木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
まず、『おせんころがし事件』がどういった事件だったのかについて、ご紹介します。凶悪なその事件について、迫ってみたいと思います。
『おせんころがし事件』は、事件内容の残虐性から『日本事件史上一恐ろしい事件』ともいわれています。それほどまでに、恐怖を覚える事件なのです。
『おせんころがし事件』は、今からだいぶ昔の昭和の頃に起こりました。昭和26年(1951年)10月10日に、『おせんころがし事件』が発生したのです。終戦から7年経った頃に起きたということです。
犯人は、上総興津駅で行商を出たまま行方不明になった夫を探すためにたまたま同駅に降り立った4人の母子を誘い出しました。そして日付が変わった翌日の深夜に、長男(6歳)および長女(11歳)を『おせんころがし』の断崖から投げ落としたのです。
挙句に母親(29)を強姦し、母親が背負っていた次女ごとその母親を投げ落としたのでした。長男は石で殴打され投げ落とされ、長女は殴打の末に投げ落とされたという話もあります。母親は、絞殺された後で投げ落とされたともいわれています。
落とされてしまった被害者たちは、崖の途中に落ちていたところを犯人に発見されてしまいます。そして、被害者たちを石で殴打し口封じのために殺害したというのです。
この事件では、生存者もいます。長女のみは、犯人に見つかることなく軽傷で済み、生き延びたのでした。事件でただ1人の証人ということです。
犯人の名は栗田源蔵といい、他の事件も合わせて8名もの人の命を奪っています。この人物は1926年生まれであり、26歳ほどの頃に事件を起こしました。また、犯行の残虐性からサイコパスであると見られます。
続いては、『おせんころがし事件』の犯人である栗田源蔵の生い立ちについて見ていきたいと思います。栗田源蔵は一体どういった人生を歩んできたのでしょうか。
栗田源蔵は、1926年(大正15年)11月3日に秋田県で生まれました。12人兄弟の三男であったといいます。父親の体が弱かったことから、母親が稼ぎ生計を立てていたのでした。それにより、栗田一家は貧しい暮らしをしていたと考えられます。
栗田源蔵は、小学校にあがる頃になっても夜尿症が治らなかったといいます。そのことが原因で学校でいじめに遭い、小学校を3年生で中退してしまいました。
栗田源蔵はその後、奉公に出ました。当時は、大きな商店に貧しい家の子どもが働きに出ることがあったのです。栗田源蔵はその奉公先も、夜尿症が原因で追い出されてしまいました。そして、1年の間に奉公先を10か所も点々としたといいます。
なお栗田源蔵は、この奉公をしていた期間の9歳の頃にとある老人と出会いました。この老人は、栗田源蔵に『女と寝る時には叩いたり締めたりすると良い』と教えたといいます。このことが、後の『おせんころがし事件』に繋がったのではないかとの見方もあります。
また、栗田源蔵が奉公先を追い出されたのは、彼が盗みをするようになったことも要因でした。
栗田源蔵は、19歳となった1945年(終戦の年)に徴兵されて青森県弘前(ひろさき)の歩兵第31連隊に入隊しています。しかしここでも、夜尿症が原因で除隊となりました。余談ですが、弘前歩兵第31連隊は、かつて明治時代に起きた八甲田雪中行軍遭難事件(後に『八甲田山』として映画化)にも関わりのあった歩兵隊です。
軍隊を辞めた後は、1948年に北海道へと移り美唄炭鉱で働くようになりました。それまではひ弱さがあり内向的だった栗田源蔵でしたが、荒々しい炭鉱の男たちと働く中で自身も粗暴になっていったのです。
その後は各地に移り住み、窃盗をするようになり盗んだ米を不当に販売し逮捕されました。また傷害や殺人未遂でも収監されていて、26歳の頃にはヤミ米ブローカーのリーダーとなっています。その頃は、『ハヤブサの源』と呼ばれていたといいます。
栗田源蔵は、『おせんころがし事件』以外にも女性を殺害した事件を起こしています。その概要について見ていきたいと思います。
ヤミ米ブローカーをしていた1948年に、栗田源蔵は三角関係のもつれから静岡県で殺人を犯しています。当時の栗田源蔵は複数の女性と交際していて、その中の1人から結婚を迫られたことから鬱陶しさを覚え、殺害したのです。これが栗田源蔵の最初の殺人でした。
それだけでなく、自首を勧めてきた他の女性をも殺害しています。この件については、栗田源蔵本人が別件で逮捕された際に自供するまで明るみになっていませんでした。
静岡での事件の3年後である1951年8月8日に、栗田源蔵は栃木県小山市において事件を起こしています。彼は盗みをする目的で町を彷徨っていたところ、ある家で母親が赤ん坊を寝かしつけているのを発見しました。栗田源蔵はそのままその家に侵入し、母親を強姦して絞殺までしています。
それだけでなく、母親を屍姦(しかん・亡くなった屍を犯すこと)をしたというのです。栗田源蔵は着物などの家財を盗んだ末に逃走しています。この事件では、台所にあったものを庭に埋めたり大便をするなどして立ち去ったとされています。
この2か月後に、栗田源蔵は『おせんころがし事件』を引き起こすこととなったのです。
『おせんころがし事件』から3か月後には、栗田源蔵は千葉県千葉郡検見川町(現在の千葉市花見川区)においても事件を起こしています。民家に侵入したところ、その家の主婦に見つかったことから絞殺して屍姦をしたのです。また、その場にいた60代の叔母も包丁で刺殺されてしまいまいした。
この事件で指紋が検出されたことにより、ついに栗田源蔵が割り出され彼は逮捕されました。
逮捕後には、栗田源蔵はどうなったのでしょうか。栗田源蔵のその後について見ていきたいと思います。彼に出された判決内容などにも注目です。
1952年1月13日に千葉のおせんころがしで起きた事件について、千葉地裁で1952年8月13日に栗田源蔵に対して死刑判決が下りました。
1953年12月21日には、宇都宮地裁において他の女性たちを殺害した事件についても死刑判決が言い渡されています。要するに、1審で2つの死刑判決を受けたことになり、こうした事案は栗田源蔵が初めての事例であったといいます。
その後には控訴が取り下げられ、栗田源蔵は身柄を宮城刑務所仙台拘置支所に送られました。判決後には彼の衰弱が激しく、再審が繰り返されたといいます。
1959年10月14日に、宮城刑務所において栗田源蔵の死刑が執行されました。栗田源蔵が32歳の時でした。8人もの人の命を奪った栗田源蔵の、32年間という人生が幕を閉じたのです。
『おせんころがし事件』では、被害家族の長女が生き延びたと前述しました。では、長女はどうなったのでしょうか。
長女は栗田源蔵に、頭から血が出るほどに殴られ崖から落とされました。しかし岩陰に隠れていたことから、被害者を探していた栗田源蔵に見つかることなく生存することができたといいます。
事件後、長女は唯一の生存者だったこともあり現場検証にも立ち会うこととなったのです。再度忌々しい現場を見なくてはならず、幼かった彼女は肩を震わせて泣いていたとされています。長女のその後の人生は不明となっていますが、無事に成人して自分の人生を歩んでいったと考えられるでしょう。
『おせんころがし事件』とは、千葉県にある断崖を舞台に起きた殺人事件です。犯人である栗田源蔵は、奉公に出るなど様々な経験をした人物でしたが、『おせんころがし』で3人を殺害しそれ以外にも5人を殺害しています。夜尿症が治らなかったことも人生を歪ませた一因となっている可能性もあるでしょう。
戦後7年目という時代には、こうした恐怖の事件も起こっていたのでした。
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『おせんころがし』という言葉自体が、一体何なのだろうと思う方もいるかもしれません。初めに、『おせんころがし』が何なのかについてご紹介します。『おせんころがし』は千葉県勝浦市に所在する断崖の呼び名です。
断崖の少し内陸には、国道128号線が通っているのが特徴です。『おせんころがし事件』は、この地で起きたため事件の名称に『おせんころがし』が使われています。この断崖が『おせんころがし』と名付けられた由来は、お仙という少女にまつわる伝承からきているとされています。