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    昭和の猟奇殺人「阿部定事件」とは?阿部定の生い立ちやその後は?

    昭和の頃に世間を騒然とさせた「阿部定事件」が起きました。阿部定という女性が、愛人の男性を殺害し局所を切り取ったのです。そのセンセーショナル過ぎる事件は、一体どういったものだったのでしょうか。そこで今回は、「阿部定事件」の概要や阿部定のその後、生い立ちなどについて迫ってみたいと思います。

    「阿部定事件」とはどんな事件?

    昭和史に残る事件ともいえる『阿部定事件』ですが、その概要とはどういったものだったのでしょうか。まずは、『阿部定事件』の概要についてお伝えします。

    1936年に起きた事件

    『阿部定事件』は、1936年(昭和36年)5月18日に起きました。当時の世相は、3か月前に2.26事件が起きていて、重苦しさのある空気の漂う時期でもありました。なお『2.26事件』は、皇道派(大日本帝国陸軍内の派閥)に影響された陸軍青年将校らが、兵たちを率い起こしたクーデター未遂事件です。

     

    『阿部定事件』が起きた年には、こうした大きな事件も起きていたということです。

    元芸妓の起こした殺人事件

    『阿部定事件』は、過去に芸妓をしていた女性・阿部定(あべさだ)が起こした事件です。阿部定は、吉田屋という鰻料理屋で“田中加代”という偽名を使い仲居をするようになりました。そして、吉田屋の主人である石田吉蔵と不倫関係に陥ります。

    他の人に気付かれないように2人で会うようになりましたが、その後駆け落ちして待合を点々としていました。待合とは、待ち合わせや会合をするための場所を提供してくれる貸席業です。

    腰紐で絞殺

    阿部定と石田吉蔵は、東京都荒川区の待合『満佐喜』で2夜連続の情事に耽りました。その際には、阿部定が彼の首を絞めるといった行為もしていたのです。そして阿部定は、石田吉蔵が死ぬまで2度にわたり腰紐で首を絞め続け殺害しました。首を絞めることは石田吉蔵から請われたことでした。

    なお殺害前に、首を絞めたことで石田吉蔵の顔が歪みうっ血していたことから、阿部定は薬局で気休めとして鎮静催眠効果のある化合物・カルモチンを購入しています。カルモチンは、何度かにわたり計30錠ほど石田吉蔵に飲ませたといいます。

    局所を切り落とす

    石田吉蔵が死んだ後に、阿部定は彼の局所を切断しました。そして、その切断した局所部分を雑誌の表紙(ハトロン紙とも言われる)に包み、逮捕されるまで3日間持ち歩いていたのです。

    血で文字を書く

    阿部定は、石田吉蔵の傷口から出た血でシーツに『定吉二人キリ』と書きました。そして石田吉蔵の左太ももに『定吉二人』、左腕には包丁で『定』と刻んでいます。その後に石田吉蔵の腰巻の下にステテコやシャツをつけると、阿部定は宿の従業員に午後まで石田吉蔵を起こさないようにと伝えました。

    それから、阿部定は午前8時頃(石田吉蔵を殺害したのは午前2時頃)に宿を出ていったのでした。

    阿部定は逮捕された?

    愛人を殺害し局所を持ち逃走した阿部定ですが、その後どうなったのでしょうか。続いては、阿部定の逮捕について迫ってみたいと思います。彼女は逮捕されたのでしょうか。

    阿部定の逃亡

    石田吉蔵を殺害した後に、阿部定は宿を出て逃亡を開始します。事件の翌日には、阿部定が起こした事件が新聞で報道され人々の知るところとなりました。

    阿部定パニックが起こる

    阿部定を捜索することに関して、“阿部定パニック”というものが起こりました。当時、阿部定のような瓜実顔かつ髪を夜会巻きにしているスレンダーな女性を、阿部定ではないかと勘違いして通報する人が出てきたのです。そうして、通報された銀座や大阪の繁華街では、一時的に騒然となりパニックに陥ったのでした。

    この様子は、新聞により面白おかしく報じたのです。

    5月20日に逮捕

    阿部定は、事件から2日後の5月20日に品川にある品川館という宿に宿泊していました。彼女は大阪に逃げるつもりだったといいます。その日の午後4時に、高輪署の刑事が品川館を訪れました。阿部定は観念したのか「あたしがお探しの阿部定ですよ」と言い、抵抗することともなく逮捕されたのです。

    あまりに彼女の態度が落ち着いていたことから、刑事たちは驚いたのでした。さらに、逮捕され連行される際の阿部定は、晴れやかさも感じさせる笑顔であったというのです。

    阿部定の供述

    取り調べでどうして石田吉蔵を殺す気になったのかと問われた阿部定は、「あの人が好きでたまらないから」「殺してしまえば他の女が指一本触れなくなるから」と答えています。局所の切断については、「彼の頭か体と一緒にいたかった」のだと語っていました。

    また、「いつも彼のそばにいるため」に逃亡時に持っていきたかったのだとも供述しています。

    阿部定のその後はどうなった?

    逃亡先の宿で逮捕された阿部定でしたが、その後どうなったのでしょうか。次に、阿部定のその後の人生についてお伝えします。

    懲役6年の判決

    逮捕後の裁判において、痴情の末に起きた事件であると判断されました。そして阿部定には懲役6年(求刑10年)の判決が言い渡されています。人々を驚かせる事件を起こした阿部定は、こうして収監されることになりました。

    恩赦で出所

    国に慶事あるいは弔事等があった場合に、罪人の罪を軽くする『恩赦』という制度があります。天皇陛下のお心により、罪を軽くしていただくのです。阿部定も、この恩赦を受けています。阿部定は、1941年に『紀元二千六百年(皇紀2600年を祝して制作された国民歌)』に際して、恩赦で釈放されました。

    なお皇紀とは、日本独自の紀元であり明治政府が定めたものです。1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたりました。

    吉井昌子として生活

    阿部定は、釈放後に吉井昌子として生活していました。吉井昌子という名前は、警察の配慮により名付けられたといいます。そして、『昭和好色一代女 お定色ざんげ』という本を巡り著者と出版社を名誉棄損で訴えています。告訴した頃には、阿部定は結婚(事実婚)をしました。

    相手は埼玉県のサラリーマンの男性でしたが、妻が阿部定であると知り離縁されてしまっています。夫は失踪したのでした。その後には、阿部定事件を再現する舞台に本人役で出演し全国を巡業しました。それから、ホステス等の仕事を経て破格の待遇により『星菊水』という割烹で働き始めます。

    阿部定事件は皆が知っているため、阿部定本人が客をもてなすというサービスが行われたたのです。それもあり、阿部定は前金で10万円をもらい月給も通常の仲居の5倍をもらっていたでしょう。

    1971年に失踪

    62歳の頃の阿部定は、東京都台東区におにぎり店『若竹』をオープンさせました。おにぎり店とは銘打っていますが、カウンターでお酒を出す店だったとされています。浅香光代や相撲部屋の親方も来訪していて、舞踏家の土方巽(ひじかた たつみ)は常連であったでしょう。

    その後の阿部定は、1971年に千葉の勝浦ホテルで働いていましたが、6月頃に置手紙をして浴衣のみを持ち失踪しました。置手紙には「7月8月を過ぎたら戻る」と書かれていたといいますが、阿部定は戻らなかったのです。

    浅草で匿われていた?

    1974年前後の3か月間に、阿部定が浅草の旅館で匿われているという証言がありました。しかし、これを最後として阿部定の足取りは途絶えてしまったのです。

    阿部定は死亡したの?

    阿部定の最期がどうなったのか、分かりません。阿部定は1905年生まれですので、生誕から2022年で117年になります。既に亡くなっている可能性がありますが、いつ亡くなったのかは明らかになっていないでしょう。阿部定のWikipediaにも、“没年不明”と書かれているのです。

    阿部定に子孫はいない

    阿部定の最期については分かっていませんが、彼女には子孫はいなかったとされます。一度結婚もしていますが、子供はいなかったと考えられます。

    阿部定の生い立ちはどんなものだった?

    阿部定は、どうして世間を騒がせる殺人事件を犯す女性となったのでしょうか。ここで、阿部定の生い立ちについて迫ってみたいと思います。

    生家は裕福な家庭

    阿部定は1905年に、「相模屋」という畳店の末娘として誕生しました。彼女は8人兄弟であり、長女や次男、三男は他界しており四男は養子に出されていたとされています。また、母親・カツの乳があまり出なかったことから、阿部定は1歳になるまで近所の家に預けられていました。

     

    さらに、阿部定は4歳になるまで会話ができなかったのです。

    相模屋の“おさぁちゃん”と呼ばれ

    阿部定は両親に可愛がられ、毎回新しい着物を着て三味線の稽古に通っています。また評判の美少女であり、“相模屋のおさぁちゃん”と呼ばれていました。このことが、両親には誇らしかったでしょう。

    15歳でレイプに遭う

    阿部定は、高等小学校に進学しましたが、15歳で自主退学しています。またこの頃に友人の家に遊びに行ったところ、その友人の兄の友人である大学生も来ていました。ふざけているうちに、阿部定はその大学生(慶応大生とされる)にレイプをされてしまったのです。

    2日間血が止まらず母親に相談し、母親が相手大学生の家に行ったものの大学生本人に会えなかったのでした。そして泣き寝入りすることとなったのです。レイプをされた阿部定自身も非常にショックを受け、『もうお嫁にいけない』と悲嘆にくれました。

    そんな阿部定に、母親は優しく接することや物を買い与えていましたが、阿部定にとってはそれがかえって苛立つ要因となった模様です。

    遊びまわるようになる

    家族間で揉め事があり、母親は揉める様子を阿部定に見せないために彼女にお金を持たせて外に出していました。阿部定は不良と遊ぶようになり、そのことで父親から折檻されています。阿部定は奉公にも出ましたが、窃盗により1か月で送り返されたといいます。

    奉公先から返された阿部定に父親が激怒し、彼女は1年間ほど監禁に近い生活を強いられることとなりました。

    長男が蒸発する

    その後阿部家では、長男が家のお金を持ったまま行方をくらましてしまいました。そして、畳店を閉めることになったのです。一家は現在の埼玉県坂戸市に移住をしました。とはいえ、阿部家は都内に借家を複数軒持っていたため、暮らしには困りませんでした。相当に裕福な家庭であったことがうかがえるでしょう。

    父や兄に売り飛ばされる

    それから、阿部定は何と家族から売り飛ばされてしまいます。17歳となった阿部定は、数多くの男と関係を持つようになりお金も持ち出す日々を送っていました。そんな阿部定を見かねた父親と兄は「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」といい、長男の前妻の妹の夫・秋葉正義に売ってしまったのです。

    秋葉正義は、女性を遊郭などにあっせんする仲介業を営んでいました。かつての彼は、彫刻家・高村光雲の弟子をしていて、彫り物家をしていた時期もあったといいます。なお秋葉正義は、阿部定に夜這いをかけていて4年ほど彼女のヒモになっていました。

    石田吉蔵の墓に花を手向けていた?

    釈放後に一般人として暮らしていた阿部定でしたが、石田吉蔵のことを思い出したりしたことはなかったのでしょうか。阿部定が、石田吉蔵の墓に花を手向けていたのではないかと言う話があります。続いては、石田吉蔵の墓に備えられた花についてお伝えします。

    石田吉蔵の墓

    阿部定が殺めてしまった石田吉蔵の墓は、東京都港区南麻布・仙台坂下の専光寺にあります。石田吉蔵は、この墓地で無縁仏として無縁塔に祀られているのです。

    失踪後にも花を届けていた?

    阿部定は、1955年に山梨県の久遠寺に石田吉蔵の永代供養の手続きをしました。彼女が失踪してからも、石田吉蔵の命日には送り主の分からない花束が届いていたといいます。この送られてきた花束が、阿部定から届いたものだという説もるのです。

    もしかしたら、阿部定は晩年もこっそりと石田吉蔵に花束を送っていたのかもしれません。

    1987年が最後

    しかし、石田吉蔵への花束も途絶えてしまいました。花束が届いたのは、1987年が最後となったのです。ただ、阿部定は1992年頃までは余生を伊豆で過ごしていたという話もあるでしょう。体調が悪くなり、1988年以降は花束を送ることができなくなった可能性もあります。

    阿部定は映画化されている?

    『阿部定事件』は、数々の作品の題材とされてきました。例えば大島渚監督の映画『愛のコリーダ』や、大きな話題となった『失楽園』も該当します。最後に、『阿部定事件』を題材とした1本の映画を取り上げてみたいと思います。

    映画『阿部定 最後の7日間』

    2011年6月に公開された映画『阿部定 最後の7日間』があります。監督を務めたのはポルノ女優でもあった愛染恭子であり、元AV女優・麻美ゆまが主演を務めています。また、松田信行が石田吉蔵を演じました。

    阿部定事件の新解釈

    『阿部定 最後の7日間』では、阿部定自身の供述や手記に加え少し脚色もされています。そして、新解釈により映画化されたものとなっています。阿部定の取り調べの様子や石田吉蔵との最後の7日間について描いている点が特徴でしょう。

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    阿部定は愛人を殺害し局部を切断した!

    1936年(昭和11年)に、料亭で働いていた阿部定は料亭の主人・石田吉蔵と恋仲になり、情事の末に彼が寝ている間に絞殺しました。そして、石田吉蔵の局所を切断し持ち出し逃亡を図りました。3日後に阿部定は逮捕されましたが、後に恩赦により釈放されたのです。

    その後は名前を変え暮らしていましたが、行方不明となりその後の消息は分かっていません。阿部定は、石田吉蔵を愛するがゆえに独占欲により世間を驚かせる事件を起こしてしまった可能性があるでしょう。

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