木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
1999年4月14日午後2時半ごろ、山口県光市にある被害者が暮らす新日鐡沖田アパートに犯人が訪れ、事件は起こりました。犯人は、排水検査の作業員を装い、アパートを個別に訪ね、呼び鈴を鳴らすなどして、若い主婦が留守を守る居室を物色して回っていました。
犯人は、当時23歳で主婦だった本村弥生さんと生後11ヶ月だった娘の夕夏さんがいた部屋にまんまと上がり込み、2人を殺害するに至りました。
殺害後、犯行の発覚を遅らせるため、犯人は本村弥生さんの死体を押入れの下段に隠し、夕夏さんを押入れの天袋に投げ入れました。
犯人は、本村弥生さんを「若くて可愛い人だ」と思い、「強姦によってでも性行為をしたい」という気持ちを抑えきれなくなり、背後から抱きつきました。そして仰向けに引き倒し、馬乗りなるなど暴行を加えました。しかし、大声を出されて激しく抵抗されたため、殺害を決意しました。
彼女の首を絞めて殺害し、強姦したのです。
その後、彼女の娘が激しく泣き続けたため、犯人は犯行の発覚を恐れるとともに、泣き止まないことに激高し、首にヒモを巻きつけて乳児も絞殺しました。
母子の遺体を隠した後、犯人はリビングにあった財布を盗み、逃走しました。その後、犯人は友人とゲームセンターなどで遊んだそうです。
本村弥生さんの夫・本村洋さんは、帰宅後に妻の遺体を発見し、ひどいショックを受けながらも警察に通報しました。駆けつけた光警察署(山口県警察)が乳児の遺体を発見し、捜査本部を設置して捜査を開始しました。
事件発生から4日後となる1999年4月18日、犯人は逮捕されました。犯人は未成年で、逮捕時の罪状は、殺人・強姦致死・窃盗でした。
「光市母子殺害事件」を担当することになった弁護士が被害者の年齢を間違ったり、事件に関するシンポジウムで弁護士たちが不謹慎&非常識な態度をとるなど、弁護士がクズすぎる?とネットなどで問題視されたことがあります。
事件の弁護団のシンポジウムが開かれた時、殺害の模様を再現実験した画像を見ながら弁護士の1人が冗談を飛ばして笑ったそうです。
シンポジウムには弁護士17人、一般参加者が150人ほどいたそうです。その時の弁護士の態度や発言が不謹慎で非常識だったらしいです。
「光市母子殺害事件」の経過を説明しているとき、弁護士が生後11ヶ月だった乳児の被害者を「11歳の女の子」と年齢を間違えて発言しました。間違った途端、他の弁護士がどっと笑いだしたそうです。
シンポジウムで、犯人の殺害殺害状況を一人の弁護士が説明するとき、身振り手振りで示しつつ、「水平なんですね。僕はちょっと違いますね、ハハハ」と自ら笑い声をあげ、周りの弁護士も楽しそうに笑っていたそうです。
「光市母子殺害事件」で逮捕された犯人は誰だったのか、また凶行に及んだ犯人の家庭環境はどんなだったのかなどを調べてみました。
「光市母子殺害事件」で逮捕された犯人の名前は、福田孝行という少年でした。彼は、父親、母親、それに弟がいる家庭で育ちました。
逮捕された福田孝行は、事件当時18歳の未成年でした。未成年だったことから「刑事事件相当」の意見付きで山口家庭裁判所に送致されました。
福田孝行の父親は、母親とお見合いで知り合ったそうで、結婚前に彼女を強姦して入院させたそうです。結婚後も、父親は母親に暴力をふるうことが多かったらしいです。また、父親はギャンブル中毒で母方の実家にまで借金をするほどのめり込んでいたそうです。
それだけでなく父親には、フィリピン人の愛人もいたそうです。
福田孝行の母親は、父親から度々暴力を受けており、福田孝行が母親を守っていたこともありました。しかし、母親は次第に精神を病むようになり自殺未遂を繰り返すようになったといいます。
そして、彼が中学生のとき、とうとう母親は自宅の車庫で首つり自殺を遂げました。父親は悲しみに暮れるわけでもなく、愛人だったフィリピン女性と再婚しました。父親と妻となったフィリピン女性の間には子供が誕生したそうです。
「光市母歳殺害事件」の裁判の経過がどういうものだったのか、また判決はどういうものだったのかなどを調べてみました。
「光市母子殺害事件」の犯人、福田孝行は、当時18歳で未成年だったため凶悪な事件を起こしたにもかかわらず実名報道はされませんでした。少年法61条に守られていたからです。
「少年法16条」とは、少年もしくは少女に当てはまる年齢のときに事件を起こした場合、犯人を特定できる情報を報じてはいけないという条令です。
犯人は実名報道されませんでしたが、被害者側の母子に関しては住まいや氏名、顔までも公開されました。現在においても、加害者側より被害者側の情報が多く公開されることがほとんどのようです。
事件の裁判においても、被害者遺族である夫が法廷で傍聴しようとしたところ、席をマスコミが占領して座れなかったそうです。また、裁判の際に被害者の夫が遺影を持ち込むこともできませんでした。
被害者側の情報ばかりが公開されること、また裁判でも理不尽な対応をされることに苦慮した被害者の夫・本村洋さんは、同じ境遇の人たちと共に犯罪被害者の会である『あすの会』を設立し、市民運動を始めました。
本村洋さんら犯罪被害者遺族の行動は、2004年に定められた「犯罪被害者等基本法」の成立に大きく貢献したといわれています。その後、2018年6月に会は解散しています。
「光市母子殺害事件」の犯人に対し、1999年12月22日に山口地検は死刑を求刑しました。しかし翌年の2003月22日に山口地裁は無期懲役という判決を下しました。
この結果を知った山口地検は広島高等裁判所に控訴しました。その後、2002年3月14日に、広島高裁は第一審の無期懲役の判決を支持する姿勢を見せ、山口地検の控訴を棄却する判決を下しました。
無期懲役としたのは、犯人が犯行当時18歳で人間としてまだ未熟であると考えたからのようです。
「光市母子殺害事件」の犯人は、最終的に事件から13年後の2012年2月20日に死刑が確定しました。これにより、犯人を匿名報道していたマスコミは実名報道に切り替えました。
「光市母子殺害事件」の犯人は、犯行当時18歳でしたが、逮捕後にドラえもん発言をしたそうです。どんな発言だったのかなどを調べてみました。
犯行当時、18歳だった犯人・福田孝行はドラえもんの存在を信じていたそうです。30歳になったとき、裁判の場で初めてドラエもんについての発言をしました。
ドラえもんに関する話は、捜査段階で話したらしいですが、馬鹿にされたため第一審では話さなかったそうです。
ドラえもんの存在を信じていた犯人は、「自分が起こしたこと(殺人)を、ドラえもんに何とかしてもらおうと思った」と話しました。30歳になる人間が話すこととも思えませんが、弁護団23名がこの発言を支持し、世間から賛否両論が巻き起こりました。
犯人は、留置所に収監されていたとき、友人宛てに手紙を書いています。手紙は、ふざけた内容で、被害者遺族である夫を侮辱するような内容でした。
犯人は、精神鑑定された際、「自身が死刑になったら、来世で被害者母子と再会し、彼女と結婚するだろう」と話したそうです。
死刑囚となった「光市母子殺害事件」の犯人ですが、実際に死刑が執行されたのか、それともまだ生存中なのかを調べてみました。
死刑囚となった犯人は、獄中に改名しました。日本キリスト教団に所属する女性牧師・大槻純子さんと養子縁組をして苗字を変えたのです。
大月孝行となった犯人は死刑が確定していますが、まだ執行されず広島拘置所に収監中です。彼の弁護団が再審請求中だからです。どうも、執行されるのはまだまだ先になるようです。
幸せに暮らす母子を身勝手な欲望のために死に至らしめた「光市母子殺害事件」。犯人が未成年ということもあり、世間を大いに騒然とさせました。
現在、死刑囚となった犯人は30歳を過ぎ、拘置所に収監されていますが、自分の犯した行為を深く悔い、反省しているのでしょうか。とにかく、こういう悲惨な事件は、二度と起きてほしくないものです。
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1999年に山口県で起きた「光市母子殺害事件」。平凡な若い主婦と彼女の幼い娘が少年によって殺害された事件です。その事件の詳細について調べてみました。