木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
2022/03/15 更新
一晩のうちに30人もの人たちを殺害した津山事件。80年以上も前の事件ですが、その概要はどうなっているのでしょうか。そこで今回は、津山事件の概要や犯人について迫ってみたいと思います。また、生存者や現場の現在等についても見てみましょう。
津山事件は、昭和における最悪の猟奇事件で「津山三十人殺し」とも呼ばれています。その残忍性や事件の影にある社会的な背景は、令和になった現在も語り継がれています。
一体どのような事件だったのでしょうか。まずは事件概要について紹介します。
犯人は事件の前から用意周到に準備をしていました。1938年5月20日の午後5時頃に、西加茂村の電柱によじ登り、送電線を切断することで貝尾集落を停電させていたのです。
しかし、村人達はこのことに不審に思わず電気の管理会計に電話をかけたり、なぜ停電が起きたのかの原因を追及することをしていませんでした。
日付が変わった1938年5月21日に犯人は行動を開始。匕首と改造した猟銃を装備し大半は銃殺で絶命させています。
まず、自宅に一緒に住んでいる祖母を斧で殺し、隣人のA宅へ侵入し妻子4人を殺害、2軒目のB宅では妻と娘2人を射殺し、3軒目の家主と妻と家に手伝いに来ていた親族を射殺。
こうして合計11軒の家に侵入しては猟銃や日本刀で殺害することを繰り返し、住民30人(即死が28人、重傷化後に2人死去)が餌食になったのです。
死者の内5人が16歳未満で、最年少は5歳であったことが記録されています。
犯罪が残忍であると指摘されているのは、こういった無作為に相手を傷つけていったという点や、単独犯としては最多の被害者が出ていたことにあるようです。
犯人は、1時間半に渡る殺害を終えると遺書をしたためるために、隣の集落にある一軒家を訪れていました。
住人は、その異様な風貌に驚き動けなくなりましたが、そこに住む子供は以前からの顔見知りだったことから、その子に紙と鉛筆を欲しいと頼み譲り受けています。
3.5km離れた仙の城と呼ばれている荒坂峠の山頂に登り、姉や数名の人物に対して遺書を書き残した後で猟銃を使い自殺。朝に山狩りによって遺体が発見されています。
ここで気になるのは犯人が誰なのか、そしてどのような素姓の人物なのかという点です。自殺でその人生を終えた犯人が心の闇を抱える原因となった生い立ちについても紹介します。
犯人は、加茂村に住む都井睦雄という(満)21歳の青年でした。2歳の時に父親を3歳で母親を結核で亡くし、祖母(祖父の後妻)に育てられてきました。
家族が相次いで労咳(現在の肺結核)で亡くなったということから、「労咳になりやすい家系」であると忌み嫌われてしまい気まずくなってしまったようです。
住んでいた倉見集落という場所から、祖母の故郷である貝尾集落に6歳の時に移住しています。
都井睦雄は、実際に病弱だったようで、記録によると「病欠が多かったものの、頭脳明晰で常に優秀な成績をあげて、将来を嘱望されていた」という評価が学校でなされていたことが判明しています。
しかし小学校を卒業後に、肋膜炎を発症。この病気は、肺の外部に炎症が起こり、症状は胸の痛みや呼吸困難、発熱、咳などがメインとなります。
医師から農作業を禁止されてしまい、いつしか何の目的も目標もなく無為な生活を送る日々。
治癒すると、実用補修学校に入学したのですが、可愛がってくれた姉が結婚し家を出たことをきっかけに、徐々に学業を放棄するようになり、やがて引きこもりに。
元から影のある性格だった都井睦雄は、ますます鬱々とした性格に拍車がかかり、部落の青年団の集会や隣人との交流すら後ろ向きに。
それどこから、法会や葬式にも顔を出さず、常に親族から注意されていたという、心の闇の深さが分かるエピソードが残されています。
この頃の加茂村周辺では、夜這いの習慣が公然とあったそうです。田舎では、この当時あまり鍵をかける習慣がなかったことも、風習ができてしまった要因なのかもしれません。
早熟だった都井睦雄も、複数人の集落に住む女性と体の関係を持っていたようです。
やがて成人すると、待っていたのは当時の日本人男性の義務だった徴兵制度。検査を受けて健康な心身を持つ者のみが合格するというシステムです。
結核を持っていたので結果は「丙種合格」。これは入営には不適切であるが、民兵としてのみ徴兵が可能というもので、実質不合格の烙印を押されてしまったのです。
このことが村に知られると、村の女性達から陰であざ笑われ見下されることに。夜這いに行っても関係を拒絶されたり、結核持ちということもマイナスイメージを持たれる一因でした。
こういった自身に対する世の中の風評に次第に不満を募らせていったようです。
都井睦雄はこの頃から、猟銃免許を取得して2連発散弾銃の購入し、復讐の準備に入りました。
購入した散弾銃を神戸の店で下取りに出し、その代わりに猛獣用の12口径5連発ブローニング散弾銃を購入したのです。
毎日山にこもり射撃の練習に励みました。夜な夜な銃を持って、山林を歩き右腹の肋骨下の部分から急所である心臓に向けて撃つイメージトレーニングを積んでいました。
人間の体は胸の上から心臓を狙っても弾は、肋骨に阻まれてしまうという知識も兼ね備えていたということになるようです。
こういった念入りな練習を重ねたことで、犯行当日は被害者を1~2発で絶命に至らしめています。
都井睦雄は犯行時に、詰襟の学生服を着用し、軍用のゲートルと地下足袋を身に付けていました。
そして、頭には小型の懐中電灯を1つずつ両サイドに鉢巻でゆわえて固定してライトの役割をさせ、武装していたのです。
都井睦雄は、自宅の祖母を始め次々に殺害していったのですが、実は事件の生存者がいます。その人物は、後年インタビューに応じたことで、津山事件の詳細が明らかになったのです。
一体どのような人物なのでしょうか。インタビューで答えた内容についても紹介します。
この事件の生存者の氏名は、寺井ゆり子さんという女性で、都井睦雄の同級生です。既に他家に嫁いでいましたが、犯行前に偶然里帰りしていました。
都井睦雄が最も愛した女性で、この里帰りが襲撃事件を踏みとどまる理性を外してしまったきかけになったと見られているようです。
都井睦雄が寺井家を襲撃したのは、4軒目でした。寺井ゆり子さんの父親の政一さん(60)と、弟の貞一さん(19)、その妻(22)、妹のときさん(15)、妹のはなさん(12)の5人が殺害されています。
5人は窓や廊下から外に脱出を試みているところを銃撃されていたことが、後の捜査で明らかに。
寺井ゆり子さんは、どうにか屋外に脱出し、隣の家の母屋に、ほうほうの体で逃げ込んだことで命を繋ぎとめています。
この家は母屋と離れに別れており、寺井ゆり子さんが逃げ込んだ母屋は、施錠をしていて離れは鍵が開いていました。
5件目の被害に遭った、この家は離れで寝泊まりしていた家長の男性が、都井睦雄との取っ組み合いの末に殺害されています。
寺井ゆり子さんによると、この事件の前に襲われたことがあったのだとか。自宅の箪笥を片付けるのを手伝って欲しいと言われて、出向いたのです。
都井睦雄の家に入ると、急に体を押さえられてあわやの事態に。この時に、嘘をつかれていたことに気が付きました。
必死の抵抗をしたところ、何とか抜け出せたので、厳密には強姦未遂ということになります。
津山事件に関しては、後年様々な書籍が出版されています。その中の1冊である「津山三十人殺し最後の真相」というタイトルの本が2011年に出版されました。
寺井ゆり子さんは、この本の出版にあたりインタビューを受けていますので、少なくとも2011年までは存命だったということになりますね。
事件後、都井睦雄が襲撃を起こすことを知っていたのではないか、など根も葉もない風評が起こり、寺井ゆり子さんは差別的な扱いを受けてきたそう。
それでも、結婚相手との間に子供を設けて、地に足のついた生活を送っているのだといいます。
犯行現場は、現在どうなっているのでしょうか。ここまで大々的に新聞やテレビで取り上げられてしまったことで、注目を集めていました。現在の様子について見ていきましょう。
事件があった貝尾集落は、2015年の国税調査によると、住人は12世帯の33人(男性が16人、女性が17人)になっています。
2010年に調査した時よりも人数が減少しているため、間違いなく過疎化が進んでいる模様。
事件の内容が内容なので、住所を聞いただけで興味本位の目で見られてしまうことは、愉快なことではありませんので、仕方のないことでしょう。
事件後に、都井睦雄の血縁者の3家族が村から出て行ったことが判明しています。事件当日に旅行などの理由で出かけていて命広いした人も、ここにはいられないと村から出ています。
このため、当時から集落に住んでいる人は既にいないようです。そして、ずっと放置されていた都井睦雄の生家は2015年に取り壊されました。
津山事件に対する注目度合いは長年変わっていません。naver社の『【津山事件】津山三十人殺しとは?【八つ墓村】 - NAVER まとめ』として掲載されていたようです。
しかし、NAVERまとめサイトは閉鎖されているため、今は見ることができません。
あの残忍な津山事件から、80年以上経過していますが当時の現場写真や、都井睦雄の写真は残っているのでしょうか。
1938年の時点ではネットもなく、カメラの現像技術も今程発展していませんが、事件直後の村様子や、警察官による捜査の様子を捉えた写真がネットに残っています。
犯人の都井睦雄については、事件の名前で検索しても、氏名で検索しても、本人の白黒写真があちこちのサイトに残されています。
被害者の殺害後の写真については、ネットの掲示板にアップされています。ちなみに、自殺後の都井睦雄の写真までもが掲示板にアップされています。
完全に閲覧注意の画像であるため、こういったものが苦手な方は検索しない方が良いでしょう。
そもそも、都井睦夫の犯行の動機とは一体どういった原因があったのでしょうか。両親と早い内に死に別れるなど、不幸な生い立ちではありましたが、成長した後にも犯行に走らせるような要因がありました。
小学校を卒業後に肋膜炎を患いましたが、10代後半で結核の兆候が出てきました。これが原因で、徴兵検査において不合格になっています。
不合格になったことだけではなく、結核であることまで村中に知られ渡ることになり、都井睦雄としてはバツの悪いことになり、犯行を決意した理由の1つになります。
結核は、感染する恐れがあることから、これまで関係を持っていた複数の女性達から一斉に拒絶されています。
当時の結核は、不治の病と言われていたことで、集落の人々が接近を恐れていたこともありますが、女性達は「マヌケ」と笑い者にしていたそうです。
この嘲笑は、都井睦雄のプライドを傷つけてしまい、抑えきれない犯行の衝動へと繋がったと見られています。
地方の集落内にいると、限られた人間関係の中で生きることになるため、集落から忌み嫌われてしまうことは、誰にとっても辛いことでしょう。
安心して接することができない環境は、いつしか村人に対する復讐心が募ることに、なっていったのではないかといわれています。
これまで、ドキュメンタリーや映画、ドラマなど津山事件をモデルに作られた作品が多数あります。その中でも知名度の高い作品は「八つ墓村」ではないかといわれています。
八つ墓村の作品について見ていきましょう。
横溝正史さんの傑作と言われる「八つ墓村」は、連続殺人事件を解決する金田一耕助のストーリー。
物語の舞台は、架空の場所としながらも、32人の男女が殺害された凄惨な事件が起きたことがあるといった、津山事件がモデルになっているといわれています。
横溝正史さんは、戦後に津山事件を知り、大いにインスピレーションを受け、「八つ墓村」の連載を1949年3月から1950年3月まで走り抜けました。
特に書き出しの部分は、一番「津山事件」の影響を受けたことを明かしています。
1948年に岡山県のデパートで防犯閲覧会が行われ、その中には津山事件の被害者達の血みどろの惨殺死体の写真が展示されていました。
この手の写真がデパートで飾られるというのは、現在では到底考えられませんが戦後すぐの、この当時は普通の感覚だったのかもしれません。
ちなみに、横溝正史さんもデパートに足を運び、これらを見ています。
八つ墓村は、これまでに何度も実写化されています。映画はこれまでに3回、テレビドラマは7回、舞台は2回。映像はありませんがラジオドラマは2回放送されています。
直接映像化されていないものの、関連作品としては2002年に放送された「TRICK2」では第1話から第3話まで「六つ墓村」という、タイトルをもじった作品が放送されました。
ストーリーも八つ墓村を連想させるものではありましたが、厳密には違う作品になっています。
その他には、少年マガジンで連載されていた「八つ墓村」もあり、小説を読んだことがなくても作品名をご存知の方は数多くいるようですね。
津山事件は1938年5月21日に、岡山県西加茂村の集落で30人の村民が一夜にして一斉に惨殺された殺人事件で犯人は全てを終えると自殺するという最悪の幕引きに。別名「津山三十人殺し」と呼ばれることも。
事件の犯人は、都井睦雄という集落に住む21歳の青年でした。犯行場所は、都井睦雄の自宅近隣に住む住人で、大人のみならず5歳の子供まで殺害されました。
単独犯の事件としては被害者が最多で、「昭和最悪の事件」という警察関係者の証言もあったそうです。
都井睦雄は、幼少期に両親が肺結核(当時は労咳と呼ばれていた)で死去し、祖母に育てられています。小学校卒業後に肋膜炎に罹ったり、10代後半には結核に罹ったことが不幸なことでした。
狭い集落内では、関係を持っていた女性達から蔑まれ、結核は感染症ということで、避けられるなど耐え難い屈辱から犯行に及んだそうです。
八つ墓村のモデルにされるなど、令和になった現在もその残忍性や田舎の社会性が今も語り継がれています。
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この事件は、1938年(昭和13年)5月21日未明に、岡山県の山村である西加茂村(現在の津山市加茂町)の集落で起きた殺人事件です。
一般的には「津山事件」と呼ばれていますが「津山三十人殺し」という呼ばれ方もしています。