2021/03/01
gomachan
2018年9月に樹木希林さんがお亡くなりになりました。
死因は全身がんだそうです。
樹木希林さんが全身がんであることを公表したのが5年前でした。
一番初めに見つかったのは乳がんで、それは14年前のことです。
それからずっと樹木希林さんは闘病生活をしてこられたのでですが、その傍らで樹木希林さんをずっと支えてきたのが、一人娘の内田也哉子さんだったそうです。
内田也哉子
職業:日本のエッセイスト、歌手、女優
生年月日:1976年2月11日
出身地:東京都
著名な家族:父・内田裕也、母・樹木希林、夫・本木雅弘(子供は2男1女)
1999年に産まれた娘・内田伽羅も女優デビュー。
内田也哉子さんは、1976年内田裕也さんと樹木希林さんの間に一人娘として生まれました。
東京都のインターナショナルスクールに入学され9歳の頃には1年間ニューヨークにてホームステイを経験。都立高校2年生の時にスイス、ジュネーブのインターナショナルスクールにご入学されました。
学生時代から、様々な感性を身につけようと色々な都市で過ごされました。
内田也哉子のペーパームービーを最初に読んだとき、幼少期から我が道を歩み、いともあっさりと大切な決断をしてみせる彼女が潔くうらやましかった。
幼いころから大切なことはすべて自分で決断するというのが母の教えだったのだそうだ。
「親と子が育てられるとき」より抜粋
也哉子さんが実は無認可だったインターナショナルスクールに通っていたために、日本の義務教育を再履修しないといけない、と役所で言われた際、
「そうですか、ではそのようにいたします」
とお答えになり、18歳で小学校卒業か、と也哉子さんを青ざめさせたらしい。
「今まで自分たちが勝手に、決まりを守らないでいて、今度も勝手に戻りたいとわがままを言っているのだから、相手のルールにしたがうのが当たり前とういわけだ」
希林さんはどこまでも潔い。
一言も弁解せず、自らの非を素直に認め、受け入れた樹木希林さんの態度のお陰で、娘の也哉子さんは無事、年齢通り、公立小学校の6年生になることができる。
「ややこ、自分に起こる大半のことは、自分に原因があるんだからね」
インターナショナルスクールから日本の学校に移って、周囲に馴染めなかった娘の内田也哉子に母親の樹木希林が言った言葉です。
相手が変わってくれることを望むのでなく、なにか問題があるならば、まず自分が変われと、小学校6年生の也哉子に丁寧に話してくれたそうです。
個性派女優 樹木希林さんとお騒がせロック歌手で有名な内田裕也さんの娘として生まれた内田也哉子さん。
芸能人二世という立場は一般的には恵まれていると思われがちですが、内田也哉子さんの場合、決して恵まれた家庭環境であったとは言えないでしょう。
ある意味、強烈な「動」の性質を持つ父、母のDNAを受け継いでいるにも関わらず、なぜか内田也哉子さん本人は「静」の性質を持っているように見受けられます。
そんな複雑な環境の中にありながら、内田也哉子さんは独特の世界観とアーティスティックな感性を育てていきました。
正直なところ、父親のいない生活は恵まれてはいませんが、内田裕也さんという父親が傍にいたら、今の内田也哉子さんはいないのかもしれません。
樹木希林さんが亡くなりになった約半年後、内田也哉子さんの父である内田裕也さんがお亡くなりになりました。内田裕也さんのお別れ会で娘である内田也哉子さんが弔辞で言った言葉が話題になったそうです。
私は正直、父をあまりよく知りません。わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が、数週間にも満たないからというだけではなく、生前母が口にしたように、こんなに分かりにくくて、こんなに分かりやすい人はいない。世の中の矛盾を全て表しているのが内田裕也ということが根本にあるように思います。
(中略)
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼(しんきろう)のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。
79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin' Yuya Uchida,
don't rest in peace
just Rock'nRoll!!
内田也哉子さんが父である内田裕也さんに送った最後の英語の一言は、長年ロックンローラーを貫いた父に贈る言葉としてとても相応しかったことでしょう。
内田也哉子さんは母である、樹木希林さんのお別れ会で内田裕也さんのお話をしています。樹木希林さんと、内田裕也さん二人のどちらかのことを話すには二人のどちらも欠けてはならないので二人のお話をしたのでしょうか。
本木雅弘さんと内田也哉子さんが出会ったきっかけは、本木さんが海外の映画賞を取材する番組で海外に行く際、内田也哉子さんが通訳として同行したのがきっかけで知り合ったようです。二人の年の差は10歳でした。
本木さんが内田也哉子さんに対する第一印象は
「ルックス・年齢は若いのに仕草や佇まいが大人でアンバランスな感じがいい」とのことだったらしいです。
10歳も離れているも本木さんから内田さんにアプローチがあったそうです。本木さんは「ベタベタする女の子は苦手、きゃあきゃあ騒ぐ子もダメ」と言っていたので内田さんは落ち着きがあり、本木さんにとって理想の女性だったのではないでしょうか。
当時まだ10代だった也哉子さんに送ったプロポーズが大変胸を打つものでした。
「私には白髪のあなたが想像できるし、そういうあなたが愛おしいと思える気がする。 今すぐじゃなくても、いつか結婚という選択肢が現れたとき、私もそこに入れてください」
素敵…。(モックンが言ってると思ったら5割増しで素敵…)
也哉子のもとに本木雅弘が婿入りした。樹木が本木に「内田の姓を残したいから」と頼み込んだ末のことだった。やがて2人の孫が生まれると、樹木と本木は都内に3階建ての二世帯住宅を新築。樹木は娘夫婦との新しい生活を始めた。
同居の理由について、芸能関係者はいう。
「“年齢の幅の広い家族は子供にいい影響を与えるから、一緒に住まない?”と樹木さんが本木さんに提案したんです」
本木さんは婿養子として内田家に入りましたので、現在の本名は内田雅弘さんです。
(中略)
婿とは、妻の側の姓に改姓することで、婿養子とは妻の側の両親と養子縁組をすることなのだそうです。
婿養子に入るメリットは、やはり相続に関することですね。
逆に、婿の側からは妻の両親に対して扶養義務が発生します。
また、離婚をしても養子縁組は離縁手続きを取るまで続きます、婿養子は単なる婿に比べ、かなり家との密接な関係が生じるということですね。
女優・樹木希林が13日、都内で行われた映画『わが母の記』の“母の日”舞台あいさつに登壇し、サプライズ登場した娘婿で俳優の本木雅弘から花束を受け取った。本木の登場をまったく知らされていなかった樹木は「うわぁ、何!?」とうろたえながらも、孝行息子の優しさに感極まった様子。うっすらと涙を浮かべ「私だけじゃなく夫(内田裕也)の面倒も見てくれてるし、頭が上がらないです」とテレ笑いを浮かべた。
樹木が死の支度を託しているのが娘婿の本木雅弘(47)だ。
01年に都内に構えた二世帯住宅の1階部分に樹木が、2階部分に本木が住んでいる。
樹木は本木に亡くなった後のことも一通り話ししてあるそうだ。
すでに遺書も書き、本木に全幅の信頼を寄せて、死の準備を進めているそうです。
本木雅弘さんは樹木希林さんの娘婿というだけではなく、戸籍上では息子という立場にもなるんですね!
現在、癌であることを公表し闘病中でもある樹木希林さんですが、マスコミに向けた言葉の数々からも、本木雅弘さんに対して絶大な信頼を寄せていることが分かります。
1996年、自身の生い立ち、家族、本木雅弘との出会い・結婚生活等を綴った『ペーパームービー』を出版。独特の感性で紡がれた文体は、吉本ばななの再来と絶賛される。
語学力を生かし翻訳活動も行っており、『たいせつなこと』をはじめ絵本の翻訳も(本木雅弘も参加)。また、幼児教育に関する活動にも熱心で、講演活動等も活発に行っている。
小さい頃、わりと家の中にいろいろな本があって。絵や写真が好きなんですよね。ビジュアルから入って、そこに添えられた言葉でまた遊んでいくっていうのがとっても好きです。
大人になってからアメリカの本屋さんで見つけたのが、『たいせつなこと』っていうマーガレット・ワイズ・ブラウンの本なんですけど。これはとってもシンプルだけど、味わい深い本で。もう60年以上も前の作品なんですが、絵も本当に素敵で。この本が「好きだ、好きだ」と言っていたら、まだ日本では翻訳されていなかったので「訳してみませんか?」とお話を頂いて。それがお仕事として絵本の世界に足を入れさせていただいたきっかけなんです。
「絵本のチカラ 谷川俊太郎×内田也哉子」インタビュー内容より抜粋
【著書】
1996年、「ペーパームービー」
2001年、「会見記」
2002年、「親と子が育てられるとき」(志村季世恵と共著)
2004年、「ROOCH」
【訳書】
2001年、「たいせつなこと」(マーガレット・ワイズ・ブラウン著)
2003年、「岸辺のふたり」(デュドク・ドゥ・ヴィット著)
2005年、「恋するひと」(レベッカ・ドートゥルメール著)
自分が非常に恵まれているということを、ここまで素直に感じて書けるってことに感心した。文庫には「東京タワー」出演時のエピソードも収録されていて、映画を観ていたのでなるほどと思った。
エッセイ執筆や絵本の翻訳を中心に文筆活動を行う内田也哉子、COMBOPIANO名義で独自のサウンドを追究し続けるピアニスト、コンポーザーの渡邊琢磨、UA他多数のアーティストのサポートメンバー、プロデューサーとしても活動するLITTLE CREATURESの鈴木正人によるユニット “sighboat”。2005年3月、1stアルバム『sighboat』でデビュー。そのポップでありながら、ヒリヒリとした世界観で多くの人々を魅了している。
- sighboatはどういう繋がりで結成されたのか? -
鈴 木正人:最初は(渡邊)琢磨がCOMBOPIANOで詩の朗読をしてくれる人を捜してて、その時のディレクターが也哉子ちゃんを琢磨に引き合わせたんだと思います。それで最初は2人で色々やってたみたいなんですけど、「也哉子ちゃん、歌も歌ってみたら良いんじゃない?」って話が出たらしく、「じゃあ鈴木君手伝ってよ」みたいな。
「青柳拓次&鈴木正人ロング・インタビュー」より抜粋
鈴木正人:也哉子ちゃんはsighboatで歌い始めたから、「私これでいいのかしら。大丈夫かしら。」とかいつも言ってるけど、歌い始めるとすごい堂々としてる。そのしおらしい所とは別にパンク的な感じの部分もあったり、アンビバレントな感じの人ですね。前に也哉子ちゃんが酔っぱらって、俺を後ろから抱き上げたことがありますもん(笑)。
「青柳拓次&鈴木正人ロング・インタビュー」より抜粋
映画「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」で樹木希林演ずる「オカン」の若い時を演じた内田也哉子
【映画出演】
1997年、東京日和
2007年、東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
オカン(演・樹木希林)の若い頃 役
2012年、わが母の記 若き日の八重(演・樹木希林) 役
【NHKテレビドラマ】
1985年、花へんろ・風の昭和日記 巡子 役
【CM】
1997年、資生堂・プラウディア
『わが母の記』。この映画が第35回モントリオール世界映画祭コンペティション部門に出品され、現地時間の8月27日に記者会見と公式上映が行われた。
プレス試写会には本木雅弘の息子で樹木にとっては孫に当たる内田雅楽も通訳担当として登壇。樹木は内田を指さし「私の孫です。映画が好きな13歳です」と紹介した。
2011年8月 掲載記事
父親に顔立ちはそっくりなイケメンで、かなりの長身で195cmもあるのです。
国際感覚を身につけさせるために、スイスのセレブたちがいく寄宿学校に留学しました。「Le Rosey(ル・ロゼ)」は1880年に設立されたスイス最古の寄宿学校の一つなのです。
また、学費が世界最高額の私立学校として有名で、世界中のお金持ちの子息が集い、学費は年間8万ポンド(約1650万円)なんだそうです。
しかしお祖父ちゃんの内田裕也さんによれば、現在は米マイアミ州にあるバスケットボールの強豪校に転校したということです。
何でも身長が1m95cmあるそうで、スカウトされたんだそう。日本人離れしていますね。
小さいころはインターナショナルスクール
に通学していたそうです。
現在は何とイギリスに留学中。
2015年現在で15歳の伽羅ちゃん。
年齢的に現在は高校に入学したころですね。
イギリスの高校に通っている感じですね。
『おくりびと』(08)の脚本家・小山薫堂の構成による実写3D映画『FURUSATO 宇宙からみた世界遺産』(6月19日公開)に出演している、本木雅弘と内田也哉子の長女・内田伽羅(10)。
先日、本作を娘・伽羅とふたりで見た本木は、「今のところ娘は仕事を続ける意思はありませんが、いい経験をさせていただきました」と述べた。
父親譲りか、また、祖父・内田裕也、祖母・樹木希林をはじめとした芸能人ファミリーのDNAの成せる技か、清楚な演技を見せた娘・伽羅に、芸能界の先輩として太鼓判を押した。
女優・樹木希林と孫の内田伽羅(きゃら)が5日、都内で行われた映画「奇跡」(6月11日公開)の完成披露試写会に出席。
劇中では同時に登場する場面はないとはいえ、68歳の樹木は、11歳の孫と“初共演”を果たし、ご機嫌。
今回、祖母の樹木希林と共演も果たしているが、出演に関しては、自らの意志でオーディションを受けてつかみ取ったものだ。
完成会見では、両親である本木雅弘&内田也哉子が「(娘の出演に)乗り気じゃなかった」と明かしたものの、これだけの逸材を今後も周囲が放っておくはずがない。11歳にして、親の七光りでないことを証明した彼女の演技はまさに必見だ。
長女の内田伽羅さんは女優としてデビューしており、映画『奇跡』で最優秀新人女優賞を受賞しています。親子三代にわたって女優ってすごいですね。共演したら話題になりそうです。
娘である内田也哉子さんも樹木希林さんと共演を果たしていますが、孫娘である伽羅さんも樹木希林さんと映画共演を果たしました。
伽羅さんは10歳の頃に一度、短編映画にも出演していたんですね。
演技力にも定評があるようなので今後の活躍が楽しみです。
また、お兄さんの雅楽さんも語学堪能、スポーツ万能、イケメンと3拍子揃っているようですのでその存在がクローズアップされる日も近いことでしょう!
樹木希林さんの娘である内田也哉子さんはおっとりとした雰囲気を持った女性のようですが、その周りを囲むご家族がなんとも強烈です。
ですが、そんな個性的な家族がまとまると凹凸が上手く嵌まっているかのような妙な一体感を感じます。
個々が際立っていながら色とりどりな華が生けられた花器のようです。
自分らしさを貫き、好きな仕事をして、娘夫婦とかわいい孫 (と呆れながらも大好きな夫 内田裕也さん)に囲まれている樹木希林さんも癌を患い死と隣り合わせでありながら誰よりも幸せそうに見えます。
今後も樹木希林さんと樹木希林さんの娘家族から目が離せませんね!
15歳の頃に樹木希林さんにお父さんと食事に行くようにと言われて、お父さんの内田裕也さんと合流されたところ、そこにいたのが、本木さん(当時25歳)だったそうです。
本木さんと内田裕也さんは、映画で共演された縁で、一緒に食事をされていたそうです
当時は、お互い、特に特別な感情はなかったそうですが、
本木さんがアカデミー賞授賞式のナレーターの仕事で、アメリカに行かれた際に、留学中(当時16歳)の也哉子さんが、
通訳として同行されると、その後、本木さんからアプローチを受けたそうで、
帰国後、本木さんと文通で交流を続けられると、まだ正式に交際していなかったのに
内田也哉子さんが17歳の時、本木さんから、プロポーズを受けたそうです。
私には白髪のあなたが想像できるし、
そういうあなたが愛おしい、と思える気がする。
今すぐじゃなくても、いつか結婚という選択肢が現れたとき、
私もそこに入れてください。
と、熱いプロポーズをされたのだそうです。
内田也哉子さんは本木雅弘さんと結婚しましたがお二人には何人子供がいるのでしょうか?
樹木希林さんは内田裕也さんと長年別居していますが、「家」については、保守的な部分もあるようで本木雅弘さんを婿養子にしています。
内田也哉子さんは樹木希林さんの一人娘ですから、跡継ぎの孫も欲しかったことでしょう。
そして、内田也哉子さんは本木雅弘さんとの間には結婚2年後の1997年には長男の雅樂(うた)くん、1999年には長女・伽羅(きゃら)さん、2010年には次男・玄兎(げんと)くんが生まれています。
漢字も難しいですが、日本風の渋いかんじですね。
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【この記事は2020/03/10に更新しました。】