木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
中村紀洋さんは、1991年のドラフト会議で、4位指名を受けた近鉄バファローズに入団しました。
1991年のドラフトは、各球団の4位指名の選手が、大豊作だと言われています。 阪神が桧山進次郎さん、オリックスがイチローさん、近鉄が中村紀洋さん、広島が金本知憲さんと、その後、球界を引っ張る存在に成長した選手ばかりなのです。
また、大洋(現横浜ベイスターズ)の6位にはハマの番長こと三浦大輔さんがいました。
プロ入り後の中村紀洋さんは、1992年、1993年は出番は少なく控え選手だったものの、1994年に頭角を現し、1995年にはレギュラーとして定着しました。
1996年からは手首の怪我に悩まされますが、1998年にはリーグ2位の32本塁打を放つなど、チームを代表する選手になります。
1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得しました。
2000年にはシドニー五輪の代表に選ばれ、4位に終わった時のインタビューでは、号泣するシーンが放送されました。
シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改。シアトル・マリナーズに移籍したイチローさんに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になりました。
2001年は、4番打者として活躍し、132打点で打点王を獲得し、全試合出場を果たし、打率では.320という記録を残し、推定年俸5億円+出来高払い1億円の単年契約を結びました。
2002年にFA権を行使して、大リーグのニューヨーク・メッツと契約寸前となるものの白紙となり、近鉄に残留しました。
700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられ、メッツの公式HPに掲載されました。
それに対して、「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とし、契約交渉が白紙となりました。
そして、近鉄と再交渉を行い、推定6年契約30億円+出来高払いで近鉄残留を表明しました。
2003年は5月半ばに右膝を傷め、右膝半月板損傷と診断され、それ以降は怪我の影響絵成績が振るわなくなった中村紀洋さんでしたが、2005年1月にポスティングシステムでメジャーリーグへ挑戦を発表しました。
しかし、以前の、ニューヨーク・メッツと契約寸前での契約白紙のイメージが色濃く残っていた中村紀洋さんに対し、獲得に名乗りを上げる球団がなかなか現れず、2月にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約をしました。
しかしほとんどマイナーリーグでの試合出場となり、メジャーでは17試合で5安打でした。目立った成績を残すことが出来ず、2006年9月5日にAAA級のシーズンが終了し、日本に戻ってきました。
日本に戻ってきた中村紀洋さんは、推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約で、オリックスへの入団を発表します。
日本球界に復帰した中村紀洋さんですが、度重なる怪我により、シーズン終了後の契約更改では、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示され、それを固辞。
2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われましたが合意に達せず、球団側は契約更改を断念し、自由契約選手となります。
その後、中日ドラゴンズと、年俸400万円の育成選手枠で契約します。中日ドラゴンズで打率.293、20本塁打、79打点をマークすると、日本シリーズでも活躍し、MVPも獲得します。シーズン終了後、年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新しました。
中日ドラゴンズプレーし、FA権を行使、東北楽天ゴールデンイーグルスと推定年俸1億5,000万円プラス出来高の2年契約で契約をします。
2年プレーしましたが、球団から戦力外通告を受け、その後契約先は見つかりませんでしたが、2011年5月23日、横浜ベイスターズへ入団しました。
横浜ベイスターズでは、4年プレーしましたが、自由契約公示され、現役続行を表明しましたが、NPB加盟球団からのオファーはありませんでした。
長きにわたり、日本球界で活躍してきた中村紀洋さんですが、引退はしていないといいます。いったいどういうことなのでしょうか。
中村紀洋さんは、既にプロ野球選手としては活動をしていないので、実質的には引退をしている状態です。
2021年6月21日深夜に放送された『こやぶるSPORTS超』で、生涯現役にこだわることを明かしています。
と、気持ちを語りました。しかし、「オファー来たらどうします?」との問いに「もう走れない。投げたりはできるけど、打ったら走らなアカン。代打の切り札だったらまだいけそうかな」とも語っていました。
元プロ野球選手でありスポーツライターの高森勇旗さんが取材したところによると、中村紀洋さんは「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける。それが、生涯現役っていう意味や」と述べています。
中村紀洋さんの言う“生涯現役”とは、要するに『野球選手としてグラウンドに立つことのみが現役ではない』というポリシーから来るものであるそうです。
現役を実質引退した中村紀洋さんですが、現在は何をされているのでしょうか。
中村紀洋さんは、横浜ベイスターズを自由契約となり、実質、現役を引退した後は、小中学生相手の野球教室を開いたり、野球解説者として仕事をしていました。
2015年11月には、プロ野球経験者による学生の指導に必要な学生野球資格の回復を視野に、NPB主催の大阪研修会へ参加し、2016年2月には日本学生野球協会から、学生野球資格回復の適性認定を受けました。
その後、中村紀洋さんは、2017年4月26日、浜松開誠館高校(静岡県)硬式野球部の非常勤コーチに採用されたことが発表されました。
その後、月に数回のペースで指導を行っていましたが、2021年10月29日に、2022年シーズンから立浪和義新監督のもとで中日ドラゴンズの一軍打撃コーチを務めることが発表され、浜松開誠館高校の非常勤コーチは退任となりました。
中村紀洋さんは選手個々の良さを引き出すのが巧いとの評判で、YouTubeで発信している動画で語られる野球理論はプロの選手たちも参考にしているとのことで、コーチとしての手腕に注目が集まっています。
2018年7月2日より、自身の野球理論N’s methodを伝えるためにYouTubeチャンネルを開設しました。チャンネル登録者数は5万人を超えています。
やはり野球の指導は、口で伝える、文章で伝えるよりも、実際に目で見る方が伝わりやすいため、YouTubeで伝える事に魅力を感じたため、チャンネルを開設したのだそうです。
続いては、現役時代、素行が悪いと話題になったこともある中村紀洋さんですが、実際はどうだったのでしょうか。
先ほどのご説明した通り、ニューヨーク・メッツとの契約合意が間近に迫っていた頃に、ニューヨーク・メッツのホームページに中村紀洋さんの入団が掲載されたことで、信用できない球団として入団を白紙撤回したことは大きな話題となりました。
また、6回の交渉の末に折り合いが付かずオリックスを退団したこともあり、お金に汚いというイメージが強くなります。
横浜べスターズでは、チームの方針に反論し、指示に対して切れるなどして2軍に降格後、自由契約になるなどしており、性格に問題があるのではないかと度々話題になりました。
選手としての実力は確かなものですが、プレー以外の部分で、難ありと言われる事が多いようです。
中村紀洋さんは金遣いが荒いとされていて、食事代あるいは交際費に高額を費やしていたそうです。
近鉄バファローズ所属時代には、遠征先で10人ほど連れて食事に行った際の支払額は、1回50万を超える事もあり、年間2500万円ほどが食事代に消えていたそうです。
税金が払えなくなったため、保険を解約したことがあると明かしています。
イチローさんとは、同級生でプロ入りのドラフトもお互い4位入団と、なにかと共通点のある中村紀洋さんですが、イースタンリーグの試合の際にイチローさんに対して「足をあげて振ってみたら」とアドバイスをしたとことがあったのだそうです。
これが、イチローの“振り子打法”の誕生につながった可能性があるのではないかと、中村紀洋さんは明かしています。
続いては、中村紀洋さんのプロ野球選手としての成績を見ていこうと思います。
プロ野球での通算成績は、打率266、本塁打404本、打点1348、安打2101本でした。
インターネットには、中村紀洋さんの1992年から2014年にかけての成績の表が掲載されています。
日本球界のみの成績のみですが、詳しいデータが掲載されていますので、興味のある方は、ぜひチェックしてみてください。
個人サイトになりますが、中村紀洋さんの日本での成績に加えアメリカでの成績、日米での通算の成績が掲載されているサイトもあります。
続いては、中村紀洋さんの生涯年俸について見ていこうと思います。
中村紀洋さんの生涯年俸は、1991年から2014年までの合計で29億5430万円であると推定されます。
なお、この額には出来高や近鉄からの功労金は含まれていないので、実際は30億は超えていたであろうと考えられます。
プロ野球選手1年目の1991年の契約金は4000万円でした。
年俸の最高額は、2002年から2004年までの、6年契約30億円+出来高払いの契約で、3年間の5億円ずつでした。
2007年2月25日、育成選手枠で中日に入団した際は、年俸400万円まで落ち込みましたが、最後の年となる2014年は5000万円でした。
続いては、中村紀洋さんの高校時代について見ていこうと思います。
中学時代は、淀川リトルシニアでプレーし、高校は大阪府池田市にある大阪府立渋谷高校に進学しています。
1990年の全国高等学校野球選手権大阪大会に、2年生にして4番バッターとして出場しており、4本のホームランを打ち、見事チームを甲子園へと導きました。
大阪府立渋谷高校が甲子園に出場したのは、今のところ、この1回だけとなります。
中村紀洋さんは、強豪校で活躍する自信がなかったため、公立高校で試合に出て、活躍したほうが目立つんじゃないかと考え、大阪府立渋谷高校へ進学しました。
将来はプロ野球選手になると決めていた中村紀洋さんにとっては、甲子園への出場は目標ではなかったのだそうです。
しかし、野球選手としての礎を築いたのも甲子園であるといえると語っています。
2017年4月26日に、静岡の浜松開誠館高校の非常勤コーチに採用され、浜松開誠館中学校の軟式野球部への指導も行っていました。
バッティングのイメージが強い中村紀洋さんですが、守備はどうだったのでしょうか。
中村紀洋さんは、近鉄バファローズにいた頃の全盛期に、ショートを守った経験があります。それは、強肩であったため、ショートを任されていたようです。
中村紀洋さんはバッティングが目立つ選手でしたが、守備も上手だと言われていました。
補球からスローイングまでの流れが絶品であるとも言われており、セカンドも守ったことがあります。
高校時代は、ピッチャーをしていた事もありました。
“ノリ”の愛称で呼ばれたプロ野球選手・中村紀洋さんについて、ご紹介してきました。
彼は“生涯現役”と言っていますが、『一生勝負し続ける事。それが、生涯現役っていう意味である』というポリシーからでした。
プロ野球界からはしばらく遠のいていましたが、2022年シーズンから立浪和義新監督のもとで中日ドラゴンズの一軍打撃コーチを務めており、プロ野球界に指導者として戻ってきました。
今後、中日ドラゴンズの躍進に一役買えるのかどうか注目したいですね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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