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2023/11/27
r.y6
岡村孝子さんは進学先の椙山女学園大学のキャンパスで、加藤晴子さんと仲良くなりコーラスデュオ「あみん」を結成しました。
岡村孝子さんが自身で楽曲を作り、学校帰りに裏山に集合して歌の練習をしてきたそう。そして目標としたコンテストは「ヤマハポピュラーソングコンテスト」です。
このコンテストは、アーティストの登竜門として知られており、「ポプコン」の愛称で呼ばれ、これまでに辛島美登里さんや中島みゆきさんを輩出しています。
1982年春に、あみんの2人は「ポプコン」にエントリーし、「待つわ」を歌い上げ見事グランプリを獲得しデビューが決まったのです。
2人のデビューは1982年7月でした。デビュー楽曲「待つわ」がリリースされると、セールスを伸ばし、この年のオリコン年間ランキング第1位に輝きました。
そしてNHKの紅白歌合戦にも出場。デビューから僅か5ヶ月というスピードで決まるというのは、かなり異例なこと。それだけ短期間で爆発的な人気だったことがうかがえます。
翌年からは、学校にも通えない程多忙になってしまい、加藤晴子さんから大学をきちんと卒業をしたいという理由で、あみんを辞めたいという申し出があったのです。
岡村孝子さんは、その気持ちを尊重し、1983年12月に、あみんの活動を休止しました。
あみんを休止した2人は別の道を歩み始めます。加藤晴子さんは大学に戻り、卒業後はテレビ局へ就職しました。岡村孝子さんは、充電期間を経て1985年にソロシンガーとしてデビュー。
1986年にリリースした来生たかおさんの「はぐれそうな天使」をカバーとしてリリースすると、ホンダ・トゥデイのコマーシャルに起用されたことで、注目が集まりました。
そして1987年にリリースした「夢をあきらめないで」は、応援歌で様々な年齢層から支持されて大ヒット。
現在も代表曲として知られており、「夢をあきらめないで」をカバー曲として発表するアーティストもいます。
その後の岡村孝子さんのリリースされた楽曲は、若い女性の気持ちを掴む歌詞が特徴的で、「OLの教祖」という異名を取ったことでも知られています。
1983年の活動休止後も岡村孝子さんと加藤晴子さんの友情は途絶えることはありませんでした。加藤晴子さんは、大学卒業後に8年間会社員として働き、結婚、出産を経て主婦をしてきたそうです。
子供には、昔歌手をしていたことは伏せてきたのですが、何気なく子供の学校の懇談会で校長先生が、「親の生き様を見せることが大事だ」という一言が胸に刺さり、何をしたら良いか迷っていました。
そんな最中に、岡村孝子さんから「歌をまた一緒にやりたい」と言われて、あみんを再開させる決意をしたのだとか。
こうして2007年に、あみんとしての活動を再開し、同年のNHK紅白歌合戦に出場。披露した楽曲は、「待つわ」です。
岡村孝子さんの元夫である石井浩郎さんは、元プロ野球選手。その経歴は、早稲田大学卒業後にプリンスホテルに入社し、同社の硬式野球部で4番バッターを務めてきました。
1989年に開かれたドラフト会議で近鉄バッファローズから3位指名を受けて1990年に入団。新人賞としてパリーグ特別表彰を受け、1992年にはオールスターに出場する活躍をしました。
1994年には33本塁打、111打点により打点王のタイトルを獲得するも1995年以降は怪我に泣かされ、実力を発揮することができないジレンマに悩まされてきたのです。
1997年にトレードオフで読売ジャイアンツに移籍。6月に一軍に昇格すると、4番打者としてチームを支える功績を見せるも、8月に再び怪我で戦線離脱してしまったのです。
翌年は、負ければあわやチームの貯金がなくなるという大事な場面で、代打として登場し代打満塁本塁打を放つという活躍を見せました。
1999年11月のオフ期間に千葉ロッテマリーンズへトレード移籍し、4番打者として活躍したのですが、やはりシーズン途中で怪我による離脱。
その後は代打要員として甘んじていましたが2001年に自由契約となり、2002年から横浜ベイスターズに移籍しました。
代打要員として起用されてきましたが、成績が振るわずに現役の引退を発表。
2002年10月14日の対読売ジャイアンツ戦で引退試合を行い、チームメイトから胴上げを受けてプロの道に幕引きをしました。
プロ野球選手を引退すると、実業家に転身しています。現役時代に、遠征先で食べたもつ鍋の美味しさに惚れ込んで、博多もつ鍋チェーン店のオーナーとして店を差配するようになりました。
2007年秋には、石井浩郎さんの地元である秋田県に念願の店舗の出店をしたことが、話題を呼んだのです。
一方、野球との繋がりも持ち続け、2003年には日本テレビで野球解説者を、2004年には西武ライオンズで二軍の監督を務めました。
2011年7月11日の参議院議員選挙で秋田県選挙区から立候補し、対抗馬となった民主党の現職議員を破り初当選。
2016年7月の参議院議員選挙で再選し、2018年5月に参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員長に就任し、現在に至ります。
岡村孝子さんと石井浩郎さんの結婚において、やはり気になるのは、お互い全く異なる職業であるにも関わらず、どのような馴れ初めがあったのかという点ではないでしょうか。
ここでは、2人の出会いや馴れ初め、結婚までの交際について紹介します。
岡村孝子さんが、当時読売ジャイアンツの選手だった石井浩郎さんとの結婚を発表したのは、1997年1月のことでした。
2人の仲を繋いだのは、岡村孝子さんの代表曲である「夢をあきらめないで」でした。
まだプロ野球選手になったばかりの1年目に、石井浩郎さんは肝炎を発症し、療養とリハビリをしていた時に、当時の同僚だった野茂英雄さんが「夢をあきらめないで」が入ったカセットテープを差し入れしてくれたのだとか。
石井浩郎さんは、この楽曲を聞いて励まされて、リハビリを前向きに行うことができたそう。その後もいつも歌を聞いては勇気を貰ってきたのです。
無事に戦線に復帰した、石井浩郎さんは岡村孝子さんに是非お礼の気持ちを伝えたいと考えたそうです。そこで、岡村孝子さんのライブ会場に足を運び、楽屋へ挨拶に行ったのです。
この時にお互いに連絡先を交換して、すぐに意気投合し交際へと発展しました。
岡村孝子さんは、石井浩郎さんとの交際がスタートして僅か2ヶ月という短期間で、婚約に踏み切りました。
岡村孝子さんが石井浩郎さんとの離婚を発表した時に、なぜ離婚に至ったのかという原因について気になった方が多かったのではないでしょうか。
2人は、離婚の理由について明かしておらず、このことから様々な憶測を生んだのです。
これまでに浮上した噂の離婚の理由について調査しました。
岡村孝子さんが離婚を発表したのは、2003年のこと。仕事もプライベートも順調に見えていましたが、僅か6年という短い結婚生活に幕を降ろしました。
真っ先に離婚の理由として噂になったのは、岡村孝子さんの借金問題でした。
これは、岡村孝子さんの父親が、ラブホテルの経営をしていたのですが、バブル崩壊のあおりを受けて、上手く行かなくなったそうです。
このため、借金が膨れ上がり、愛知県にある実家も差し押さえの憂き目に。岡村孝子さんは、連帯保証人になっていたことから、その肩には15億円という多額の借金を背負うことになったのです。
このため、夫やその親族に迷惑が掛かるということで離婚に踏み切ったという説が浮上しています。
ちなみに借金に関しては、岡村孝子さんが馬車馬のように働いて、2007年で完済し実家も買い戻したそうです。
優しくて、おっとりとしたイメージを持たれる岡村孝子さん。結婚生活を送る中で、石井浩郎さんが持つ妻に対するイメージが崩壊したのではないかと囁かれています。
これは、2人が開いた離婚会見の中で石井浩郎さんが「海を泳いでいて、人魚を釣ったと思ったがよくよく見たらホオジロザメだった」という発言から来るようです。
岡村孝子さんがイメージと違って、気の強い一面を持っていたとしてもおかしくはありませんが、石井浩郎さんにとっては許容できないものだったのかもしれません。
一方で、岡村孝子さん側としても交際中と結婚後の石井浩郎さんの態度が違うというエピソードもあります。
妊娠中の岡村孝子さんは悪阻が酷く、辛いと伝えても背中をさすって一緒に過ごしてくれることはなく、「じゃあホテルに泊まる?」と言われてしまいショックを受けたそうです。
このため、お互いに結婚前に抱いたイメージと違うと考えていたのではないでしょうか。
岡村孝子さんは、2022年1月29日の誕生日を迎えると年齢は60歳になります。2019年から、療養で控えられていた音楽活動は、どうなっているのでしょうか。
あみん解散後、ソロとしてデビューしたのが1985年なので、ソロ歌手歴36年になる現在の岡村孝子さんの活動内容を紹介します。
2019年9月24日に、自身の公式サイトにおいて、臍帯血による移植完全寛解の状態になり、退院したことを発表しました。
岡村孝子さんの病気については、この後の章で紹介します。
2021年7月3日に日本テレビで放送された「THE MUSIC DAY」に生出演しています。病気になったことを公表してから2年2ヶ月ぶりのステージの復帰となりました。
ステージでは、自身の代表曲となった「夢をあきらめないで」を熱唱し、「本当に沢山の方に支えていただいたり、励ましていただいて、今日ここに戻ってこられました」と感謝の意を述べています。
復活した岡村孝子さんは、2021年9月8日にデビュー35周年を記念したオールタイムベストアルバム「T’s BEST」をリリースしました。
このアルバムは、ファンから楽曲のリクエストを募集して、それを踏まえたうえで岡村孝子さんが選曲しています。
岡村孝子さんは2019年に病気を発表してから2年2ヶ月に渡り治療に専念してきました。
一体何の病気に罹ったのかが気になります。病気の発覚の経緯や、闘病生活について調査しました。
岡村孝子さんは、健康診断を受けたところ「白血球の数値が異常値なので精密検査を受けてもらいたい」と言われました。
白血球の数値というのは、何ら健康に問題ない人であれば最低でも3100は見込まれるのですが、岡村孝子さんの場合は、2000を切っていたので明らかにおかしい数値であったのです。
そして、2019年4月17日に、精密検査を受けて、急性白血病であると医師から診断されました。この頃、岡村孝子さんは、6年ぶりのアルバムのリリースと、コンサートの開催が予定されていました。
この病気は、数万人に1人が罹るくらいの確率であるため、「どうして私が、深刻な病気になってしまったの?」と頭が真っ白になったそうです。
岡村孝子さんの病状は、その前からおかしいと感じていました。それは、2019年3月のこと。母親と娘と3人で金沢へ旅行に行った際に、兼六園を歩いていると急に足が上がらなくなってしまったのです。
寒い時期だったので、「体力が落ちてしまったのかな?」とも思ったのですが、偶然4月に予約していた健康診断を受けて、それが白血病を発見するきっかけになりました。
岡村孝子さんにとって不幸中の幸いだったのは、急性白血病が早期発見だったという点です。白血病というのは、血液細胞が骨髄で作られる中でがんに変わっていきます。
発見が早かったので、がん化した細胞がまだ骨髄の中に溜まっている状態でした。もし、発見が遅れると骨髄から溢れ出し、全身にがんが転移してしまいます。
一般的には、骨髄の外に出てから病に気が付くケースが多いそうです。
検診を受けて10日も経たない内に、入院生活が始まりました。1クール5日~7日をかけて抗がん剤の投与をするという治療を3クール受けました。
治療をするためには、輸血も必要になりCVと呼ばれる静脈カテーテルを首の付け根に血管に入れるという手術も受けています。
抗がん剤の副作用よりも、臍帯血移植をした際に生じた副作用が激しかったそうです。
毎日吐いてばかりで、大量のステロイド剤の投入もあって骨が脆くなり、背中や腰の骨を合計6か所も骨折し、ベッドから自身の力のみで体を起こすことができない程辛いものでした。
早期発見とは言え、かなり厳しい治療をすることになり、鬱々とした日々で心が折れそうになったことも。
もしかしたら来年の今頃はこの世にいないのでは、と考えると大好きな音楽すら聴く気になれません。
世界から取り残された気持ちになった岡村孝子さんを救ったのは、母親と娘の存在でした。母親は、毎日洗濯物を抱えて顔を見せてくれました。
娘は、宣告を受けて茫然とする岡村孝子さんの代わりに「母を死なせたくない。どん治療をするんですか?」と、医師と話を進めてくれたり、「私のために頑張って」と励ましてくれたのです。
岡村孝子さんは「まだ50代で死亡してたまるか!」と奮起し、そこからは前向きに闘病することができたのだとか。
岡村孝子さんが、闘病生活の際に支えになってくれた娘について調査しました。名前や顔写真、生年月日は公開されているのでしょうか。
岡村孝子さんが、石井浩郎さんとの結婚した1997年9月に第1子となる女児が誕生しました。
生れた娘の名前は、沙樹(さき)さんといいます。2022年には25歳を迎える予定です。顔写真や、職業などは明かされていません。
一般人なのであれば、個人情報を出すことは、このご時世危険なことですし、仕方のないことかもしれませんね。
離婚をした時、娘の沙樹さんはまだ5歳という年齢でした。岡村孝子さんが引き取り養育してきたのです。その後も岡村孝子さんは、再婚せず現在に至っています。
岡村孝子さんのこれまで出した楽曲の中に「虹を追いかけて」という曲があります。
ファンの間では思い出が深い曲であるようです。一体どんな曲で、どんな思い出エピソードがあるのでしょうか。
1989年6月24日に発売されたアルバムである「Eau Du Ciel」の2曲目に収録された楽曲です。ちなみにアルバムのタイトルは、「天の水」という意味を表しています。
岡村孝子さんが、コンサートにおいてアンコールで披露する定番の楽曲として知られています。
この姿を見たファンは「アンコールで大きく手を振る姿を思い出します」、「虹を見ると、孝子さんを思い浮かべます」などツイッターコメントが散見されており、記憶に鮮明に焼き付いている様子がうかがえますね。
岡村孝子さんは、主に女性から厚い支持を受けるシンガーソングライターです。
デビューしたのは、大学で知り合った加藤晴子さんと「あみん」を結成し1982年に「ポプコン」でグランプリを獲得したことにあります。
僅か、1年強の活動で「あみん」は活動を休止。岡村孝子さんは、充電期間を経て1985年にソロの歌手として再出発しました。1987年にリリースした「あなたの夢をあきらめないで」が代表曲。
2007年に「あみん」の活動も再開し、順調な人生を歩んでいるかに見えましたが、2019年に急性白血病に罹っていることが発覚し2年2ヶ月に渡る闘病生活を送ってきました。
現在は寛解し、精力的に音楽活動を行っています。こういった不屈の生き様は、多くのファンを勇気付けてきました。2022年の誕生日で60歳を迎える岡村孝子さん。
今後の活動が、楽しみですね。これからも応援していきましょう。
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