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    宅間守の現在(2022)とは?生い立ちや妻・子供は?獄中結婚していた?

    2001年に発生した附属池田小事件の犯人である宅間守。事件から20年以上が経過しましたが、彼は現在どうしているのでしょうか。そこで今回は、宅間守の現在や生い立ちについて迫ってみたいと思います。また、彼が獄中結婚していたという話についてもお伝えします。

    宅間守とはどんな人物?

    宅間守をご存知でしょうか。2001年6月にある事件を起こし、日本の犯罪史上稀に見る無差別殺人として社会を震撼させた人物です。

    かれこれ21年前のことなので、事件の概要と、宅間守について振り返ってみましょう。

    付属池田小事件の犯人

    付属池田小事件が起きたのは2001年6月8日のこと。当日、犯人の宅間守は、この日の朝10時前に刃物店を訪れて「丈夫なやつ」と店員に告げて刃体の長さが15.8cmある出刃包丁を購入。

     

    宅間守は、車内でケースから出刃包丁を出しビニールに入れると、あらかじめメモしておいた大阪教育大学附属池田小学校の電話番号をカーナビに入力し、同校に車を運転しました。

     

    学校に着くと授業中の南校舎に向かい、午前10時10分頃、1階にある2年生の教室に入り生徒達を襲撃したのです。

     

    2年生の学級教師は、偶然外の花壇で数人の生徒と花の手入れをしていたのですが、悲鳴で事件に気が付きました。

     

    担任教師が慌てて教室に入るために廊下に入ると、同僚教師が犯人の宅間守を追いかけている場面を目撃したそうです。

     

    宅間守は方向を変えて、1年生の教室へと飛び込み、音楽の教室から戻ってきた男児が刺されて犠牲になりました。

    8名が犠牲になった

    宅間守が起こした「付属池田小事件」により、多数の犠牲が出ています。まず、1年生1名、2年生7名の合計8名が殺害され児童13人と教師2人が負傷しました。

    現行犯逮捕された

    宅間守は、2年生と1年生の教室で襲撃をしているところを、駆け付けた副校長と2先生の担任教師が2人かりで取り押さえにかかりました。

     

    宅間守は、手を押さえられると急に大人しくなり、教師によって現行犯逮捕されています。

     

    最後の1人を刺した時に、凶器の出刃包丁を自分で落とし、「あーしんどい」と呟いたそうです。

    宅間守は現在どうしている?

    事件が発生してから20年以上の年月が経過した2022年現在、宅間守はどのように過ごしているのでしょうか。裁判の判決の経緯についても紹介します。

    2003年に死刑判決

    事件後、2001年12月27日に初の公判が行われました。宅間守は口笛を吹きながら入廷したり、警察官による起訴状朗読が行われている中、突如「座ったらあかんか」と、発言するなど、言動が注目を集めました。

     

    2003年8月28日大阪地方裁判所は、宅間守に対して死刑判決を下しました。

     

    宅間守はこの日、裁判長の「主文を言い渡します」という言葉を遮り「最後にちょっと言わせてえな」と絶叫して遮っています。

     

    裁判官からは「発言をやめなさい」と、厳しい口調で抑えにかかったのですが、なおもヒートアップしたことから退廷を命じられ、刑務官に両脇を抱えられて連れ出されました。

     

    この時、宅間守は被害者の実名を挙げて罵詈雑言を吐いています。本人が不在のまま、判決理由が言い渡されるという異例の裁判として犯罪史に残されています。

    6か月以内での死刑執行を望む

    死刑判定がなされると、宅間守は控訴をしない意向を示していましたが弁護団から「後から取り下げることは自由なので、ゆっくり考えるように」と、説得されたことで2003年9月10日に控訴しました。

     

    しかし、同月26日に自ら控訴を取り下げたことで、死刑を確定させたのです。主弁護人に向けて、第2項で規定された「死刑確定後の6か月以内の死刑執行」を訴えていたことが判明しています。

     

    さらに、死刑が執行されない場合は、法務大臣を刑事告訴するとまで念を押していることから、宅間守は心から早い時期の執行を望んでいたことが判明しています。

    死刑執行

    死刑が確定してから1年弱の2004年9月14日8時16分大阪拘置所において宅間守の死刑が執行されました。各誌面1面では、大々的に取り上げています。

     

    死刑執行当日の朝、朝食の摂取は許されなかったものの、執行前に刑務官から受取ったタバコとリンゴのジュースを味わってから死刑台へと消えていったそうです。没年40歳でした。

     

    当時、死刑確定から1年弱の執行というのは、異例の早さで第二次世界大戦の混乱期を除くと、最速だったといわれています。

     

    なお、自宅近隣で葬儀をするとマスコミが押し寄せてしまうことが懸念されたことや、経済的な問題もあり、信者ではなかったものの、大阪市内キリスト教関連の施設で執り行われたことが発表されています。

    宅間守の生い立ちはどうだった?

    日本中を震え上がらせる事件を起こし、40歳で死刑執行により死去した宅間守の生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。

    幼い頃の親との関わりや、体験は宅間守の人格形成に大きな影響を与えたのだといわれています。

    1963年11月23日に誕生

    宅間守は、兵庫県伊丹市で1963年11月23日に誕生。家族構成は父親と母親、兄弟は兄が1人という構成です。つまり宅間守は、次男だったということになりますね。

    妊娠中に「産みたくない」と言われる

    母親は、宅間守を身籠った時に何かを感じたのか「あかんわ、堕ろしたいねん、私。あかんねん絶対」と不安に思う気持ちを夫に漏らしていたことが判明しています。

     

    元から母親は、家事と育児が苦手だったようで、宅間守が誕生後も父親が家事一切を引き受けており、母乳をあげることすら嫌がっていました。

     

    今で言うところのネグレクトだったのではないでしょうか。

    手に負えない子

    宅間守は、両親揃って共働きだったこともあり、幼稚園に入るまで祖父母宅で育てられていました。

     

    祖母は愛情を持って接していたようで、宅間守の取り調べにおいて「これまでに悲しかった思い出は、祖母の死である」と語っています。

     

    4歳になった時に、実家に戻ったのですが、幼少期から手に負えない子供だったようです。

     

    母親からは「お前なんか産まなければ良かった」と言われていたことが、事件後に宅間守のマンションから押収したノートに記載されていました。

     

    一方の宅間守も母親に向かって「死ぬまで苦しめてやる」と、言い放っていましたので、最悪の親子関係だったことがうかがえます。

    薩摩武士の父親

    宅間守の先祖を遡ると、旧薩摩藩の下級武士だったようです。宅間家の男性は、法律関係や警察関係の仕事に就く人物が多かったことが判明しています。

     

    こういった背景からか、父親は「自分は、薩摩武士の血が流れている」というプライドを持っていたのですが、生活費を家に入れず酒を飲んでは、激しい暴力を家族に振るっていました。

     

    宅間守は父親に対して、憎しみを抱いて育ち1度は寝ている間に包丁で刺してやろうと思い詰めたことも。父親は、2020年4月に88歳で死去しています。

    母親は精神を病んだ

    成長した宅間守は、マンションの管理会社に勤務していた1984年11月に家賃の集金と称して女性の部屋に上がりこみ強姦するという事件を起こしました。

     

    25歳で出所した頃に、母親は精神を病んでしまいました。10年間に渡り父親が面倒を見ていましたが、その後精神病院に入院して2016年12月に死去しています。

     

    宅間守は、母親が激しい暴力を受けているのを見て育ち、こういった体験が人間性が歪んだ理由の1つであると指摘する声も多数あります。

    自衛隊に入る

    宅間守は、中学校を卒業すると地元の工業高校に入学しましたが、高校2年生の時に教師を殴り中退しています。

     

    その後、航空自衛隊に入隊するも、家出少女を下宿先に泊めて関係を持ったことが発覚し18歳で除隊処分になりました。

    転職を繰り返す

    自衛隊を除隊した宅間守を見かねた父親から金銭的にサポートを受け、運送業を開始。しかし、僅か1ヶ月で辞めてしまいます。

     

    その後は、引越し業者や不動産管理会社など転職を繰り返しました。どの会社も短いものは数週間、長くても半年以内で辞職するという、職歴を重ねていました。

     

    これは、単純に仕事に飽きたということではなく、前述の強姦事件や用務員として勤務した小学校の職員のお茶に精神安定剤を混入するなど、事件を繰り返していたのです。

     

    前科は11犯や13犯など、厳密にカウントすることができない状態だったようです。なお、初犯の強姦事件と附属池田小事件を除き、精神障害を理由として不起訴処分を受けています。

    宅間守には妻や子供がいるの?

    宅間守のもう1つの家族となる妻や子供について振り返ってみましょう。附属池田小事件を起こす2001年までの期間に4回の結婚と離婚、1回の養子縁組をしていたことが判明しています。

    これまでに結婚して妻となった女性との結婚生活や離婚に至った原因についても調査しました。

    看護師女性と1度目の結婚

    最初に結婚したのは1990年6月14日に遡ります。最初の妻は19歳年上の看護師の女性です。看護師試験の合格者名簿から得た女性の情報から電話を掛けるということを繰り返して知り合いました。

     

    その女性には、泌尿器科に勤務する医師であると嘘をついて接近し、強引に肉体関係を結んだ後で結婚したのですが、アッサリ嘘がバレて程なくして離婚に至ったのです。

     

    離婚したのが、同年6月26日なので、結婚期間は僅か2週間弱というスピード離婚でした。

    2度目の結婚

    2回目の結婚は、1990年10月のこと。離婚から4ヶ月後ということになります。2回目の婚相手となった妻は、職業は分かっていないのですが19歳年上の女性です。

     

    最初の妻も19歳年上なので、年上の女性がタイプなのかもしれません。1993年に強姦事件を起こしたことがきっかけとなり、1994年に離婚しています。

    44歳年上の女性と養子縁組

    結婚ではないのですが、養子縁組をしたこともありました。バスの運転手として勤務していた時に44歳年上の女性と知り合い、財産目当てで1995年に養子縁組をしていたのです。

     

    しかし、宅間守が女性に対して暴力を振るったり、金銭を取ったりという行為を行ったことで、1997年に協議の上で離縁しています。

    3度目の結婚

    3回目の結婚をしたのは1997年のこと。前年にお見合いパーティーで知り合った2歳年上の女性が3人目の妻でした。

     

    宅間守は、これまでの離婚歴を隠して2歳年上の女性に執拗に結婚を迫まっています。

     

    女性の方は気乗りしてなかったそうなのですが「結婚しなければ、お前を殺して私も死ぬ」と半ば脅迫する形で一緒になったのです。

     

    実際に結婚してみると、妻に対して粗雑な振る舞いや暴力を振るうようになり、訝しんだ妻が過去を調べて養子縁組の件や過去の離婚を知ることになり、離婚を決意しました。

    4度目の結婚

    4回目の結婚は、1998年。お見合いパーティーで知り合った3歳年下の女性が4人目の妻です。

     

    しかし、1999年に非常勤として伊丹市立池尻小学校に用務員として勤務した際に、教師のお茶に精神安定剤を混入する事件を起こして傷害罪に伊丹警察署に逮捕されました。

     

    元々、夫婦仲が上手く行ってなかったようで「妻から別れ話を切り出されたうえ、職場でもうまくいっておらず、軽い気持ちでやってしまった」と供述しています。

     

    逮捕されたことが決定打となり、4人目の妻とも離婚しています。

    娘などの子供はいない

    これまでに、何回も結婚していたのですが、どの妻とも短期間で別れていたからか、娘などの子供が誕生することはありませんでした。

    宅間守は獄中結婚していたのは本当?

    宅間守は、刑が確定して死刑が執行されるまでの期間は1年弱というかなり短いものでしたが、獄中結婚をしていました。どのような女性だったのでしょうか。

    死刑廃止運動家の女性と獄中結婚

    宅間守は、死刑廃止運動家の女性と獄中結婚しました。当初この女性からの支援や手紙に対して、心を閉ざしていたのですが、文通を続けるうちに少しずつ心を開いていきました。

     

    結婚の意志を最初に示したのは、女性の方で婚姻届の用紙を差し入れたところ、宅間守は結婚を望んでいる女性がいることを喜んでいた、という反応を見せたと、宅間守の弁護士が後年明かしています。

     

    こうして、婚姻が成立したのですが宅間守は5人目の妻の苗字に改名し、最終的には「吉岡」と名乗りました。

    妻は博愛主義者のクリスチャン

    獄中結婚した妻は、博愛主義でクリスチャンであることが判明しています。かつて「自分が宅間さんを何とかしたい」と周囲に語り、強い思いから獄中結婚したことが知られています。

     

    妻の名前は、大月純子だという説が有力視されていますが、一方では、この女性は別の死刑囚と結婚したのだという説を唱える声もあり、現在も真相は定かになっていません。

    宅間守は感謝していた

    獄中結婚をする頃には、相手の女性に対して感謝の気持ちを表現するようになっていたようです。

     

    実際に、死刑執行直前に「妻に感謝していると伝えて欲しい」という言葉が残されています。

     

    しかし、自身が手にかけてしまった被害者や遺族に対する謝罪の言葉は最後まで口にすることはありませんでした。

    妻の画像があるの?

    大月純子というキーワードでネットを検索すると、数は多くありませんが画像をみることが可能です。

     

    ただし、宅間守が名乗っていた苗字が「吉岡」だったことを考えると、大月純子さんが5人目の妻ではなかった可能性もの十分に考えられます。

    ダウンタウンと同級生って本当?

    宅間守について調査すると、松本人志というキーワードが一緒に検索されているようです。以前よりダウンタウンの松本人志さんと同級生であるとの噂が浮上しています。真相はいかに。

    松本人志と高校の同学年

    ダウンタウンの松本人志さんは、宅間守と同じ年齢であり同じ「尼崎工業高校の機械科」に通っていたことが分かりました。

    松本人志は明言していない

    この件について松本人志さんが語った経歴を調査したところ、自らコメントを発した機会はないようです。

     

    2人共同じ年に誕生しているので、普通に考えると同級生である可能性が高いのですが、例えば1年留年していたなどの経歴があると、同じ年に卒業することができなくなりますよね。

     

    こういった背景もあったのでしょう。松本人志さんが所属する吉本興業は「同学年にいたのかどうか確認のしようがない」とコメントを発表しています。

    兄は現在どうしている?

    宅間守は2人兄弟で、次男として誕生しました。そこで気になるのが兄の存在です。現在、どのようにしているのでしょうか。宅間守の存在は、兄の人生に大きな影響を及ぼしました。

    40代前半で自殺していた

    兄がいましたが、40代前半で自殺しています。1999年に自宅マンションで頸動脈を切って命を絶ちました。

     

    自身で事業を展開していたのですが、商売に行き詰まったことに対して悩んでいたことを、後年父親が語っています。

    性格は正反対だった?

    兄の氏名や画像は残されていませんが、7歳年上だったことが判明しています。昔から事件を起こすたびに、身元引受人として世話をしていました。

     

    宅間守とは違って物静かな性格であったといわれています。

    宅間守のせいで離婚していた

    兄は34歳の時に結婚したのですが、42歳で離婚しています。これは、宅間守の素行の悪さを妻が嫌がったことが原因でした。

    附属池田小事件の動機は何だったの?

    ここまで宅間守の経歴や人間関係を説明してきましたが、やはり付属池田事件を引き起こした理由が気になるのではないでしょうか。改めて、事件の動機について調査しました。

    エリート階級に対する恨み

    裁判で宅間守が語った内容を見ると、その胸の内を知ることができます。実は、幼少期から高学歴やエリートと呼ばれる人達に対して劣等感を持っていたのです。

     

    宅間守は、「殺しても死にきれん。ならばいっそ、大量殺人をして死刑になりたいと思った」と恐ろしいことを語っています。

    大量殺人を行う別の案だった

    小学校を襲撃することを思いついたのは、事件前日に思いついたそうなのですが、この他にも大量殺人を考えていました。

     

    例えば、ダンプカー突っ込む、拳銃を使って女子校を銃撃、空港で無差別に殺害するなどを検討していたそうです。

     

    複数ある案の中の内の1つが付属池田事件だったということになります。

    宅間守の心の闇は周囲を不幸にしていた

    宅間守は、2001年に付属池田小事件を起こし8名の幼い犠牲者を出した犯人です。裁判で死刑判決を受け、2004年に死刑執行がなされています。

     

    その生い立ちは、壮絶で父親が酒に酔った時に激しい暴力を受け、母親は家事育児が苦手で「お前なんて産まなければ良かった」と罵られて育ちました。

     

    こういった家庭環境は宅間守の心の闇を育み、幼少期から手に負えない子供で、成長後も自衛隊を半年で除隊処分を受け、その後も仕事を転々とする日々。

     

    仕事に行く先々で問題を起こし、強姦や同僚のお茶に精神安定剤を混入する事件を起こすなど前科は11犯とも13犯ともいわれています。

     

    プライベートでは2001年までに4回の結婚と4回の離婚を経て、獄中結婚をしていますが娘などの子供は誕生していません。

     

    付属池田小事件が起きてから21年が経過しています。今後、このような事件が起きないように願いたいものですね。

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