風間トオルさんに結婚歴はある?娘が事故死の噂や阿部寛との仲も解説
2024/02/16
himawari3232
沖雅也さんの若い頃については、後ほど詳しく説明しますが、学校の出席日数が足りず、正規ルートで中学校を卒業していません。
後に、大分市内のホテルで代議士や当時の市長が出席したレセプションが開かれて、通っていた学校の校長から卒業証書が授与されました。
ある時期までは、大分舞鶴高校を中退としていたのですが、その後、通信教育を受けて高校の課程を卒業しています。
沖雅也さんの父親は1975年に亡くなり、これを受けて日景忠男さんという男性と養子縁組を交わしました。この男性は、所属事務所の社長で沖雅也さんが死去するまで支え続けていたパトロン的な人物として知られています。
2人の出会いは、沖雅也さんが15歳の頃に遡ります。池袋にあるバー「げれえ」で顔を合わせ、愛人契約を結んで同棲生活を続けていたのです。
日本では、同性同士の結婚は許されておらず、このために養子縁組という制度を利用したものと見られています。
ただし、沖雅也さんは女性が好きなノーマルであったことが判明しているためビジネス色が強いものだったのかもしれませんね。
沖雅也さんが自ら命を絶ったのは1983年6月28日のこと。まだ31歳という若さで自殺したという報道がなされると日本中は、その死を悼みました。
なぜ人気絶頂の中、突如死を選んでしまったのでしょうか。その原因と考えられる沖雅也さんの心の闇や、亡くなる前の状況など沖雅也さんの死の真相を見ていきます。
沖雅也さんは、大阪での舞台公演を控える中1983年6月26日に東京都新宿区に所在する京王プラザホテルにチェックイン。
そして、1983年6月28日の早朝に、ホテルの屋上から飛び降りました。
沖雅也さんは、京王プラザホテルにチェックインした際に劇作家である、つかこうへいさんの名前を使っていたそうです。
調べによるとホテルは半年前に予約がなされており、馴染みだったホテトル嬢を呼んでいます。行為が済んだ後で、日景忠男さんに渡して欲しいと手紙を託していたのです。
1983年6月28日の早朝、黄色いジャージを着用したまま、最上階の47階に向かいました。その高さは170メートル。ホテルの7階にあるプール脇に落ちて亡くなりました。
生前の沖雅也さんは、売れっ子俳優であったがゆえんでしょうか。精神的にかなり不安定な状況でした。1981年4月11日は、高速道路を運転中に交通事故を起こしています。
幸い怪我は軽かったものの、躁うつ病であるという診断を受けて2週間に渡る入院も経験していました。退院後も、精神安定剤を手放せない状態だったようです。
沖雅也さんは、服用していた精神安定剤の副作用で、肥満やむくみがありました。確かに、精神安定剤の原料には、食欲増進の副作用がある薬品が多いことから、仕方のないことなのかもしれません。
俳優としては、劇的に見た目が変わってしまうと仕事にも影響を及ぼしてしまうという問題もあり、躁うつ病は悪化の一途を辿り、仕事復帰後に肝臓炎も発症したことが記録されています。
こういった状況の中、亡くなる半年前にはベストの体重に戻していたことから、綺麗に死にたいと考えていたのではないかと見られていました。
そして、後ろ向きで身を投げていたという、警備員の証言も綺麗に死にたいという説を後ろ押ししていたようです。
警察が発表している沖雅也さんの死因は、全身強打であったことが判明しています。
この時警備員の阻止を振り切って飛び降りていることから、かなりの覚悟が定まっていたと見られているようです。
生前の沖雅也さんの家族と生い立ちについて振り返ってみましょう。家族との関係は必ずしも良好とは言えず、沖雅也さんは家出少年だった過去があったのです。
まず祖父は、東京帝国大学医学部出の医師で大病院を経営しているという、裕福な家庭に生まれ育ちました。
父親は、石油の卸売業を営む経営者でした。そんな恵まれた環境の中生れた沖雅也さん。出生名は楠城児さんといいます。
何一つ不自由ない生活を送ってきた幼少期の沖雅也さんは、手に負えないイタズラを仕掛ける、やんちゃな一面を持つ少年だったそうです。
父親の事業が失敗したことで、その後の人生に大きな影響を与えています。大分県に転居し、大分市内を転々とする生活を送ることに。
沖雅也さんが中学校2年生の1966年12月に両親が離婚。父親に付いていったのですが、関係性が悪化し、中学校を卒業する前に家出しています。
この時の沖雅也さんの全財産は10万円。これを元手にバッグ1つという身軽さで上京。当日はホテルニューオークラに宿泊したそうです。
その翌日からは、名前や年齢を偽って中華料理店で住み込みとして働き始めました。
アルバイトを転々とする中ホモバーで働き始めました。まだ16歳の沖雅也さんは、日景忠男さんに声を掛けられたことがきっかけとなり、一緒に暮らすようになったのです。
日景忠男さんは、元々裕福な家庭に育ち、就職をせずに親の仕送りで生活をしていました。沖雅也さんの夢を叶えるために、芸能事務所「JKプランニング」を設立しバックアップしてきました。
芸能事務所を切り盛りしながら、プロモーション業務やマネジメント業務を一手に引き受けており、日景忠男さんは「自分は沖の黒子だ」といい裏方に徹していたことが自身の著書から窺えます。
沖雅也さんは、こうして日景忠男さんのバックアップを受けて、芸能活動の1歩を歩み始めました。その後の、芸能活動について紹介します。
沖雅也さんは、お店に来た客からスカウトを受けてファッションモデルの仕事をスタート。
単発の仕事であったこともあり生活が成り立つ程ではなく、スナックでの勤務も継続していました。
1968年にオスカープロモーションを設立する前の、古賀誠一さんからスカウトをされたことで、役者としての道が切りひらかれました。
古賀誠一さんが日活に紹介してくれたことで映画「ある少女の告白・純潔」で銀幕デビューを果たしたのです。
1969年には、エランドール新人賞を受賞し、その後は数々の作品に助演として出演を重ねていきましたが、中々主演作品に恵まれない一面もありました。
1971年に「八月の濡れた砂」で主役に抜擢されたのですが、撮影最中にオートバイの事故を起こして降板という悔しい経験も。
その後、この悔しい気持ちをバネにして、数々の人気作品に出演し売れっ子俳優の道へと進んでいくことになるのです。
1971年に放送された「さぼてんとマシュマロ」の主演で一躍有名になり、「キイハンター」などの作品でさらに注目を高めました。
1973年には「必殺仕置人」において棺桶の錠役に抜擢されています。必殺シリーズは1972年から2009年までテレビ朝日系列で放送された、長寿番組です。
1975年に放送された「必殺仕置稼業」では、クールで2枚目の市松を演じたことで、視聴率の回復を担った立役者として知られています。
1976年9月には、人気シリーズ「太陽にほえろ!」にも出演。七曲署に転勤してきた滝隆一役を演じました。
愛称は「スコッチ刑事」で、スーツから飲み物からタバコまでイギリス製の製品を愛用していたことから来ているそうです。
この作品には、違う役でゲストとして出演していたのですが、スコッチ刑事が人気を博したことで、第2部にもオファーを受けて出演しています。
沖雅也さんは、突発的に自殺をしてしまったのではないかと、当初見られていたのですが、遺書の存在がその後注目を集めています。
一体どのような内容の遺書だったのでしょうか。その内容について調査しました。
遺書については、亡くなる前に京王プラザホテルで会っていたホテトル嬢が、沖雅也さんからの手紙を託されており、日景忠男さんの手に渡っています。
そこに書かれていたのは、京王プラザホテルを死に場所にしてしまったこと、つかこうへいさんの名前を使って予約したことを謝罪する分から始まっています。
そして、老いへの葛藤が赤裸々に綴られていたのです。生前、沖雅也さんは周囲に対して「30歳を過ぎて老いて醜くなるなら死を選ぶ」ということを打ち明けていました。
どうやら、沖雅也さんはこれからやってくる老化に対する嫌悪感との戦いがあったことが窺えます。
そして便箋の裏側には、一言「おやじ 涅槃で 待ってる」とだけ書かれていました。
どのような意味を持っているのかは判明していませんが、どうやら日景忠男さんへの言葉であるようです。
後年、日景忠男さんは手紙について一部訂正を発表しています。実は、「ホテルに迎えにきてほしい」と書かれていたのだとか。
そして日景忠男さんは「沖雅也さんは自分が迎えに行くのを待っていたのではないか」というコメントを発表しています。
沖雅也さんが亡き後の出来事について見ていきましょう。日景忠男さんは残された沖雅也さんの保険金を巡り注目を集めました。
沖雅也さんが亡くなった後で、日景忠男さんは沖雅也さんにかけていた3億円もの保険金を受け取りました。
元々は、1億円という契約だったのですが、保険会社の担当者が3億円に書き換えたそうです。期せずして、大金を手に入れたということになります。
3億円の内。沖雅也さんの実母と遺産配分で揉めていた時期もありましたが、数千万円を母親に支払ったことで和解しました。
沖雅也さんの母親に支払った金額を差し引いても2億円以上の保険料を受取った日景忠男さん。このお金を元手に新宿2丁目でゲイ喫茶を開店したり、ベンツなどの高級品や調度品を多数購入。
海外旅行に行っては1泊17万円という高級ホテルに宿泊したりと、とくにかく贅沢三昧。こういった積み重ねにより3年間で保険金を使い果たしてしまったのです。
その後、借金を負うようになり、詐欺を働いたり覚醒剤で逮捕されたりと犯罪に手を染めていたことが判明しています。
俳優の沖雅也さんは、「太陽にほえろ!」などの人気シリーズドラマに出演していた売れっ子俳優でした。
その生い立ちを振り返ると、祖父は大病院の経営者で父親も会社の経営をしていたことから、幼少期は裕福な環境に育ちましたが、父親の事業失敗により人生は大きく変わることに。
大分市内を転々とし、中学生の頃に両親は離婚。父親に付いていくも家族仲は険悪で中学校を卒業する前に家出しています。
上京したホモバーのアルバイト先で、日景忠男さんと出会い養子縁組の相手となりました。経済的なバックアップを受けて沖雅也さんは芸能活動を開始。
人気俳優になったものの、精神的に不安定で老いの不安を抱え、1986年6月28日に京王プラザホテルの最上階から飛び降り自殺を遂げました。
その後、日景忠男さんは沖雅也さんにかけた3億円の保険料を受取るも3年で使い果たすという結末を迎えています。その死は、残された人にも波紋を起こしたのです。
若くして、亡くなられた沖雅也さんのご冥福をお祈りいたします。
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