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2023/12/28
大今里
トランキーロは、新日本のプロレスラー内藤哲也が決めゼリフとして使い始めた言葉です。トランキーロを使い始めてから、内藤哲也は大ブレイクします。その後は、2年連続でプロレス大賞でMVPを獲得し、最も影響力のあるプロレスラーと言われるようになりました。
トランキーロは、流行語大賞を噂されるほど各所で使われるようになっています。トランキーロの意味や内藤哲也の活躍についてまとめてみました。
内藤哲也が使うようになりどんどん知名度を上げたトランキーロですが、そもそもどんな意味があるのでしょうか?トランキーロの意味やどんな風に広まっていったのかについてご紹介します。
「トランキーロ」は、内藤哲也がマイクパフォーマンスなどで使うようになり、広まったスペイン語の単語です。内藤哲也は、「トランキーロ」を「あっせんなよ」という日本語に翻訳し、「トランキーロ あっせんなよ 」が決めゼリフになりました。
トランキーロが使われ始めたのは、2015年に内藤哲也がメキシコから帰国してからです。トランキーロはメジャーリーガーがインタビューで自然に口にしたり、女優がドラマでトランキーロと言う場面もありました。
トランキーロは流行語大賞になるのではないかと言われるほど、大きな広がりを見せているのです。
内藤哲也が「あっせんなよ」と訳すトランキーロはどんな意味なのでしょうか?トランキーロは、「Tranquilo」と書きます。これは、興奮した人を落ち着かせたい時にかける言葉です。端的に言えば「焦るな」という意味になります。
興奮した相手に言うわけですから、ニュアンスとしてはもう少し優しくなるでしょう。違約すれば「まあまあ」などとなるはずです。内藤哲也の「あっせんなよ」は、意味としては間違っていません。
しかし、挑発的な感じで、相手を落ち着かせたい時に使う感じではありません。ただ、プロレスのパフォーマンスとして考えると実に見事な訳で、内藤哲也のセンスの良さが感じられます。
内藤哲也は、新日本プロレスの次期エースとして期待されていました。しかし、結果を残せないまま時間が経ち、絶対的エースとしてオカダカズチカが君臨するようになります。そんな内藤哲也ですが、トランキーロを使うようになった2015年7月から急激に勢いを取り戻します。
2016年の4月にはオカダカズチカに勝利し、初めてIWGP王座を手に入れます。反則が多く試合内容は誉められないのに巻き起こる内藤コールが、彼の人気を証明していました。
そしてマイクパフォーマンスで「トランキーロ!あっせんなよ!」の決めゼリフに、観客の盛り上がりは頂点に達しました。その後も、トランキーロは広がりを見せます。
内藤哲也のトランキーロ旋風が広がる中、更にトランキーロを広める事態が起こります。人気ドラマの「99.9刑事専門弁護士」でトランキーロが使われたのです。元々、「99.9」はプロレスネタが使われるドラマでした。
榮倉奈々演じる立花彩乃は、プロレスファンでオカダカズチカが好きという設定です。その榮倉奈々が、内藤哲也そっくりのポーズでトランキーロと言ったのです。
元々、ドラマのファンの間では、プロレスネタが使われることは当たり前になっていました。しかし、トランキーロはTwitterで盛り上がり、プロレスを知らない人の間にも広がることになりました。
内藤哲也は、新日本プロレスに所属するプロレスラーです。5歳の頃に新日本プロレスを初観戦してから、ずっとファンだったそうです。若手の頃に頭角を現し、次期エースと期待されるようになります。しかし、肝心な時に勝ち切ることができず、中々目が出ない時期が続きました。
そんな内藤哲也ですが、トランキーロを使うようになり一躍脚光を浴びます。内藤哲也のプロレスラー人生についてまとめてみました。
内藤哲也は、5歳の頃に父親と一緒に新日本のプロレス観戦をするようになりました。プロレスファンだった父親には、アントニオ猪木のことはさん付けで呼ぶように言われたそうです。そんな環境で育ったため、学校でプロレスごっこをして遊ぶようになりました。
幼稚園から高校まではサッカーを続け、父親が少年野球の指導をしていた影響で野球もしていたそうです。内藤哲也は中学生の時に初めてチケットを買い、日本武道館大会を見に行きました。その試合に感激し、プロレスラーになることを決めます。
内藤哲也は、新日以外のプロレスに興味がないほど新日ファンだったそうです。高校のサッカー部を引退した内藤哲也は、2000年の9月からプロレス志望者としてアニマル浜口トレーニングジムに通うようになります。
高校を卒業した内藤哲也は、アルバイトをしながらジムに通っていました。2002年には、新日本の入門テストを受ける予定でした。しかし、そんな時に右膝前十字靭帯断裂というケガを負ってしまいました。全治9ヵ月という重症で、この年の入門テストは受けることができなくなります。
2003年はリハビリをすることになり、2004年にはベンチプレス中に肩を痛めてしまいます。内藤哲也は怪我のため、3年連続で入門テストを受けることができませんでした。2005年の11月にようやく入門テストを受け、無事に新日本入りを果たします。
入門テストでずば抜けた成績を残したこともあり、アマチュアで実績のない新人としては異例の速さでデビューすることになります。
内藤哲也は、2006年の5月にデビューしました。対戦相手は、リキプロの宇和野貴史でした。勝つことはできませんでしたが、周囲から高い評価を受けるようになります。「試練の5番勝負」として獣神サンダー・ライガー、外道、稔、邪道、金本浩二の5人とシングルマッチを行います。
その後、10月に神戸で行われた平澤光秀との試合で、初勝利を経験します。この試合は、2006ヤングライオンベストバウト賞に選ばれました。2007年の6月に再び外道と対戦することになります。見事に勝利し、番狂わせを起こしました。
10月には、ジュニアヘビー級王座の挑戦権をかけたニュージャパンランボーに参加することになります。結局、勝ち残ることはできませんでしたが、最後の2人になるまで残っています。頭角を現し始めた内藤哲也は、次期エースとして期待されるようになりました。
2008年の10月にはIWGPジュニアタッグ王座を手にし、内藤哲也は次期エースとして期待されるのようになります。しかし、その後様々なタイトルに挑戦するも、肝心なところで勝つことができません。そんな中、武者修行でアメリカに渡っていたオカダカズチカが帰国します。
内藤哲也より5歳年下のオカダカズチカでしたが、帰国から数ヶ月でIWGPヘビー級王座を奪取してしまいます。オカダカズチカは史上2番目の若さで王者になりました。内藤哲也はオカダカズチカに挑戦しますが、敗北してしまいます。
オカダカズチカはその後も快進撃を続け、最年少タイ記録でプロレス大賞で最優秀選手賞を受賞します。日刊バトル大賞プロレス部門でも各賞を受賞し、5冠王を達成します。内藤哲也が次期エースという声は完全になくなってしまいました。
内藤哲也は2012年の8月に右膝を痛め、古傷が悪化してしまいます。10月の試合で右膝を更に痛め、長期欠場をすることになってしまいました。2013年の6月に復帰するまで長期欠場を強いられます。復帰後はNEVER無差別級王座の奪取を宣言し、王座に挑戦します。
8月にはG1初優勝を果たし、9月29日にはNEVERの王座を奪うことに成功します。しかし、2014年にはIWGPヘビー級王座をかけたオカダカズチカとの試合に敗北し、NEVER王座も石井智宏に奪われてしまいます。
その後も、成績を残せずに2015年の5月を迎えることになります。
2015年の5月、内藤哲也はメキシコに遠征することになります。遠征で何も得られなければ、自分は終わりだと覚悟した上での遠征でした。メキシコでインタビューを受ける内藤哲也は、スペインのプロレスラー「ラ・ソンブラ」からTシャツを渡されます。
Tシャツには「ロス・インゴベルナブレス(Los Ingobernables)」と書かれていました。スペインのロス・インゴベルナブレスに加入しないかという勧誘でした。加入を決意した内藤哲也はそのTシャツに着替え、ロス・インゴベルナブレスの一員になります。
なんとか、結果を出そうと焦る内藤は、ラ・ソンブラやロス・インゴベルナブレスのメンバーにトランキーロ(焦るな)と声をかけられたそうです。2ヵ月に渡る遠征を終えて帰国した内藤哲也は、別人のように変わっていました。
日本に帰国した内藤哲也は、ロス・インゴベルナブレスのTシャツを着るようになります。今までとは、ファイトスタイルが大きく変化し、リング上で寝っ転がるなどやる気がないような態度を取ります。観客からはブーイングを浴びせられますが、その態度には焦りがありませんでした。
トランキーロは、内藤哲也自身を大きく変えたのです。内藤哲也はトランキーロの他にもスペイン語を使うようになり、プロレス界を中心にトランキーロブームが起こり始めます。メジャーリーガーの川崎宗典もインタビューで、自然にトランキーロを使っていました。
2015年11月には、ロス・インゴベルナブレスの日本版であるロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを結成します。この年は、大きな結果は残せませんでしたが、確実に内藤哲也がプロレス界の中心になり始めていました。
2016年の4月にオカダカズチカに勝利し、内藤哲也はIWGP王者の座につきます。5月には石井智宏を退け、初防衛に成功します。6月にオカダカズチカに敗れ、王座からは退くことになりますがその影響力はますます増していくことになります。
9月にはマイケル・エルガンを倒し、IC王座を手に入れました。この年は、G1で最も多くメイン任されました。ファンから圧倒的な支持を得ることになり、プロレス大賞MVPに2年連続で輝くことになりました。
内藤哲也は、メキシコから帰ってきてからトランキーロを使い始めました。しかし、内藤哲也は、トランキーロ意外にも多くのセリフを使うようになりました。
内藤哲也は、トランキーロ以外にも意味がわからないセリフを数多く使うようになります。それらは全てスペイン語です。内藤哲也が使うスペイン語のセリフについてまとめてみました。
スペイン語では、挨拶として使われる言葉です。「ブエナスタルデス」が「こんにちは」で、「ブエナスノーチェス」が「こんばんは」になります。内藤哲也は、「ブエナスノーチェス両国!!」、「ブエナステルデデス大阪!!」など、会場の場所を後ろに着けて使っています。
カブロンは、クソ野郎というような汚い罵り言葉です。内藤哲也は、対戦相手を挑発するのによく使っています。カブロンは、使ってはいけない危険なスラングとして紹介されることもあります。
オクパードは忙しいという意味です。内藤哲也は「オクパードなんだよ!」と言っていたことがあります。
「カンサード」の意味は疲れたです。内藤哲也は、インタビューを切り上げる際にカンサードを使うことが多いです。
パレハとは仲間という意味です。「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」のメンバーがいない時、内藤哲也は「俺のパレハを連れてくる」と言っていました。
ネセサリオは必要という意味です。内藤哲也を紹介したYouTubeの動画では、いいねを求める意味でネセサリオが使われていたこともあります。
結構、日本でも使われている言葉ですが、意味は「さよなら」です。別れ際に、普通に使っている人もいるのではないでしょうか?
スペルエストレージャは「Super Estrella」と書きます。意味はスーパースターです。メキシコのプロレスルチャリブレでは、スター選手に対して使われる言葉でもあります。
アスタ マニャーナは別れの挨拶です。「また明日」と訳されるように、明日会う予定がある場合などに使われる挨拶ですね。
左手で目を見開くポーズは、内藤哲也がメキシコから帰ってきてから決めポーズとして使うようになりました。このポーズの名前は、スペイン語で「アブレ・エル・オホ」と言います。
意味としては、「ちゃんと目を開けて見てるのか?」という挑発的な意味で、メキシコのプロレスファンが日本人レスラーをからかうためにしていたそうです。それに対して、内藤哲也は「目は開いてる」と自分からアピールしてやり返しました。
それから、このポーズをいつもするようになったそうです。
トランキーロは、あちこちで使われるほど知名度が上がりました。トランキーロに関連したグッズがあるのか気になるでしょう。トランキーロで調べてみると靴の名前だったり、お酒があったりと内藤哲也と関係あるのかないのかわからない商品が沢山あります。
もちろん、内藤哲也のトランキーロのグッズも色々と販売されています。
ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンのTシャツやキャップ、内藤哲也オリジナルデザインのデスティーノTシャツなどが販売されていますが、「トランキーロ 焦」と書かれたTシャツも販売されました。
トランキーロの人気がわかりますね。
新日本プロレスブックスから、内藤哲也自伝「トランキーロ」が販売されています。デビュー前から現在に至るまでの軌跡が書かれた内容です。内容は公式スマホサイトのコラムを書籍化したものですが、本でしか見られない写真も多数掲載されています。
下巻も発売が予定されています。
内藤哲也は自分でも後がないと思うほど追いつめられましたが、メキシコに行って生まれ変わりました。トランキーロには、焦っていた時の自戒の意味も込められているのでしょう。
トランキーロは流行語大賞にはなっていませんが、さらに広がりを見せています。今年こそ、トランキーロは流行語大賞になるかもしれません。
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【この記事は2020/03/23に更新されました。】