木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
川上憲伸さんは、徳島県徳島市出身のプロ野球選手であり、速球やカットボール、そしてスローカーブ、フォークボールを駆使し、活躍したピッチャーです。
“カットボール”が最大の武器ともなっており、助っ人として日本に来ていた外人選手やメジャーリーガー達から「日本で唯一本物のカットボールを投げる投手」と称されたとの逸話もあります。
カットボールに関しては、アメリカ大リーグ中継でマリアノ・リベラ(ニューヨーク・ヤンキース)が、それまで見たことが無い変化球を投げているのを見て、この球種を覚えたいと思い、習得したそうです。
川上憲伸さんは、NPBで21世紀初のノーヒットノーランを達成した投手です。
2002年8月1日、東京ドームで開催された対読売ジャイアンツ(巨人)20回戦で先発し、ノーヒットノーランを達成しました。対巨人戦でノーヒットノーランを達成した投手は、2021年時点で、川上憲伸さん以降誰もいません。
ノーヒットノーランとは、投手が相手打線にヒットを許さずに完封勝利することです。毎シーズン、1人出るか出ないかくらいで、ノーヒットノーランを達成するには、本人のメンタルもさることながら、まわりの守備をしているチームメートも、自身がエラーをしないかプレッシャーがかかります。
プロ野球選手と言えば、女子アナウンサーやタレント、最近では元アイドルと結婚する人も多いイメージですが、川上憲伸さんの嫁はどんな方なのでしょうか。
川上憲伸さんは、2011年末に結婚していたことが、2012年2月になり明らかになりました。後述しますが、川上憲伸さんはメジャーリーグに挑戦していた時期があり、アメリカにいる時期に結婚し、日本に戻ってきたことになります。
沖縄でのキャンプに参加していた川上憲伸さんは、記者から尋ねられると、少し照れながら質問に答えたとの事でした。
川上憲伸さんが結婚した女性は、7歳年下のアメリカ在住で日本とアメリカのハーフであるミナ・パターソンという一般女性でした。
英語の教師をしていて、語学が堪能との話もありますが、名前と年齢以外は一般人という事もあり公表されておらず、顔写真等の詳細は分かりませんでした。
一般人でも、テレビ出演などで顔が出ている人もいますが、川上憲伸さんの嫁の顔写真などは出回っていませんでした。
アメリカに渡り、メジャーリーグに挑戦していた川上憲伸さんですが、妻とはどうやって出会ったのでしょうか。詳しく見ていこうと思います。
川上憲伸さんが、ブレーブスに所属していた時代に、知人に招待されたパーティーで妻と出会ったそうです。
2011年にメジャーリーグでの挑戦を終え、日本球界に戻ってきた川上憲伸さんですが、日本に戻るタイミングの2011年末に入籍したようです。
2009年にアトランタ・ブレーブスと3年契約を結び、4月11日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャー初登板を先発として果たし、勝利投手となりデビューを飾り、幸先の良いスタートを切った川上憲伸さんでしたが、翌年からは肩の違和感などの原因もあり、なかなか勝利を挙げることができませんでした。
そして、2010年のオフには、傘下のAA級ミシシッピへ降格。2011年シーズンは、AA級ミシシッピで開幕を迎えました。
順調とは言えないアメリカでの生活、また、肩の状態など、微妙なニュアンスの表現ができず、不安のある状態で投げていた川上憲伸さん。
言葉の壁にも苦しんでいた川上憲伸さんを嫁が支えていたようです。川上憲伸さんは「慣れないアメリカでの生活で常に寄り添ってくれた存在はとても大きかった」と嫁の存在を語っています。
川上憲伸さんは結婚して10年が経ちますが、子供がいるとの話は、話題にはあがっていません。そのため、子供がいるかどうかは不明です。
もともとバラエティ番組に出て話すタイプでもないので、あまりプライベートが明らかになっていませんでした。
続いては、川上憲伸さんの経歴について詳しく見ていこうと思います。
川上憲伸さんは、徳島商業高校に進学し、第75回全国高等学校野球選手権大会に4番・エースとして出場し、ベスト8に進出する活躍をしました。
その後、明治大学二部商学部に進学し、東京六大学野球で活躍し、4年時にはキャプテンも努めていました。
1997年度ドラフト会議で、中日ドラゴンズを逆指名し(現在は無い制度ですが、以前は、大学生と社会人野球の選手で1球団に付き2名までの対象選手が、自分の希望するチームを宣言することができました)、ドラフト会議では、中日ドラゴンズに1位指名で入団しました。契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)の契約でした。
ルーキーながら、開幕から1軍に定着し、14勝8敗の成績を残し新人王を獲得しました。
その後は、中日ドラゴンズのエースとして活躍し、2008年には北京オリンピックにも出場しました。
2008年オフには海外FA権を行使し、メジャーに挑戦し2009年1月にアトランタ・ブレーブスと3年契約を結びました。
2009年4月11日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャー初登板を先発として果たし、6回を4安打3失点8奪三振で抑えて勝利投手となる、華々しいデビューを飾った川上憲伸さん。
ロイ・ハラデイやヨハン・サンタナらメジャーを代表するエース級投手に投げ勝ったことでドラゴンスレイヤーと呼ばれるようになりますが、得点援護率がリーグワースト3位になるなど勝ち星に恵まれず、シーズン後半はリリーフに回ることとなりました。
2010年シーズンは、開幕から先発ローテーション入りしますが、打線の援護もなく球団史上ワーストとなる開幕9連敗するなどし、以後はリリーフへと回りました。そして、傘下のAA級ミシシッピへ降格することとなります。
2011年シーズンはAA級ミシシッピで開幕を迎えましたが、右肩の調子が悪く、7月12日に右肩痛を再発してDL入りするなど、この年はメジャーに昇格することなくシーズンを終え、3年契約が終了となりました。
その時点で肩の手術をすることを明かしています。
2012年シーズンからは、中日ドラゴンズに復帰しました。広島との開幕第2戦(3月31日)に、先発投手として登板すると、6回無失点という内容で、NPB復帰後初勝利を挙げます。
しかし、故障のため戦線離脱し、2012年シーズンは7試合の登板で3勝1敗、防御率2.83の成績でした。
2013年シーズンは、右肩痛で出遅れ、8月22日の対広島戦にて一軍初登板し、初勝利をあげますが、9月25日に出場選手登録を抹消され、10月3日には、球団から戦力外を通告され、引退会見の開催やコーチへの就任を打診されました。
しかし、本人の現役続行の意思が強く、推定年俸3000万円という条件で2年契約が結ばれました。
2014年シーズンは、一軍では、6試合の登板で1勝2敗、防御率4.78という成績に終わりましたが、推定年俸4000万円(1000万増)という条件で契約が更新されました。
2015年シーズンは、右肩の腱板を痛めた影響で、一・二軍とも実戦登板の機会がなく、チームの戦力構想から外れたこともあり、中日ドラゴンズを退団しました。
日本球界への復帰後は、怪我の影響もあり、思うような成績を残すことは出来なかったようです。
中日ドラゴンズを退団したものの、「限界に近いのは分かっている、限界を超えてまでもやりたい」と、手術を受けた右肩のリハビリを続けつつ日本球界での復活を模索しました。
しかし、四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスから、選手兼任コーチへの就任の打診はありましたが、契約には至らず、NPBからのオファーは無く、2017年3月に現役引退を発表しました。2017年4月5日のナゴヤドームでの中日対広島戦前の始球式が引退登板となりました。
続いては、川上憲伸さんのプロ野球選手としての生涯成績を見ていこうと思います。
川上憲伸さんの、日本球界での通算成績は、通算登板数が275試合であり通算勝利数117勝、通算敗戦数76敗、通算防御率3.24でした。
2004年には、その年の日本プロ野球で最も活躍した完投型先発投手を対象として贈られる特別賞である、沢村栄治賞を受賞しています。
タイトルは、最多勝利 2回(2004年、2006年)、最多奪三振 1回(2006年)、最高勝率 1回(2006年)を獲得しています。
NPBのホームページに、川上憲伸の『個人年度別成績』が掲載されています。これは、日本球界でのみの成績となります。
『ベースボールONLINE』のホームページには、川上憲伸さんのメジャーリーグでの成績も合わせた通算の成績が掲載されています。
また、彼の年俸も記載されているネット記事もあり、川上憲伸さんが活躍していたプロ野球選手だったことがよく分かります。
川上憲伸さんの生涯年俸は、大リーグ時代の年俸が3年で23億という契約もあったため、40億を超えていると言われています。
続いては、川上憲伸さんと元巨人で選手として、また監督としても活躍した高橋由伸さんの関係について詳しく見ていこうと思います。
川上憲伸さんも高橋由伸さんも1945年生まれであり、同学年です。現在は双方共に46歳となっています。
高橋由伸さんは、読売ジャイアンツで活躍したプロ野球選手です。中学卒業で野球を辞めようと考えていましたが、父の要望で甲子園を目指すことに決め桐蔭学園高等学校に進学し、甲子園にも出場しています。
高校卒業前には、複数のプロ野球球団からスカウトされていましたが、慶應義塾大学へ進学し、六大学野球でも活躍し、あまいルックスもあり、人気選手でした。
複数球団が獲得に動きましたが、巨人を逆指名し、ドラフト1位で入団しました。
川上憲伸さんたちがプロ野球界入りをした1998年は、ルーキーの当たり年だと言われていました。
阪神タイガース・坪井智哉さんや広島東洋カープ・小林幹英さんと共に、川上憲伸さんと高橋由伸さんは新人王争いをしており、川上憲伸さんが新人王を獲得しました。
明治大学出身の川上憲伸さんと慶応義塾大学出身の高橋由伸さんは、東京六大学野球時代からのライバルでした。
続いては、引退後の川上憲伸さんの活動について詳しく見ていこうと思います。
2017年に現役を引退してからは、野球解説者をしています。
また、報道ステーションでは、スポーツコメンテーターとして出演しており、現役時代はどちらかというと寡黙なイメージだった川上憲伸さんですが、引退後は、よく話明るいキャラクターで、野球ファンからは好評を博しています。
2020年5月には、Youtubeチャンネル『川上憲伸 カットボールチャンネル』を開設し、Youtuberデビューしています。
現在は、18.4万人がチャンネル登録しており、掛布雅之さん、前田智徳さん、下柳剛さん、宮本慎也さんなどゲストを迎えたと対談動画や、裏話など野球ファンにはどれも興味のある内容となっています。
SNSを中心として、『一見すると禿げているようには見えないものの、良く見るとヤバい』との意見があがっているようです。
髪を前にもってきて、禿げいるのを隠しているようにも見えるとも言われています。
中日ドラゴンズのエースとして活躍し、大リーグにも挑戦した、元プロ野球選手の川上憲伸さんについてご紹介してきました。
選手としての晩年は、怪我に悩まされ、思うようなパフォーマンスが出来ませんでしたが、通算成績は、通算登板数が275試合であり通算勝利数117勝、通算敗戦数76敗、通算防御率3.24という成績を残しています。
2017年に引退してからは、野球解説者として活動するほかに、Youtubeチャンネルを開設し、Youtuberとしても活躍されています。元プロ野球選手視点で語られるあれこれは、ファンからはとても好評のようです。
これからは、コーチや監督としても活躍されるかもしれませんね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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