に関与した疑いで国際指名手配されていました。
海外に潜伏して、20年以上も逃亡を続けていましたが、2000年に偽造パスポートを使って秘密裏に日本国内に不法入国していたところを逮捕されています。
赤軍派として活動していた時期の仲間がいまだに大勢国内にいて、密入国も潜伏も、彼らが手引きをしていて、支援していたようでした。しかし、逮捕につながった情報もまた赤軍内部からのものであったとされています。
日本国内に入国してからは、しばらくは大阪市西成区のマンションで潜伏して生活していたようです。
2000年9月に香港から関西国際空港を経て入国していました。過去3年の間に4回も日本に不法入国した記録があったそうです。パスポートは写真だけ本人で、名前は別人の名義でした。
公安に「重信房子に似た女がいる」との情報が入り、捜査員が支援者を見張っていました。すると程なくして、似ている女と接触するのを確認して、その動向を追っていたそうです。
その後、逮捕の決め手となったのが、重信房子さんのタバコを吸う時に手のひらを上に向けて吸う独特のクセがあったのだと言います。見張っていた捜査官はその女のタバコを吸う仕草を見て確信したそうです。
その時、その女が飲んでいたコーヒーカップを押収して、指紋を接取したところ重信房子さんのものと一致し、確証を得て逮捕に踏み切りました。国際指名手配から26年目にしてようやくの逮捕となりました。
最高幹部で指導者であった重信房子さんは逮捕されましたが、日本赤軍の主要メンバーのうち7人がいまだに逮捕されていなくて、国際指名手配を受けています。
7人ともが銀行強盗や爆破事件、人質立てこもり事件、ハイジャック事件、国際テロ事件などの実行犯などに関与している凶悪犯罪者たちです。
彼らの中には、一度も逮捕されても、捕まっていない仲間が罪のない民間人を襲い人質にし、解放と引き換えに釈放されて逃亡しているものもいて、極めて凶悪な犯罪者となっています。
1974年9月に起こったハーグ事件に関与したとして、逮捕監禁・殺人未遂などで共謀共同正犯で、2000年に逮捕されました。裁判を受けたのち、無罪を主張しましたが、懲役20年の判決を受けました。
この判決に対して、娘の重信メイさんと主任弁護士は同日控訴、同時期に連動して動いていたとされるベネズエラ人テロリストの証言などを得るが、破棄されます。その後、上告しますが、これも破棄され刑が確定されました。
懲役20年の刑が確定したのは2010年でしたが、約3年間の未決拘留機関(刑が確定するまでの拘留されていた期間)は刑期含まれるので、実質の懲役は17年になった、重信房子さんの出所は2027年の予定となっています。
重信房子さんは現在、服役しながらガンの抗がん剤治療をしているそうです。彼女の近況については、本人の日記をある団体が機関紙にしてそこに掲載されているので、それを読むことで詳しく知ることができるそうです。
ここでは、日記が掲載されている機関紙や、本人の日記を紹介しながら、近況をみていこうと思います。
重信房子さんは2008年に小腸ガンが見つかり、八王子医療刑務所に移送されました。その後、大腸や卵巣、子宮に転移していて、3度の手術を受けて、いずれも成功したそうです。
また、もう転移の恐れがないとの情報もありますが、体調はあまり良くないと本人の言葉もあります。抗がん剤の治療は依然として続けられているとのことですが、現在の重信房子さんの健康状態は不明です。
重信房子さんは現在、日本全国で4ヵ所ある医療刑務所の中のひとつである、八王子医療刑務所に服役中とされていましたが、2018年1月14日に昭島にある東日本矯正医療センターに移送されています。
重信房子さんの現在の情報は、先に紹介した「重信房子さんを支える会」が発行する「オリーブの樹」に、本人の日記が掲載されてることで、近況報告を行っています。
最新のものでは、2018年8月7日までのものが掲載されています。現在も生存されていて、日記の内容は政治や革命運動の話の他に、天気の話や自身の体調の話などが触れられています。
重信房子さんの現在の情報は、「重信房子さんを支える会」という団体が発行する機関誌「オリーブの樹」で、本人の日記を掲載することで近況報告をしています。
それでは実際に「重信房子さんを支える会」の発行する「オリーブの樹」に掲載されている日記の一部をご紹介します。
「送ってもらった「アジブラは語る」を読み返しながら、60年代の京都の友人たちと教訓をいつか語り合いたい。」「お盆法要に和尚さんとメイの友人のМちゃんが来てくれた。体調を崩していることを先に断った上で、読経でお盆法要をしてもらった。」
日記には60年代の学生運動を振り返った内容が多く見られます。重信房子さんの中では、まだ革命に対する思いが消えていないのでしょうか?また、ジャーナリストとして活躍されている娘の重信メイさんについてもたまに書かれています。
重信房子さんには、パレスチナ人活動家の間に生まれた娘、重信メイさんがいます。重信メイさんは現在45歳で、母親の房子さんが潜伏していた中東パレスチナで生まれ育ちました。
2001年に日本国籍を取得して、河合塾の講師として生活しながら、ジャーナリストやニュースキャスターとしても活動されています。また、中東放送センターの東京特派員も務められています。
母子の関係は良好のようで、母親についての著書なども発表されています。また、重信房子さんも美人で可愛いと言われていましたが、娘の重信メイさんも母親同様、美人で可愛い方です。
今回は日本赤軍を率いた過激な共産主義者であり、国際的テロリストの重信房子さんの半生について詳しく説明してきました。壮絶な人生を送ったのち、逮捕され現在は無罪を主張しながら、獄中で生活しています。
獄中で書かれている日記には、いまだに共産主義的な政治思想が色濃く見えていますが、20代から人生を支えた共産革命は終わりを迎えて、もはや完全に否定されています。
資本主義経済の中で生きていく辛さも人々の間で語られだしたここ数年の中で、重信房子さんは獄中で何を考え、日々を送っているのでしょうか?
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局