木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
1979年に起きた三菱銀行人質事件の犯人、梅川昭美。彼の人生はどこから狂ってしまったのでしょうか?彼の生い立ちや、母親との関係、また青年時代に彼が起こした事件なども含め、詳しく解説していきます。
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梅川昭美(うめかわあきよし)は、40年前に大阪市で起きた人質事件の犯人です。1079年に起きたこの事件を、覚えている人もいるのでがないでしょうか?梅川昭美の生い立ちや、事件を起こす前にも見られた、彼のサイコパス的な一面を見ていきましょう。
「三菱銀行人質事件」は、1979年1月26日に大阪市の三菱銀行北畠支店に、梅川が銀行強盗の目的で侵入して、その場にいた客や銀行員を人質にとって立てこもった事件です。
彼は、この事件で警察官2人と銀行員2人を射殺しています。そして、その場にいた女性銀行員全員を全裸にして、接客カウンター前に並ばすという行動にもでました。
警察は、銀行の周りを武装警官で囲み、監視を梅川の監視を外から続けました。警察はまた、梅川と電話で交渉を続けます。しかし、結局は事件3日目の1月28日に、梅川を射殺するという形で事件を解決しました。
梅川昭美は、広島県の大竹市で生まれました。幼少時代には経済的に非常に厳しい、極貧生活を味わいます。そして、梅川が8歳の時に、父親が骨髄の病になり歩くことが困難になったため仕事を辞めます。その後、彼が小学5年生の時に両親が離婚し、母親が家を出ていきます。
その後梅川は、父親の家族を頼り香川県の東かがわ市に、父親と一緒に移りました。しかし、梅川の父親の親類は、彼らを歓迎していなかったようです。そのような環境に耐えられなくなった梅川は、1年後母親を頼り、広島の大竹市に戻ります。
梅川は、小学生の頃から両親の離婚や、親類からの冷ややかな扱いなど辛い経験をしていました。このような経験から、人間不信に陥ってしまったのでしょうか?
梅川は丁度中学生になった頃、竹川に戻りました。一緒に暮らしていた母親は、朝から夜まで工場で働く生活でしたので、その頃から梅川の生活は荒れていきます。
彼は、喫煙や暴行などで何度も歩道され、母親の目が届かないのをいいことに、外泊も頻繁にする中学時代だったようです。
その後、梅川は、現在の広島工業大学高等学校へ進学します。しかし、高校も長続きしませんでした。高校にはほとんど行かずに、オートバイを盗んだ容疑で逮捕され、入学からわずか4ヶ月で退学させられました。高校入学した頃から、彼はどんどん非行の道に走って行きました。
梅川の両親は、梅川を厚生させようと試みて復縁します。しかし、梅川は高校を中退した年の12月に殺人事件を起こします。
梅川は金欲しさに、以前働いていた土建業者社長宅に強盗する目的で侵入することを思いつきます。土建業者社長宅に侵入して、当時21歳だった社長の義妹をナイフでめった刺しにして殺害します。そして、現金などが入った金庫を盗んで逃走。
彼は、逃走したものの、警察にあっけなく逮捕され山口県の特別少年院に送られます。梅川は、犯行の理由として「金を奪うのにじゃまだったので、女性を殺害した」「他の奴らはぬくぬくと暮らしているのに、何で自分だけ貧乏で苦しまないといけないのか」などと供述しました。
広島家庭裁判所の審判は、審判の最後に「梅川の病質的な人格はすでに根深く形成されていて、彼の人格は簡単に矯正はできない」「彼がまた社会に出れば同じような犯罪に手を染めて更に犠牲者が増える可能性があるが、彼が少年であるため処罰できない」と言っています。
梅川が15歳の時に起こした殺害事件の裁判官が予測したように、梅川は30歳の時に再び事件を起こします。「三菱銀行人質事件」と呼ばれるこの事件は、大阪市で起きました。
三菱銀行人質事件は、1979年1月26日に発生します。梅川は大阪市内の三菱銀行北畠支店に、5000万円を強奪するために猟銃を持って押し入りました。黒のスーツに黒のサングラス、白いマスク、そしてテラピンチと呼ばれるタイプの帽子を被っていました。
梅川は銀行に押し入ると、天井に向けて2発発砲します。その場にいた銀行員に、現金をリュックにいれるように脅しますが、他の男性銀行員が非常電話で通報しようとしたことに気がつき、その男性銀行員を射殺。
現金をリュックに入れるように命令された銀行員は、あきらめて現金をリュックに入れます。また、彼が発砲した際に、流れ弾で男性と女性それぞれ1人ずつ負傷しました。
梅川は、警察が来る前に逃走する計画を立てていました。しかし、逃げた客の1人がすぐに警察に通報し、住吉警察署の楠本正己警部補がすぐに現場に到着しました。楠本正己警部補は、梅川に銃を捨てるように言い、威嚇発砲します。
梅川は、すぐさま楠本正己警部補の顔や胸を撃ち射殺します。楠本正己警部補が射殺される前後に、数人の銀行員が警察へ通報。しかし、すぐに駆けつけた別の警察官も射殺されてしまいます。わずかの時間で彼は、銀行員1人と警官2人を射殺しました。
その日の午後2時35分には、銀行の異常緊急事態が大阪府警に報告されます。大阪府警は、すぐさま大阪市内の全警察署に緊急配備を使命。その後わずか2分で、銀行を320名もの武装警官が囲みました。
武装警官が銀行を囲んでいることに気が付いた梅川は、人質に銀行のシャッターを下ろすように命じます。それに気が付いた警官がシャッターを下ろさせまいと、近くにあった看板や自転車を使い、40センチの隙間を残して、シャッターが完全に閉まるのを防ぎました。
この時点で、銀行内に残った人質の数は、43人でした。しかし、親子連れと妊婦の客の合計4人は、すぐに開放されたため、人質は39人になりました。そのうち、銀行員は31人で、客が8人でした。
シャッターが40センチだけ残して閉められたあと、梅川は人質に非常口や階段を塞ぐためのバリケードを作るように命じます。そして、バリケードが完成すると、「金をすぐに用意しなかった」という理由で、支店長を射殺します。この時点で、梅川は銀行員2人と警官2人、合計4人を射殺したことになります。
その後、銀行を囲んでいる武装警官が気になったのか、人質にも「肉の盾」となって自分を守るように命令します。男性の人質には、上半身を裸になるように命じ、女性の人質には、電話係以外は全裸になるように命じます。
女性には、単に服を脱ぐように命じたのではなく、まるでストリップを楽しむように「シャツを脱げ」「ブラを取れ」などと少しずつ命令をしていったようです。しかし、のちに片親の女性銀行員1人のみ、服を着ることを許されます。
簡単に4人を射殺した梅川。片親や妊婦など社会的に弱い立場の人には命令を和らげています。彼にはまだ、少しだけ人間の心が残っていたのでしょうか。
このような状況で、梅川は1人の銀行員に目をつけます。彼は、最年長の銀行員で、このような状況でも冷静さを保ち、他の人質を励ましていました。そのことから、梅川は彼を生意気だと言い発砲。男性はとっさによけますが、肩に重症を負います。
梅川は、別の男性銀行員にナイフで負傷した男性に、とどめを刺すように命令しますが、彼は「もう死んでいるためその必要はない」と嘘をつきます。しかし、梅川はそれならその証拠に、男性の耳を切り取ってこいと命令。
男性銀行員は、激しく抵抗したものの最終的には梅川に逆らえず、死んだふりをしている最年長の銀行員の近くに行きます。すると男性は小さい声で「切ってもかまわん」と言ったそうです。
この状況で、梅川の命令に従う他に手はありません。男性銀行員は、泣きながら「すみません」と言い、男性の耳を半分だけ切りました。切った耳を梅川に渡すと、梅川はそれを口にいれ、すぐさま「まずい!」と言い吐き出したそうです。
肩を負傷して、耳を切られた男性は大量出血していましたが、事件解決後の緊急手術で一命をとりとめました。
この事件では、当時の大阪府警本部長の吉田六郎が、現地の本部長を務めました。パトカーを113台配置し、644名の警官で銀行を囲み、梅川と会話ができるように電話も設置します。
銀行内の様子を見るために、シャッターや2階のドアにドリルをで小さい穴を開けて監視を続けたり、銀行内で使用されていた店内放送用のスピーカーを利用し、梅川と人質との会話を聞くことにも成功しました。
梅川は、この日の夕食としてワインとサーロインステーキを要求。警察は要求に応じています。また、人質にはカップラーメンが届けられましたが、梅川は栄養がなさすぎるという理由で、怒ります。人質には、その代りにサンドイッチや胃薬が届けられました。
三菱銀行人質事件は、翌日の1月27日も続きます。一晩あけて、銀行内ではどのような動きがあったのでしょうか?この日の梅川の動きを見ていきましょう。
日付が変わり、深夜2時頃から、梅川は人質を次々と解放し始めます。まず解放された人質は、76歳の男性でした。トイレに行きたいと申し出たところ、梅川に年齢を聞かれ、その後解放されます。
また午前8時頃には40代の女性を解放、9時半には50代の男性を解放。その後、連絡を受けた梅川の母親と叔父が現場にかけつけ、梅川に説得を始めようとしますが、梅川は電話を切ってしまいます。
母親は、梅川に手紙を書き、手紙で説得しようと試みます。その後、梅川は人質のトイレの使用を許可します。ただし、使用時間は20秒のみと制限されていました。梅川自身は、床に紙を敷いて、そこで用を済ませていました。
その後、梅川は女性銀行員に500万円を用意させます。そして、梅川は、男性銀行員に借金の支払い先を書いたメモを渡し、払ってくるように命じます。男性は、ハイヤーを使い銀行を出て、その日の夜10時頃に銀行に戻ってきます。
この日の午後5時頃までに、負傷者を含めた人質の客の全員が解放されました。また、別の場所で、梅川に気が付かれずに隠れていた5人の客も、午後6時頃に全員脱出に成功しました。
この日の夜7時頃、梅川はシャッターの小さい穴に気が付き、人質に穴を塞ぐように命令します。しかし、複数あった穴の1つは見つけられずに済み、警察は事件解決まで、この穴を通して梅川の行動を監視することができました。
日付が1月28日になった夜中の2時頃、梅川は人質の1人に自分の服を着させ、自らは人質の服を着て、人質に紛れ込む工作を行っていました。この時点で、彼はいつ警察が突入してもおかしくないと、わかっていたのかもしれません。
三菱銀行人質事件3日目、ついに事件の解決日となるこの日は、警察と梅川との間でどのような動きがあったのでしょうか。
この日、警察は朝から突入のチャンスを伺っていました。トイレに来た人質の1人から、今日なら突入のチャンスがあることを告げられ警察は準備を始めます。
午前8時40分頃、警察突入の計画を知っていた人質が、梅川が居眠りをしていることに気が付きます。これがチャンスと見た男性は、警察に合図を送ります。合図をうけ、7名の零中隊員がキャビネットの隙間から突入。
「伏せろ!」と言い梅川に発射。発射したうちの3発が梅川に命中します。その後、人質は次々と病院へ運ばれ、負傷した梅川も病院へ搬送されました。しかし、その日の午後5時43分に梅川の死亡が確認されました。3日間にもわたったこの事件は、犯人が射殺され死亡したことによって終わりました。
1月29日の午前10時に、大阪大学の大阪府死因調査事務所で、梅川の遺体が解剖されました。その際に、梅川には、赤い牡丹の花が一輪右胸に、そして肩から左腕にかけて龍の入れ墨があることがわかりました。
当時は、このような入れ墨を持つのはヤクザだけでした。また、情報によると、梅川が付きあっっていた女性の1人は、3代目山口組の田岡一雄を銃撃した、鳴海清が過去に付き合っていた女性だという話があります。梅川は、ヤクザと何らかの関わりがあったのでしょうか。
梅川昭美は、15歳の時に殺人事件を起こしています。その頃にすでに形成されていた、正常ではない人格は、その後変わることはありませんでした。非常に身勝手で、人の命を何とも思わない梅川が起こしたこの事件は、犯人射殺という形で解決しました。4人の命が犠牲になってしまいましたが、大阪府警は最善を尽くし、事件を解決することに成功しました。
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