木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
力道山は、プロレスラーというイメージを持っている方もいるかもしれません。しかし、力道山は元々大相撲の力士でした。彼は二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所で初土俵を踏みました。そして1946年11月場所では入幕し、1948年5月場所で殊勲賞を受賞しています。
しかし力道山は1950年9月場所を前にして、自ら髷(まげ)を切り力士を廃業しました。その頃には関脇になっていました。廃業の理由としては、民族の壁に阻まれて(力道山は朝鮮人)大関に昇進できなかったという説が語られています。
しかし真相は、普段からの素行の悪さから二所ノ関親方から叱責されたいたこと、金銭問題等のトラブルなどがあったものと考えられるでしょう。
相撲界から引退した後には、興行師・百田巳之吉の戸籍に長男として入籍しました。そして、新田建設に資材部長として勤務しています。その後の1952年には、アメリカにわたりプロレスの訓練をして、帰国後に日本プロレスを立ち上げプロレスラーとして活躍するようになりました。
力道山は、『日本プロレス界の父』とも呼ばれるようにもなっています。
力道山の身長が気になる方もいるでしょう。力道山の身長は176センチとされています。ただ、プロレスラーとしての公称は180センチでした。
力道山は39歳という若さで亡くなっていますが、医療事故で亡くなったとの話があります。続いては、力道山の死因について迫ってみたいと思います。彼は本当に医療事故で亡くなったのでしょうか。
1963年12月8日夜に、力道山は赤坂のナイトクラブ『ニューラテンクォーター』で飲んでいました。その際に、居合わせた暴力団・大日本興業構成員の村田勝志と”足を踏んだ踏まない”で口論になったのです。怒った力道山が馬乗りになり殴ったところ、村田勝志に下から登山用ナイフで刺されてしまいました。
刺された後に力道山は警察沙汰にはせず、応急処置を受け帰宅しました。しかし翌日になり体調が悪化し、知り合いが医師をしているという赤坂の医療法人財団順和会 山王病院に入院しました。容態が悪化したのは、傷が塞がらない状態で飲食をしたためだったといいます。
そして刺された腹部を十数針縫う手術を受け、成功しています。
手術は成功しましたが、力道山は腹膜炎による腸閉塞になってしまいます。そして12月15日に再手術を受けたものの、穿孔性化膿性腹膜炎で急死してしまったのです。享年39歳でした。
1度目の手術後に、力道山は付き人に寿司を買ってこさせることや、お酒を飲んだりしていたという話があります。術後に暴飲暴食をしたことで、容態が急変したのではないかとの向きもあるでしょう。
しかし力道山の死については、医療事故説もあります。2度目の手術をする際に、麻酔医が気道を確保するのに失敗し窒息したというのです。とはいえ、この医療事故だという説も暴飲暴食をしたためという説と共に、仮説でしかないでしょう。本当のところは不明となっています。
明治期から昭和期にかけて活躍した女流歌人・与謝野晶子。格闘家であった力道山との接点はないように感じられますが、繋がりはあったのでしょうか。次に力道山と与謝野晶子について迫ってみたいと思います。
まずは与謝野晶子について見てみましょう。彼女は1878年生まれの歌人であり、作家や思想家としても活動をしました。雑誌『明星』に短歌を発表して、ロマン主義文学の中心となった女性でもあります。歌人・与謝野鉄幹の自宅に押し掛けて同棲するようになり、後に彼と結婚しています。
歌集『みだれ髪』が有名でしょう。
力道山と与謝野晶子は46歳差となり生まれた時代も異なります。活躍の場も違いますし、会ったこともないでしょう。そうしたことから、2人には直接的な接点はありません。
与謝野晶子は、現代において音マッドやコラ画像等のネタにされやすくなっています。与謝野晶子が力道山と闘う、コラ画像も作られているのです。さらには、『与謝野晶子はなぜ力道山を○さなかったのか』というYouTube動画まで存在するでしょう。
これは、増田俊也著作の本『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を元にして作られた動画であるものと考えられます。
端的にいうと、力道山は日本人ではありませんでした。ここで、力道山の出自についてご紹介します。彼はどういった出自だったのでしょうか。
力道山は、日本が統治していた時代の北朝鮮咸鏡南道洪原郡新豊里(ハムギョンナムドホンウォングンシンプンニ)で生まれました。両親は朝鮮人であり、彼は3人兄弟の末っ子だったといいます。
力道山の朝鮮名は金 信洛(キム・シルラク)といいました。元は、シルム(韓国や朝鮮の相撲)の選手であったといいます。シルムでの強さを見込まれて、後の育ての親である百田巳之吉が勧めたことで1940年に来日しました。なお、力道山の日本名は百田光浩です。
力道山は、自身が朝鮮人であることをひた隠しにしていました。力士時代に韓国と北朝鮮が建国されましたが、彼は自身が朝鮮人であることを明かしていなかったのです。知られれば、差別を受けると考えていたからでしょうか。
力道山は、自身の主演映画『力道山物語』でも出自の設定を『長崎県の貧しい農家で生まれ育った』としていました。また彼は、1963年に20年ぶりに朝鮮を訪れています。この際には東京中日新聞に『力道山、二十年ぶりに母国へ』との記事が書かれ、力道山は激怒しました。
これは、これまで朝鮮人であることを必死に隠してきたのに明かされてしまったためであると考えられます。
同じ朝鮮民族であるからなのか、力道山は韓国からの密入国者の日本への移住を認めさせたという話がありました。それは本当なのでしょうか。続いては、密入国を認めさせたというエピソードについて迫ってみたいと思います。
1958年4月に、韓国からの密入国で金一(キム・イル)が横浜において“入管法違反”で逮捕されました。彼は同郷であった力道山に憧れ、密入国したのだといいます。そして、日本でのプロレス入りをうかがっていたのでした。すると、力道山が金一の身元引受人となりました。
そして、日本プロレスコミッショナーであった自民党副総裁・大野伴陸の力によって釈放され、日本への移住が認められたのです。
力道山は、金一を自身の門下生(日本プロレスに入門)にして”大木金太郎”というリングネームを与えました。そして、大木金太郎は1958年11月にデビューしています。翌年の1959年にはジャイアント馬場やアントニオ猪木がデビューしたことから、“若手3羽烏”と呼ばれました。
ただし力道山は、大木金太郎に韓国名を名乗ることを禁じたといいます。
力士やプロレスラーとして活躍した力道山ですが、結婚はしていたのでしょうか。次に、力道山の結婚について迫ってみたいと思います。彼の妻や子供について見てみましょう。
1950年に、力道山は小沢ふみ子という女性と結婚をしましたが、直ぐに離婚しています。なお、この小沢ふみ子は正式な妻であったのかは不明であるという話もある模様です。
1963年6月には、38歳で17歳年下の田中敬子(当時21歳)と結婚をしました。日本航空でキャビンアテンダントをしていた女性であり、彼女の父親は神奈川県警の警視(茅ヶ崎警察署長)だったといいます。そして田中敬子と結婚した頃には、力道山には既に3人の子供がいたのです。
力道山には3人の子供(息子)がいるとされますが、母親は誰なのでしょうか。3人の子供は小沢ふみ子との間に生まれたわけでもありませんでした。彼らの母親は、力道山が京都で知り合った芸者・綾だったのです。この芸者とは、結婚はしていなかった模様です。
3人の息子がいるという力道山ですが、孫はいるのでしょうか。ここで、力道山の孫についてスポットを当ててみたいと思います。孫は何をしているのか、見てみましょう。
力道山には、百田力(ももたちから)という孫がいます。百田力は現在40歳となっています。力道山が亡くなってから大分時が経ってから誕生しているでしょう。また、力道山の次男である百田光雄の息子です。なお、百田光雄も力道山同様にプロレスラーをしています。
百田力は、日本大学法学部を卒業した後の2004年にプロレスリングノアの練習生になりました。しかし、ノアでびデビューまでには至りませんでした。
百田力は、『力道山没50年追悼記念興行』において“力”のリングネームでプロレスデビューしました。この試合では父親の百田光雄とタッグを組み、折原昌夫とNOSAWA論外のタッグと対戦しました。そして百田光雄がNOSAWA論外を沈めて勝ったのです。
また、試合の前日には力道山の墓前を訪れていたといいます。
2020年11月29日には、百田力は『爆破甲子園』の鶴見大会で納谷幸男と双方別々にタッグを組み対戦しました。納谷幸男は、相撲界の”昭和の大横綱”と呼ばれる大鵬の孫であり、元関脇・貴闘力の長男です。試合の結果は、納谷幸男側が勝利した模様です。
力道山の孫娘として、パクヘジョンという女性がが2002年釜山アジア競技大会で北朝鮮の重量挙げの監督としてエントリーしました。そして話題になったのです。実は力道山は15歳で結婚をしていて、子供もいるとの話があります。彼が結婚したのは、来日する前のことです。
上述の3人の息子の他にも、北朝鮮に子供がいたという可能性があるでしょう。パクヘジョンは、その孫にあたると考えられます。
柔道家でありプロレスラーであった木村政彦という男性がいました。続いては、力道山と木村政彦の関係について見てみたいと思います。2人はどの様な関係だったのでしょうか。
木村政彦は、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われていました。また『鬼の木村』の異名を持っていた柔道家であり、“木村の前に木村なく、木村の後に木村なし”と称えられていたほどです。
日本でのプロレス初興行(開催は当時の蔵前国技館)で、力道山は木村政彦とタッグを組みました。1954年2月19日のことです。興行自体は、1954年2月19日より全国を14連戦しています。この試合ではシャープ兄弟と対戦しましたが、前年にテレビ放送が開始されたこともあり大きなブームとなりました。
ところが木村政彦の方は、プロレス独特の相手の技を受けるなどのスタイルが合わなかったこと等、複数の要素により嫌気がさしたといいます。シャープ兄弟との闘いで、常に負け役を担わされていたことも理由でしょう。そのことから、力道山と木村政彦の間に溝が生じ始めました。
そしてついに2人は袂を分かち、木村政彦は自身の団体で興行を打つようになりました。しかし観客の動員数が思わしくなく、金銭面で窮地に立たされたのです。また彼は、朝日新聞の記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と言い挑戦を明らかにしています。
木村政彦が力道山に対して挑戦を明らかにしたことから、『昭和の巌流島』と言われる試合が開催されることになりました。力道山も挑戦を受けたのでした。1954年12月22日に、『プロレス日本選手権』と銘打たれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われたのです。
この試合は、“相撲が勝つか柔道が勝つか”と騒がれたといいます。試合では、力道山が木村政彦を蹴り上げKOしました。これは、急所蹴りをしたことに力道山が激怒したことによるとされています。本来この試合は巡業が予定されており、全国の大会場を回ることになっていました。
しかし上記のことが初戦で起きたのでした。
力道山は暴力団関係者・村田勝志に刺されたことで手術を受けましたが、麻酔科医による医療事故で亡くなった可能性もあります。また、力道山本人が手術後に暴飲暴食したことも 要因になるという話もあるでしょう。とはいえ、本当のところは分かっていません。
与謝野晶子とは、力道山と絡めた動画がインターネット上で作られているものであり、直接的な関係はないものと考えられます。39歳という若さで亡くなった力道山でしたが、プロレス界で人々を熱狂させたのです。
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