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    浅間山荘事件はどんな概要?世界初のカップ麺が売れるきっかけに?

    1972年に『浅間山荘事件』が起きました。この事件をきっかけに『カップヌードル』がヒットしたとされているのを知っているでしょうか。そこで今回は、『浅間山荘事件』の概要や『カップヌードル』との関連について迫ってみたいと思います。また、犯人などについてもお伝えします。

    浅間山荘事件はどんな概要?

    『浅間山荘事件』は、どういった事件だったのでしょうか。最初に『浅間山荘事件』の概要について迫ってみたいと思います。

    立てこもり事件

    『浅間山荘事件』とは、長野県・軽井沢にある浅間山荘という建物で、テロ組織『連合赤軍』のメンバー5名が人質を取り立てこもった事件です。犯人たちは、1972年2月19日から2月28日までの9日間に渡り山荘に閉じこもっていました。事件は一週間以上にもわたり続いたのです。

     

    警察が包囲していて、その中での人質事件としては日本で最長となっているでしょう。中事件を引き起こしたのは、10代から20代の若者たちであったとされています。警視庁機動隊や長野県警察機動隊が人質救出を試みますが、作戦は難航し銃撃戦を繰り広げたのでした。

    河合楽器の保養所

    “浅間山荘”は長野県北佐久郡軽井沢町にあるリゾート別荘地(現・軽井沢レイクニュータウン)に建っています。この浅間山荘は河合楽器の保養所として使われていて、“軽井沢保養所浅間山荘”という正式名称となっていました。事件当時の浅間山荘は破壊されていますが、再建され現存しているのです。

    管理人の妻が人質

    『浅間山荘事件』で人質になったのは、浅間山荘の管理人をしていた男性の妻でした。浅間山荘への侵入時に、1人でいた管理人の妻を見つけたのです。管理人や宿泊客は不在であったといいます。犯人の1人が、「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と管理人の妻に言い、立てこもりを決意しました。

    犯人の1人が人質に車の鍵の在処を尋ねると、人質は『車の鍵は出かけている夫が持っている』と答えたため、犯人らは車で逃走することを断念したのだといいます。なお、車の鍵は山荘の破壊後に玄関で発見されました。

    人質となった管理人の妻は当時31歳でしたが、保護されるまで219時間(約9日)も監禁されていました。事件が解決するまで監禁されていたということです。

    3名の死者が出る

    『浅間山荘事件』では、犯人と警察側との交渉が難航したこともあり、3名の死者と重軽傷者27名を出す結果となってしまいました。『浅間山荘事件』で犠牲となったのは、1名の民間人と機動隊員2名です。犠牲になった民間人は、新潟県でスナックの経営をする男性でした。

    彼は警察の警戒線を搔い潜って、浅間山荘の玄関まで辿り着きました。そして、犯人たちに人質の身代わりとなることを申し出たのです。ところが、その男性は犯人の1人に狙撃され、病院に搬送されました。その後、男性は8日が経った頃に亡くなってしまったのでした。

    また、浅間山荘に機動隊が突入した2月28日に、2名の警察官が殉職しました。亡くなったのは、山荘に放水を行うため出動していた警視庁特科車両隊の中隊長・高見繁光警部と、第二機動隊隊長の内田尚孝警視です。隊長・副隊長が判別可能なヘルメットを被っていたため、高い階級の警官として狙われました。

    巨大な鉄球で突入

    最後には、巨大な鉄球を用いて壁を壊し(破壊途中で鉄球は停止している)、機動隊が突入しました。そして犯人5人を逮捕し、人質を無事に救出したのです。

    カップヌードルと関係があるの?

    長らく国民に愛される日清食品のカップヌードル。実は、カップヌードルが『浅間山荘事件』と関係があるというのです。さて、『浅間山荘事件』はカップヌードルとどの様な関係があるのでしょうか。その詳細を見ていきましょう。

    「カップヌードル」が機動隊に配られた

    カップヌードルは、1971年に発売されました。『浅間山荘事件』の起きた1972年には既に販売されていたのです。このカップヌードルが、『浅間山荘事件』において機動隊に配られました。発売間もなかったカップヌードルを、機動隊員が食す姿がテレビで映し出されています。

    極寒の軽井沢だったからこそ配られた?

    カップヌードルが配られた理由は、現場が極寒の軽井沢だった点も一因となっていると考えられます。機動隊員にはカレーライスが振る舞われていましたが、あまりの寒さでそのカレーライスが凍ってしまいました。

    そして、『浅間山荘事件』で警備幕僚長として指揮をしていた佐々淳行が、警視庁にキッチンカーを派遣させます。警視庁で定価100円のカップヌードルを半額の50円で購入し、現場において50円で販売したのです。

    通常の流通ルートを通せなかった?

    通常の流通ルートを通せなかった点も、『浅間山荘事件』の現場でカップヌードルが支給された理由の1つです。カップヌードルは、発売当初の試食者たちの反応がいまいちだったため、正規ルートでの販売が閉ざされてしまいました。そして、新しい独自の流通ルートの開拓せざるを得なかったのだといいます。

    それもあり、新たな流通ルートとして日清食品は警視庁に以前よりカップヌードルを支給していたのでした。

    「カップヌードル」が売れ出した!

    『浅間山荘事件』が中継されたことにより、中継で映った「カップヌードル」が売れ出しました。国民たちが関心を示したのでしょう。しかし、一般に流通されるようになるには、まだ時間がかかりました。問屋が”「カップヌードル」が欲しい”と要望が出したのは、発売から2年以上後の1973年の暮れだったのです。

    浅間山荘事件が起きた原因は何だったの?

    続いては、『浅間山荘事件』が起きた原因について迫ってみたいと思います。『浅間山荘事件』はどういった経緯で起きてしまったのでしょうか。

    赤軍派と革命左派の争い

    『浅間山荘事件』の犯人は、『連合赤軍』というグループでした。『連合赤軍』は、『共産主義者同盟赤軍派』と『日本共産党革命左派』が合体できてできた組織です。よって、統一後から赤軍派のリーダー森恒夫と革命左派のリーダー永田洋子の、権力争いが生じていました。

     

    森恒夫は革命左派の持つ銃器を得たいと考え永田洋子に対して横柄な態度で接しましたが、永田洋子も銃器を渡しませんでした。そのため、双方共に主導権を握りきることができなかったのです。その後に、相手よりも優位に立つために過激な行動に出たことから、『山岳ベース事件』が起こったのでした。

    山岳ベース事件

    警察に追われていた両派のメンバーたちは、群馬の山中に山岳ベースを構え連合赤軍を結成しました。やがて警察の山狩りが始まり、組織は疲弊していったのです。当時の左翼政治団体には、政治活動を振り返り、反省点や改善点を見つける『総括』という思考法が存在ました。

    『総括』に集中するために、メンバー内で自己批判や相互批判などが激化していきます。メンバー間で暴行や極寒の野外で束縛するなどした結果、2か月ほどの間に12名が死亡しまったのです。この事件を、山岳ベース事件と呼びます。

    アジトからの逃亡

    事件後に、森恒夫や永田洋子の横暴により組織は内部崩壊し始めていました。また、連合赤軍を追っていた警察の手350名も迫ってきました。当時の拠点であった榛名ベースから迦葉山ベースに移ると、森恒夫と永田洋子が資金調達のために東京に行った隙に、脱走者が相次いでいます。

    残ったメンバーらは、脱走者が警察を連れてくるのではないかと考えるようになりました。そして、新たなアジトに移るために妙義ベースへと向かいました。森恒夫や永田洋子は、東京から戻る途中で“山狩り(連合赤軍の捜索)”をしていた警察に包囲され、逮捕に至っています。

    浅間山荘に立てこもり始める

    妙義山ベースを出たメンバーらは、長野県佐久市を目指す途中で軽井沢に出てしまいます。その頃に、森恒夫や永田洋子ら(他2名)の逮捕をラジオで知ったのです。この時点で、29名いた赤軍メンバーは逃走しているのが5名のみとなっていました。

    1972年2月19日に、彼らは一度『さつき山荘』に侵入しシャワーを浴びることや備蓄の食糧品を食べるなどしていました。しかし、警察に発見されたためその場から逃げました。警察が付近を捜索していて、『さつき山荘』に人のいる気配を察知し呼びかけを始めたからです。

    そして、逃亡の車を探している最中に浅間山荘を発見し、侵入し立てこもることにしたのです。

    連合赤軍とは一体何?

    そもそも、『浅間山荘事件』を引き起こした連合赤軍とは、どういった組織なのでしょうか。ここで、連合赤軍という組織についてご紹介します。

    過激で左翼的なテロ組織

    連合赤軍は、1971年から1972年にかけて活動した左翼的思想を持つ、テロ組織です。要するに、急進的・革命的な考えがあり社会主義または共産主義的傾向がみられる組織でもあるのです。また先述の通り、連合赤軍は元々「共産主義者同盟赤軍派」と「日本共産党革命左派」という組織でした。

     

    浅間山荘事件に関わった5人が逮捕された後に、他のメンバーも出頭し崩壊しています。

    極端に左翼思想を持つ

    戦後の日本共産党は、『武装闘争』を掲げ活動をしていました。共産主義を実現するために、賛同する学生党員らとともに暴力で敵を打ち倒そうとしていたのです。ところが1955年の『第6回全国協議会』において方向を転換し日本共産党では『敵の出方論』を採用するようになりました。

    『敵の出方論』とは、相手が暴力により革命を制圧しないのであれば、日本共産党としての運動をする際にも暴力を用いないというものです。それに不満を持った人々が集まり、連合赤軍等の『新左翼』を誕生させました。新左翼の中でも、特に過激な思想を持ち実力行使もするような一部の組織もありました。

    そうした組織は“過激派”と呼ばれ、国内だけでなく海外でも危険なテロ行為を行うようになったのです。1970年に発生した『よど号ハイジャック事件』を起こしたのも、後の連合赤軍となる共産主義者同盟赤軍派でした。

    『浅間山荘事件』がテレビ中継された?

    『浅間山荘事件』は、当時の国民の大きな関心事となりました。では、この事件はテレビで放送されたのでしょうか。続いては、『浅間山荘事件』とテレビ中継についてお伝えします。

    事件の経過がテレビで中継された

    連合赤軍の浅間山荘への立てこもりは9日間ほど続きましたが、機動隊の突入時にはテレビで中継されています。負傷した警察官が運ばれていく姿など、事件の経過がリアルタイムで中継されていました。日本中が息を飲みテレビを見つめ、アナウンサーの言葉に聞き入っていたのだといいます。

    実況は平田悦朗アナウンサー

    その緊迫した状況を実況したのは、NHKの平田悦朗アナウンサーでした。彼は浅間山荘から20メートル先のNHKの保養所より中継していました。また、10時間ほど続けて中継していた模様です。後に平田悦朗アナウンサーは、夢中だったため10時間は長いとは感じなかったと言っています。

    視聴率は驚異の89.7%

    NHKと民放を合わせた、テレビの総世帯の中継での最高視聴率が、午後6時26分に89.7%に達しました。国民の大体が視聴していたということになるでしょう。それだけ、センセーショナルな中継であったということです。

    『浅間山荘事件』のエピソードがある?

    最後に、『浅間山荘事件』についてのエピソード等についてご紹介します。突入時の鉄球や、犯人のその後などを見ていきましょう。

    鉄球作戦は失敗だった説

    警察側は、浅間山荘への突入時に大きな鉄球で建物を壊しました。その際に鉄球を吊り下げたクレーン車を操作していたのは、『白田組』の白田弘行という男性でした。彼は後に、鉄球作戦は失敗だったと話しています。当時の警察は、犯人が3階にいて人質は2階にいると考えていました。

     

    そのため、2階と3階を繋ぐ階段を鉄球により破壊しようと計画をしていたのです。人質の安全を確保するためでした。ところが犯人も人質も3階にいたことから、犯人と人質を離すことができず鉄球作戦の効果も薄らいでしまいました。結果として、3階で犯人と壮絶な攻防を繰り広げることとなります。

     

    そして多数の死傷者が、機動隊員から出てしまっています。白田弘行氏は後年になり、「少しでも銃口のある所を最初にぶつけさせてくれれば」と当時の辛さを語っていました。

    犯人の1人が国外に逃亡

    立てこもり犯の1人である坂東國男は、1972年2月28日に機動隊の強行突入により逮捕されています。彼は裁判の後に収監されていましたが、『クアラルンプール事件』により釈放となりました。『クアラルンプール事件』とは、1975年8月4日に日本赤軍が起こした事件です。

    マレーシアにあるアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して、52名の職員らを人質として日本国内に収監中の囚人の解放要求したテロ事件となっています。その要求に三木武夫内閣が応じ、坂東國男は釈放メンバーとして釈放されたのでした。

    その後、坂東國男は『ダッカ日航機ハイジャック事件』に加わり、国際指名手配されています。現在は75歳になっているとみられますが、消息は不明です。

    連合赤軍が浅間山荘に立てこもった!

    『浅間山荘事件』は、警察から逃亡していた連合赤軍が軽井沢の浅間山荘に立てこもった事件です。犯人たちは、管理人の妻を人質としました。この人質は無事救出されましたが、機動隊員や民間人が複数人亡くなっています。そして犯人たちは、逮捕されました。

    大きな鉄球で建物を壊すということも行われた当事件は、テレビでも生中継され高視聴率となりました。また、機動隊員らにカップヌードルも支給されカップヌードルが売れるようになったきっかけにもなったのです。犯人の1人は他の事件により、未だに逃亡を続けているでしょう。

    この様な惨劇は、今後起こって欲しくないものです。

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