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不敗で知られる牛島辰熊って誰?ゴールデンカムイ・牛山のモデルか?

牛島辰熊という伝説の柔道家を皆さんご存知でしょうか?実はこの方「不敗の牛島辰熊」や「鬼の牛島辰熊」という異名を持つくらい強い柔道家だったのです!また人気漫画『ゴールデンカムイ』に出てくる牛山のモデルとの噂も...。そこで今回は牛島辰熊を徹底調査していきます!

牛島辰熊はどんな人?「ゴールデンカムイ」の牛山とは?

牛島辰熊さんは伝説の柔道家として知られていました。現在の日本の柔道界でずっと語り継がれている人物でもある、史上最強の柔道家・木村政彦さんの師匠でもあり、思想家としての顔も持っていました。

そんな牛島辰熊さんが、現在「週刊ヤングジャンプ」で連載中の大人気漫画「ゴールデンカムイ」に出てくるキャラクター・牛山辰馬のモデルになっているとの噂もあるようです。

牛島辰熊さんとは一体どのような人だったのでしょうか?戦時中に首相だった東条英機氏を暗殺しようとしていたという噂もあるので、これから詳しく見ていきたいと思います!

鬼と呼ばれた男・牛島辰熊って誰?

牛島辰熊さんは柔道で圧倒的な強さを誇り、昭和初期を代表する柔道家でした。牛島辰熊さんは「鬼」と呼ばれる事もあったのだとか。見た目はハーフ?と思われるような濃い顔立ちであり、イケメンでカッコいいという声もあるほどです。

どれほどの強さだったのか、牛島辰熊さんのプロフィールやあだ名、強さの秘訣である柔道スタイルなどを見ていきましょう。

牛島辰熊のプロフィール

  • 本名(ふりがな/愛称):牛島辰熊(うしじま たつくま/鬼の牛島)
  • 生年月日:1904年3月10日
  • 出身地:熊本県熊本市
  • 血液型:不明
  • 身長:170㎝
  • 体重:85㎏
  • 活動内容:柔道家
  • 家族構成:兄、妻

「鬼の牛島」・「不敗の牛島」と言われていた

牛島辰熊さんは圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」や「不敗の牛島」と呼ばれていました。試合の前日にはスッポンの肉を食べて、血を飲むという食事をしており、スッポンでスタミナチャージをしていたそうです。

さらに、試合当日はマムシの粉を口の中に入れたまま試合に臨んでいたのです。口に含んでいるマムシの粉の臭いをまき散らしながらだったので、試合の相手はビックリした事でしょう!

牛島辰熊さんは試合に勝つために健康食材を取り入れていたのでしょう。そして、試合中の鋭い眼光が鷲のようで相手が怯んでしまうほどだったようで、話を聞いた方達や対戦相手はそんな様子を「鬼」に例えたのかもしれません。

牛島辰熊の柔道スタイル

牛島辰熊さんは古流柔術である肥後柔術を、お兄さんの影響で始めます。肥後柔術は判定で勝利するという方法ではなく、「参った」というまで勝負を続けるという方法でした。古流柔術は殺人武術という位置づけだったのです。

牛島辰熊さんは一番得意な技は寝技としており、内股や背負い投げ、横四方固めなども得意技だったそうです。

牛島辰熊さんのモットーは「生の極限は死、死の極限は生」としており、死ぬ寸前まで稽古をすれば覚醒して潜在能力を自分の中から引き出せるのでは?と考えていたのでした。

鬼や不敗と言われた牛島辰熊の経歴

牛島辰熊さんの「鬼の牛島」と言われていたことや、柔道スタイルは分かりましたが、一体どのくらいの強さだったのでしょうか?

牛島辰熊さんが優勝した有名大会の試合のエピソードや、選手を引退するまでの経歴をここからは見ていきたいと思います。

明治神宮大会を3連覇

牛島辰熊さんは、1925年(大正14年)第2回明治神宮大会の青年団の部で、見事優勝しています。その後も第3・4回明治神宮大会で優勝し、3連覇を果たしていたのです!

明治神宮大会とは現在でいう日本一決定戦のような大会だったので、牛島辰熊さんは柔道で3年連続日本一になったという事になります。

第1回天覧試合で準優勝

1929年に開かれた、第1回天覧試合では牛島辰熊さんは惜しくも準優勝になりました。天覧大会とは天皇が観戦する武道やスポーツ競技の事であり、第1回天覧試合は昭和天皇即位の礼の記念で開かれたのでした。

予選では寝技ですべて一本勝ちをしていた牛島辰熊さんでしたが、決勝戦では栗原民雄氏との試合で25分間もの長い時間を戦い続けましたが、残念ながら判定で敗れてしまいました。

この試合で準優勝だったことがとても悔しかった、牛島辰熊さん。第2回の天覧試合では優勝をする事を誓い、開催されるまでの間に熊本から上京し、拓殖大学などで師範を務めながら猛特訓を繰り返していったのでした。

第2回天覧試合での敗北

待ちに待った第2回天覧試合は、平成の天皇である継宮明仁親王の誕生の記念に開催されました。猛特訓を繰り返していた牛島辰熊さんでしたが、予選リーグ敗退してしまうのです。実は天覧試合の半年前から牛島辰熊さんは体調不良だったのでした。

過激な練習を繰り返した結果、肝臓ジストマ・胆石・肋膜炎の併発で一時は出場も危ぶまれたほどでした。昭和天皇からお見舞いの言葉ももらっていた事もあり、なかなか良くならない肉体を精神力でカバーしようと朗読などをして試合に臨んでいたそうです。

しかし、体調が完全ではなかったので惜しくも予選リーグで敗退してしまい、身体の限界を感じていた牛島辰熊さんは、柔道選手を引退して「牛島塾」を開いて若い柔道家達を育てていくようになるのです。

牛島辰熊がゴールデンカムイに出てくる牛山のモデルって本当?

牛島辰熊さんの伝説的な凄さがお分かりいただけたと思いますが、実は大人気漫画「ゴールデンカムイ」のキャラクター・牛山辰馬は、牛島辰熊さんがモデルではないかといわれているそうです。

「ゴールデンカムイ」はアニメ化されるほど大人気の作品。「ゴールデンカムイ」が大ヒットしていることで、牛島辰熊さんの名前が注目されているようなのです。本当に牛山辰馬というキャラクターは牛島辰熊さんがモデルにされているのでしょうか?

どこが似ているのか比べて見ていきたいと思います!

理由①どちらも不敗だから

牛島辰熊さんは「不敗の牛島」と呼ばれるほど、有名な大会で3連覇したりと負け知らずの経歴を持っています。

「ゴールデンカムイ」の牛山辰馬は、10年間無敗を誇っている「不敗の牛山」というあだ名がついた柔道家というキャラクター。

「不敗の牛島」、「不敗の牛山」というあだ名が一緒で、柔道家という設定も同じです!

理由②容姿が激似だから

牛島辰熊さんは濃い顔立ちで骨格がはっきりとしています。現代に残っている写真では、口元に髭を生やしている写真が多く存在しているようです。

そして「ゴールデンカムイ」の牛山辰馬は、同じように骨格がはっきりとしていて口元に髭も生やしています。牛山辰馬はおでこがボコッと出ているのが特徴的ですが、がっちりとした体つきも牛島辰熊さんに似せているように見えます。

理由③苗字と名前に同じ漢字があるから

お互いの名前はとても似ています。牛島辰熊さんの苗字の「牛」、名前の「辰」を牛山辰馬は使っていて、さらに牛島辰熊さんの名前の「熊」を「馬」に変えている所も、動物の名前を使っている事からあえて似せているように思えます。

理由④大木への打ち込みをしているから

牛島辰熊さんは厳しい訓練の中で、大木を1000本打ち込みをしていたという話があります。そして、「ゴールデンカムイ」の牛山辰馬もまた作品中で大木に紐をくくりつけて、背負い投げのフォームの練習をしている様子があるのです!

「ゴールデンカムイ」に出てくるキャラクターの中で一番剛力という設定でもある、牛山辰馬。見た目や経歴、名前、そして訓練方法まで一緒ということで、これは間違いなく牛島辰熊さんをモデルに作り上げたキャラクターなのでしょう。

牛島辰熊の弟子・木村政彦って誰?

牛島辰熊さんには愛弟子が居ました。日本の柔道界のレジェンドと呼ばれるほど、史上最強の柔道家・木村政彦さんです。

牛島辰熊さんが引退して指導する側に転向した際、当時高校生にして「怪童」と呼ばれるほどの柔道の実力を身につけていた木村政彦さんを、牛島辰熊さんは自分の家へ引き取り立派な柔道家として育て上げるのでした。

牛島辰熊さんの愛弟子であり、史上最強の柔道家・木村政彦さんとはどのような人物だったのでしょうか?

木村政彦のプロフィール

  • 本名(ふりがな/愛称):木村政彦(きむら まさひこ/鬼の木村)
  • 生年月日:1917年9月10日
  • 出身地:熊本県飽託郡川尻町
  • 血液型:不明
  • 身長:170㎝
  • 体重:85㎏
  • 活動内容:柔道家・プロレスラー
  • 家族構成:父、妻

木村政彦の経歴・柔道家としての活動

木村政彦さんは、牛島辰熊さんの弟子として拓殖大学に通いながら厳しい訓練をしていました。1937年に日本選士権(のちの全日本選手権)で優勝し、3年連続で優勝し続けます。その後、1940年に行われた天覧大会では5試合すべて一本勝ちで優勝するのでした。

木村政彦さんは15年間不敗という記録を更新し続けますが、太平洋戦争後に柔道を禁止する流れになっていき、生活が困窮になっていきました。その頃、師匠の牛島辰熊さんがプロ柔道を旗揚げした事で、木村政彦さんはプロの柔道家として活動していきます。

しかし、プロ柔道も経営が困難になっていき、給料が未払いという状態が続いたそうです。妻が肺病になってしまった事もあり、木村政彦さんは治療費を稼ぐためにハワイへと渡航して柔道巡業を始めるのでした。

木村政彦の経歴・プロレスラーとしての活動から指導する側へ

ハワイで柔道巡業している時に、プロレスの世界に誘われプロレスラーに転身した、木村政彦さん。日本に帰国後、人気プロレスラー・力道山とタッグを組むことになりますが、引き立て役が多かった木村政彦さんは不満が絶えなかったそうです。

タッグを組んでいた力道山とは険悪な関係になってしまい、2人は「昭和の巌流島」と称した戦いをします。その戦いで木村政彦さんはKO負けしてしまいますが、様々な問題があった試合でもあり、世間を賑わせてとても話題になりました。

1961年に柔道界に再び戻ってきた木村政彦さんは、母校・拓殖大学の柔道部で監督になり、多くの柔道家を育てる立場へとなっていきました。

牛島辰熊と木村政彦の関係