木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
大久保清事件とは、1971年に群馬県で起きた連続殺人事件です。犯人である大久保清は3月から5月までのたった2ヶ月で女性8人を殺害。目的は強姦といわれ、自家用車に乗った大久保清が若い女性をターゲットに声をかけ、誘い出すのが手口でした。
大久保清が目をつけていたのは、16歳から21歳までの若い女性。群馬県の前橋や高崎を中心に声をかけ、デートを重ねるというのが流れでした。その中でトラブルになった女性を強姦、殺害、死体遺棄をしていたという大久保清。その中でもデートをしてもトラブルにならなかった女性は殺害することはありませんでした。
大久保清が事件を起こしたのは、1967年に起こした強姦事件により懲役3年6カ月の刑を言い渡され、仮釈放されていたときのこと。府中刑務所では模範囚として過ごし、刑務所長からは4度の表彰を受けていたといいます。
仮釈放中、次々と女性に声をかけては強姦、殺害、死体遺棄を繰り返していたという大久保清。逮捕されるきっかけになったのは、大久保清の7人目の被害者となった女性が行方不明となったことで、被害者の兄が経営する会社の従業員や知人に声をかけて捜索したことでした。
さらに警察にも連絡しながら独自で捜査を進めていたところ、大久保清が容疑者としてあがり確保することに成功しました。
2カ月の間に8人の女女性を殺害した大久保清。どうしてそのような残酷な犯行に至ったのでしょうか。大久保清が事件を起こした動機ついてご紹介します。
先述していますが、大久保清が連続殺人事件を起こしたのは、1967年に起こした強姦事件により懲役3年6カ月の刑を言い渡され、仮釈放されていたときのことです。
大久保清は当時結婚しており、仮釈放中に妻との同居を望みましたが、妻は同居を嫌がったため自分の実家で生活していました。大久保清は妻の元を訪れますが、妻の意志は固く、さらには、義母からも同居を反対されたことから自暴自棄になり犯行に及んだと後に話しています。
大久保清は、妻と結婚する前にも何度か強姦事件を起こしていました。1955年の20歳の頃には大学生に成りすまして女性に声をかけ、群馬県の前橋市内で17歳の女子高生を強姦しています。
この事件は初犯であったことから懲役1年6カ月、執行猶予3年の判決と軽い刑になりましたが、同年には再度懲役2年の実刑判決となった強姦事件を起こし、初犯時の刑期も足された3年6ヶ月の懲役のため長野県の松本少年刑務所に収監されていました。
そのため、妻と出会ったときには偽名と嘘の経歴を話し、本名などの素性を明かした後でも犯罪歴に関しては一切黙っていたといいます。
しかし、1967年に起こした強姦事件により、懲役3年6カ月の刑のために刑務所に収監されたことで妻にはすべてバレてしまい、妻から離婚を切り出されたといいます。
大久保清は、仮出所中の短い期間の間に150人もの女性をナンパしています。そのうちの30人とはデートすることになり、その中の10人とは肉体関係を持つことになったようです。
初めは殺害するつもりまではなかったと話した大久保清。しかし、相手の女性が大久保清の不審な行動から大久保清の身元を探るなどして前科に気づき、拒絶したことから頭にきた大久保清が女性を殺害したといわれています。
事件を起こした当時、結婚していた大久保清。子供はいたのでしょうか。また、その子供は現在どうしているのでしょう。大久保清の現在についてもご紹介します。
大久保清には男女それぞれ1人ずつ子供がいましたが、子供が生まれてからも犯行を続けていました。長男は結婚した翌年の1963年に生まれているので、現在も健在であれば58歳になっているでしょう。
大久保清の子供については事件後の情報はありませんが、親族は現在も高崎市周辺に住んでいるといわれています。
大久保清は、連続殺人事件の犯人であることから1973年に死刑判決が下っています。さらに、第一審の死刑判決後に上告しなかったため大久保清の死刑がそのまま確定しました。
大久保清の死刑が執行されたのは1976年1月22日のこと。当時の年齢は41歳で死刑執行日には腰を抜かして失禁し、係官に引きずられるようにして死刑台に向かったという噂もあります。
大久保清が育った環境は、ごく普通の家庭とは言い難いものでした。それはどんな環境だったのでしょうか。大久保清の生い立ちについてご紹介します。
大久保清は、3男5女の3男として生まれました。父親は日本人でしたが母親の祖父がロシア人であったため、大久保清はクオーターだったと考えられるでしょう。
そのため、1941年に太平洋戦争がはじまると大久保清は「アイノコ」「アメリカ人の血が混ざっている」といわれていじめにあっていたといいます。また、勉強も好きではなく、小学校や中学校の先生からの評判も良くなかったといわれています。
大久保清は子供のころから異常な行動があり、1946年の小学6年生のころ、幼い少女を麦畑に連れ込んで、性器に石をつめるなどの暴行を行いました。これについては、被害者の親が大久保清の家に抗議に来ましたが、母親は大久保清の犯行を認めずに、「お医者さんごっこに目くじらを立てることはない」なとど大久保清をかばったといいます。
大久保清の出身高校は群馬県にある高崎商業高校。卒業まではいかず中退することになり、就職するために東京に行ったりしたようですが、東京でも横浜でも仕事は続かず、職を転々としていました。
東京や横浜で仕事が続かなかった大久保清は、結局は地元に戻り、父の出資でラジオ修理販売店を開業しています。しかし、同業者から部品を万引きしたことで逮捕されて店は閉店に追い込まれました。
大久保清事件は事件後50年が経過した今も語り継がれる残虐な事件として注目されています。そのため、過去にはドラマ化や映画化されたことも。その作品についてご紹介します。
『戦後猟奇犯罪史』は1976年に公開された映画で、戦後に実際に起きた事件をもとに作られた映画です。この映画では、大久保清事件のほかに、「西口彰事件」と「克美しげる事件」も描かれています。
内容はほとんど事実となっていますが、犯人や事件関係者は実名をもじった形で使われています。
ちなみに、西口彰事件とは西口彰が1963年から1964年にかけて起こした連続殺人事件で「戦後最悪の連続殺人」といわれています。
克美しげる事件とは、元歌手の克美しげるが銀座の人気ホステスとの不倫のもつれで起こした殺人事件です。
『昭和四十六年 大久保清の犯罪』は、1983年8月29日に放送されたドラマ。副題は「戦後最大の連続女性誘拐殺人事件」で主演はビートたけしさんが努めました。
このドラマは、大久保清事件をもとに作られたドラマで、事件の残酷さや、背景にある大久保の家庭の様子なども細かく描かれています。セットなども本格的で話題になりました。
戦後稀に見る凶悪な事件を起こした大久保清。逮捕後の精神鑑定では精神病であることは断定されず、思いやりのない自己中心的な性格と判断されています。
事件から50年が経過した今も事件の内容が残酷すぎるため語り継がれています。二度と同じような事件が起きてはいけません。被害者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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事件発生から50年が経過しましたが今でも話題になる大久保清事件とは一体どんな事件だったのでしょう。まずは、大久保清の事件の概要についてご紹介します。