風間トオルさんに結婚歴はある?娘が事故死の噂や阿部寛との仲も解説
2024/02/16
himawari3232
根津甚八は、歯科医師の家に三男として生まれました。男ばかり4人兄弟の中で育ったのです。産まれたのは山梨県都留市でしたが、小学4年生の頃に山梨県から神奈川県川崎市に転居しています。
根津甚八の本名は、根津透といいます。芸名の根津甚八という名は、唐十郎が真田十勇士の”根津甚八”より取って名付けてくれたとされています。唐十郎は、『劇団唐組』を主宰する劇作家です。唐十郎が、『劇団唐組』を旗揚げする前に立ち上げたのが『状況劇場』でした。
その『状況劇場』に入団する際に、根津甚八と名付けてもらったのです。
根津甚八は既に他界してしまっています。続いては、根津甚八の死について迫ってみたいと思います。彼は何故亡くなったのでしょうか。
根津甚八は、2016年12月29日に亡くなりました。亡くなった当時、彼は69歳でした。亡くなった場所は、都内の病院だったとされています。では、根津甚八の死因は何だったのでしょうか。
根津甚八の死因はがんなどの腫瘍のようなものではなく、肺炎でした。正式には『深部静脈血栓症及び肺塞栓症』とされます。脚の静脈内に血栓ができることが深部静脈血栓症です。そして、肺の動脈に血液の塊(血栓)が詰まってしまうのが、肺塞栓症です。脚の血栓が肺動脈に運ばれ詰まらせてしまうでしょう。
根津甚八が所属していたユニマテによると、彼は亡くなる数か月前に体調を崩して入院していたのだとされています。その後に、根津甚八は帰らぬ人となってしまったのでした。
根津甚八の葬儀は、故人の遺志により近親者のみが参列しての密葬が執り行われました。芸能人ではありましたが、静かに送られたものと考えられます。
次に、根津甚八の経歴について探ってみたいと思います。根津甚八はどの様な経歴を持っているのでしょうか。彼の足跡を辿ってみましょう。
根津甚八は獨協大学に入学しましたが、2年生の時に中退しました。そして、1969年に唐十郎が主宰する劇団状況劇場に入団しています。その後は、1974年に『唐版 風の又三郎』で主演を務め劇団の看板俳優となっていきました。
根津甚八は1979年に劇団状況劇場を退団しました。1978年になると『黄金の日日』で石川五右衛門を演じ注目されたことで、根津甚八の若い女性ファンが劇団に押し寄せるようになりました。これがきっかけで、劇団に居づらくなったため退団したのです。
なお1975年に劇団以外の仕事として、根津甚八はドラマ『娘たちの四季』に出演しています。劇団外の初仕事であった根津甚八は出演に際して唐十郎に相談をしました。すると唐十郎からは「俺たちはずっと外へ出て行かずにやるが、お前は外でやってもいい」という旨のことを言われたといいます。
これに、根津甚八の中で疎外感が生まれ唐十郎との精神的な溝ができたとされているでしょう。
1980年に公開された黒澤明監督の映画『影武者』で、根津甚八は土屋宗八郎役を演じています。それ以外にも、複数の黒澤明作品に出演しているでしょう。この“黒澤映画”への出演が、根津甚八のブレイクに繋がったともいえます。
根津甚八は俳優としての活動ばかりをしていたわけではありません。彼は、1976年に『ほたる草』で歌手デビューもしているのです。なおこれまでに、9枚のシングルと5枚のオリジナルアルバムをリリースしているでしょう。根津甚八は歌手でもあったのです。
出演作品で存在感を放っていた根津甚八でしたが、惜しくも俳優を引退してしまいます。では、その原因はどこにあったのでしょうか。ここで、根津甚八が俳優を引退した理由について迫ってみましょう。
2004年7月6日の午前11時半頃に、根津甚八は車を運転している時に人身事故を起こしてしまいました。このこともあり、根津甚八は活動自粛をすることになり、表舞台から消えてしまいました。
2007年からはユニマテに所属していましたが、上記の事故も起因したと考えられ、根津甚八は2010年9月に俳優業を引退すると発表しています。それ以降は、脚本家や演出家としては活動していくとされていました。なお根津甚八が引退したのは、事故に加え持病の悪化も要因となっていると考えられます。
根津甚八の患っていた持病については、後述します。
根津甚八には、引退後にも出演のオファーはあったといいます。しかし彼は、『鬼気迫る表情や鋭いまなざしでの演技はもうできない』としてオファーの全て断っていました。それは、病気の症状によるところもあったでしょう。
2010年で俳優としては引退してしまった根津甚八。彼の引退後の人生について気になる方もいるでしょう。続いては、根津甚八の晩年を探ってみたいと思います。彼は、どの様な晩年を送ったのでしょうか。
2001年秋ごろから、根津甚八はうつ病を患っていたといいます。そして長く苦しい闘病生活を送ることになりました。2009年に、夫人が雑誌『週刊現代』に手記を寄せ根津甚八がうつ病を患っていることを明かしています。
また2002年頃(2001年との説もある)からは、右目下直筋肥大を患っていました。右目の下まぶたは垂れ下がり、物が二重に見えるという『複視』の症状が現れたといいます。そして根津甚八は、日常生活にも影響が出たことから下まぶたの整形手術を受けています。
視界は改善されたといいますが、左右の顔のバランスが変わってしまったのでした。その後も幾度にもわたり手術を受けたものの、元には戻りません。そのため彼は「これではテレビには出られない」として、大変にショックを受けたのです。
これもあり、根津甚八は活動の幅を縮小していたのです。
前述もしていますが、2004年7月6日に根津甚八は自宅近くの交差点で人身事故を起こしてしまします。交差点において、中央辺りで自転車に乗る男性を撥ねてしまったのです。そして、その後に被害男性は亡くなってしまいます。警察の調べに対して、根津甚八は「安全確認が足りなかった」と語りました。
根津甚八は被害者の葬儀にも参列していますが、妻に両脇を抱えられながらようやく歩いていたといい、相当に憔悴しきっていたとされています。
根津甚八に降りかかった苦難はこれだけではありませんでした。彼は1993年に海外ロケにおいて落馬して腰椎を痛めています。2005年には椎間板ヘルニアが悪化して、手術を受けました。しかし後遺症により杖が手放せない生活となったのです。
そして彼車椅子生活となり、それを妻が苦悩を乗り越え支えたとされています。
俳優を引退していた根津甚八でしたが、一度だけ復帰をしたことがありました。2015年の映画『GONIN サーガ』に、元刑事の氷頭要役で出演したのです。この『GONIN サーガ』は、1995年の『GONIN』の続編であり、こちらにも根津甚八は出演していました。
石井隆監督が、根津甚八が過去に演じた氷頭要が死んだという設定を生きていた設定にして続編を計画したのでした。根津甚八は、監督から熱心に誘われたことで出演を決めたとされています。監督も、根津甚八にどうしてももう一度出演して欲しいと願ったのでしょう。
根津甚八の結婚も気になるところでしょう。次に、根津甚八の結婚について迫ってみたいと思います。根津甚八は結婚をしていたのでしょうか。
根津甚八は、1994年に仁香(じんか)という女性と結婚をしています。しかも、15歳差という年の差婚でした。妻は2022年には60歳になるものと考えられるでしょう。妻は、結婚後からインテリアプロデューサーの仕事を始めたとされています。
2人の馴れ初めは分かっていません。しかし、根津甚八によると初めて妻と目が合った際に、何か感じるものがあったのだといいます。そして2人は、2年間の交際の末にゴールインした模様です。ただ、結婚はすんなりとはいかなかったでしょう。15歳差ということや、妻が在日韓国人だったためです。
その当時は、まだ国際結婚について理解が少ない時代であった可能性があります。2人は周囲の反対を受けましたが、それでも結婚に踏み切ったのでした。
妻の仁香は、現在はジュエリーデザイナーになっています。パーソナルセレクトブランド「Jinka Nezu」をプロデュースしているのです。そして根津甚八の晩年には、テレビ番組『ビビット』に出演しています。また、2010年には根津甚八の闘病記や俳優時代を記した『根津甚八』を刊行しました。
根津甚八には離婚歴があり、仁香の前にも妻がいました。結婚や離婚の時期は不明ですが、2度目の結婚よりもかなり前のことだといいます。また、前妻とは20代前半から同棲をしていました。2人の離婚原因は、根津甚八に愛人がいたという話があります。なお、前妻との間には娘がいるとされているでしょう。
根津甚八と2人目の妻である仁香との間にも、子供がいます。根津甲斐太という息子であり、彼は2015年に大学の医学部に進学しました。順調であれば現在は既に卒業している可能性があり、医師になっていることも考えられます。
なお、息子の“甲斐太”という名前が公になったのは、母親である仁香が出版した著書『根津甚八』に書かれていたことが理由でした。なお父親の根津甚八は、息子には自身と同じ俳優になって欲しかったと妻に言っていたこともあったとされているでしょう。
ドラマ『相棒』が人気の俳優・水谷豊と根津甚八が似ているという話があります。2人は本当に似ているのでしょうか。次に、根津甚八と水谷豊が似ているという説について迫ってみたいと思います。
根津甚八は水谷豊より5歳年上です。現在、水谷豊は根津甚八が亡くなった69歳という年齢になっています。若い頃は、2人の顔立ちが似ていました。また、全体的な雰囲気が似ているとの話もあるでしょう。
根津甚八と水谷豊がそっくりであることから、2人は兄弟なのかと考えた人もいたかもしれません。しかし、兄弟というわけではないでしょう。根津甚八にも水谷豊にも、それぞれ他の兄弟がいるのです。
インターネットに、有名人同士がそっくりかどうかを判定できるサイト『soKKuri?』があります。このサイトでは、根津甚八と水谷豊がそっくりである確率も判定されています。2人のそっくり率は、80.87%と高くなっているでしょう。
最後に、根津甚八は出演した作品を一部ですがご紹介します。根津甚八はどういった作品に出演してきたのでしょうか。
1982年に、ドラマ『あまく危険な香り』においてトラック運転手の雨宮高志役で主演しました。他には倍賞千恵子らが出演しています。また、浅野温子が妹役を演じていました。
昔は、年末に2夜連続で長時間にわたり大型時代劇が放映されていた頃がありました。これは、NHK紅白歌合戦に対抗する意味で制作されたものとされています。その中の1つが、1987年に放送された『田原坂』でした。この作品で、根津甚八は警視庁の中原尚雄を演じています。
1980年に公開となった黒澤明監督の映画『影武者』では、土屋宗八郎役を演じました。同映画は、第33回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞しています。
1990年の映画『タスマニア物語』では、都築晴夫役を演じています。主人公の少年・石沢正一が、シドニーで出会った家出少年・都築実の父親役である模様です。
1995年に公開された映画『GONIN』は、石井隆が監督を務めたスタイリッシュ・バイオレンスアクション映画です。この中で、根津甚八は元刑事であり裏の世界の情報に精通する氷頭要を演じました。
渋さのある演技で視聴者を魅了した、俳優の根津甚八。ある時期から表舞台から去ってしまいましたが、69歳で肺炎により死去しています。また、長い期間にわたりうつ病などの病気や椎間板ヘルニアなどに悩まされてきたのです。それだけでなく、人身事故を起こすという悲劇にも見舞われました。
まだまだ彼の演技を観たかったという方もいるでしょう。壮絶な晩年となった模様の根津甚八でしたが、彼の演技はファンの心にしっかりと刻み込まれているのかもしれません。
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