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    強盗強姦殺人事件「狭山事件」の真犯人は父?長兄?現場や現在は?

    1963年に、埼玉県狭山市で強盗強姦殺人事件である「狭山事件」が起きました。16歳だった少女が犠牲になったこの事件ですが、真犯人は誰なのでしょうか。また、現場はどこであり現在の犯人はどうなったのかについても、お伝えします。

    「狭山事件」はどんな事件?

    それではまず、1963年に起きた、強盗強姦殺人事件である「狭山事件」の詳細について見ていこうと思います。

    女性の行方不明が発端

    1963年5月1日に、埼玉県狭山市に住む富裕な家庭の四女・中田善枝さんが行方不明になった事から始まりました。午後3時頃に姿が目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず、学校に確認するも、行方は分からないままでした。

    父親に脅迫状が届く

    午後7時半を過ぎても中田善枝さんが帰宅せず心配していたところ、午後7時40分頃に中田善枝さんの兄が玄関のガラス戸に中田善枝さんの生徒手帳が同封されている脅迫状が挟まれている事に気づきました。

     

    父親宛てに届いた脅迫状の内容は、

    • 子供の命が欲しければ5月2日の夜12時に、金二十万円を女の人が持って、佐野屋の門のところにいろ。
    • 友人が車で行くから、その人に渡せ。
    • 1分でも遅れたら子供の命は無いと思え。
    • 警察に知らせたら子供は死ぬ。
    • 車で行った友人が時間通りに無事に帰って来なかったら、子供は西武園の池の中で死んでいるから見てみろ。
    • 車で行った友人が時間通りに無事に帰って来たら。子供は1時間後に車で無事に届ける。
    • 繰り返すが、警察には話すな。近所の人にも話すな。子供は死んでしまう。
    • もし、金を取りに行って違う人がいたら、そのまま帰ってきて子供を殺してやる。

    といった内容で、身代金目的の誘拐事件であることが判明しました。

     

    中田善枝さんの家族は、午後7時50分ごろ、堀兼駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡され、警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られました。

    身代金の受け渡しに失敗

    5月3日の午前0時10分過ぎに、犯人が現場に現れました。指定の場所へは、次女が身代金を持って行っていました。

     

    しかし、犯人は「警察に話したな。そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づき、逃げてしまいました。

     

    このとき、刑事が40名張り込みをしていたそうですが、脅迫状の「友人が車でいくから」との文章を受け、車道付近にしか配置を行っておらず、犯人を取り逃がしてしまいました。

    被害者・中田善枝の遺体発見

    身代金の受け渡しに失敗した翌日、5月4日に、中田善枝さんの遺体が発見されました。

     

    遺体は死後2~3日経過していたと推測され、死因は首を絞めたことによる窒息死でした。また、中田善枝さんは生前に強姦されており、膣内から血液型B型でLe(a-b+)型の精液が検出されました。

     

    中田善枝さんは、当時、高校1年生でした。

    現場農道の地図がある

    遺体は狭山市大字入間川の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められており、遺体には目隠しがされており、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られ、うつぶせに埋められいました。

     

    現場の地図がネットで公開されています。

    犯人として逮捕されたのは誰?

    続いては、狭山事件の犯人として逮捕された人物について見ていこうと思います。

    石川一雄が容疑者

    狭山事件が起こった当時24歳だった、青年・石川一雄さんが犯人として逮捕されました。

     

    石川一雄さんは、昭和14年1月14日生まれで、現在82歳です。

    被害者と顔見知りだった

    石川一雄さんは、被害者宅近くの養豚場に勤務していたこともあり、被害者とは顔見知りでした。

    被差別部落の出身

    両親と9人の兄弟がいる11人家族で育っており、被差別部落の出身で貧しい家庭だったようです。

     

    小学校卒業後、1951年に入間川の中学校に入学するもほとんど通学せず1954年に「義務年限終了」で除籍になっているそうです。

     

    除籍後は、鉄工所、農家の子守奉公や靴屋の店員見習い、東鳩の製菓工場の臨時工員、土工など職を転々としており、1962年10月末頃から1963年2月28日まで約4ヶ月間、被害者宅近くの養豚場に住み込みで働いていました。

    逮捕までの経緯はどんなものだった?

    続いては、石川一雄さんが逮捕されるまでの経緯を見ていこうと思います。

    別件で逮捕されていた

    5月23日、石川一雄さんは、別件の暴行、窃盗、恐喝未遂の容疑で逮捕されていました。

     

    狭山事件の捜査が難航しており、石川一雄さんの自宅から押収されたゴム紐が、殺害現場と推定される雑木林の中で見つかった被害者の自転車の荷台のものと、大きさや形が酷似していた事、被害者宅近くの養豚場での勤務歴のあったことで、石川一雄さんが容疑者に加えられました。

    被差別部落出身の青年が犯人?

    地域住民の被差別部落に対する差別意識が高く、事件発生直後から、市内の被差別部落民が犯人ではないかという声が広がっていたようです。

     

    被害者の遺体を埋めるのに使用されたスコップが、被害者宅近くの被差別部落出身者の経営する養豚場で使用されているものだったため、養豚場で働く被差別部落出身の青年が犯人だとして捜査が進められていました。

     

    そして、養豚場の経営者家族や従業員たち27人中21名の血液型を検査したところ、被害者の体内に残された血液型と同じB型は石川一雄さん1人でした。

    警察が世間から非難

    警察は、この年の3月に発生した誘拐事件(吉展ちゃん誘拐事件)で犯人を取り逃していました。そして、今回の誘拐犯人も目の前で取り逃していることから、警察は世間から非難にさらされていました。

     

    被害者の遺体発見時に、警察庁長官は引責辞任しています。

    筆跡鑑定が行われた

    警察は、被害者の行方が分からなくなってから犯人から脅迫状が届いており、警察は筆跡鑑定を行い、被害者宅近くの養豚場の経営者家族や従業員たち27人中14人の筆跡を鑑定したところ、石川一雄さんの筆跡が脅迫状と一致するという結果が出たとしました。

     

    しかし、石川一雄さんは字が書けなかったともいわれ、脅迫状は石川一雄さんが書いたものでは無いのではないかとも言われました。

    事情聴取での嘘

    石川一雄さんとその家族は、当初嘘の供述と証言をしていました。石川一雄さんは「当日は仕事の後、兄と帰宅した後そのまま寝た」と語り、家族は「事件当日は屋根の修理をしていた」と証言していますが、これは虚偽であることが判明します。

     

    その後、6月20日に「養豚場の元同僚たち2人が被害者を強姦・殺害した。ただし自分は脅迫状を書いて届けて死体埋葬用のスコップを盗んだだけである。」という自白を行います。

     

    6月23日には単独犯行を自白し、「被害者とは顔見知りで、気安く冗談をとばして被害者をからかったが無視されたため逆上して犯行に及んだ」と犯行動機を話しました。

     

    しかし、後に、石川一雄さんは自白は強要されたものだったと無罪を主張するようになります。

    「狭山事件」の真犯人は誰?

    犯人とされた石川一雄さんは、無罪を主張しており、それでは真犯人はいったい誰なのでしょうか。

    石川一雄は冤罪なのか未だに不明

    石川一雄さんは無罪なのか有罪なのかは、未だに議論がされており謎となっています。

     

    1977年に最高裁で無期懲役刑が確定し、1994年12月に仮釈放された石川一雄さんは、これまで東京高裁に対し二度に渡り再審請求の申し立てを行っていますが、二度とも棄却されています。

     

    そして、現在、2006年に申し立てられた第3次再審請求が東京高裁で審理されています。

    本当は被害者の長兄が犯人?

    犯人は、被害者・中田善枝さんの兄だという噂も浮上しているようです。裕福な家庭であったため、財産争いで邪魔な妹を殺したのではと言われています。

     

    犯人は警察に連絡するなと脅迫状にしたためていたにも関わらず、迷いなく警察に連絡を入れた点。

     

    また、犯人が脅迫状を被害者宅に届けに来ているのに、それを家族の誰も目撃しておらず、気づいてもいなかったことが不自然である点などから、中田善枝さんの兄が疑われたようです。

    中田家の元使用人が真犯人?

    中田家の元使用人で、事件後に自殺している、奥富玄二さんも犯人ではないかと疑われた一人です。

     

    奥富玄二さんの血液型も犯人と同じB型でした。しかし、脅迫状の筆跡鑑定で、奥富玄二さんは犯人ではないと断定されました。

    「狭山事件」とトマトの謎は何?

    続いては、狭山事件の不可解な点として挙げられているトマトの謎について見てみましょう。

    胃の残留物にトマトがあった

    被害者の胃の残留物は、茄子、トマト、玉葱、馬鈴薯、人参、米粒、小豆、葉でした。

     

    被害者は誘拐された当日12時頃、昼食として調理実習のカレーライスを食べていますが、カレーライスにもその付け合わせにもトマトは入っていなかった為、どこで被害者が口にしたのかは謎のままです。

    トマトを食べていたことが不可解?

    トマトは夏野菜であり、当時その季節に食べられていたことが謎であると言われています。

    「狭山事件」の判決や現在はどうなっている?

    続いては、狭山事件の判決などについて詳しく見ていこうと思います。

    死刑判決が出た後で冤罪主張

    1963年7月に浦和地方裁判所で開かれた刑事裁判で、石川一雄さんに死刑判決が出ました。後の控訴審で、石川一雄さんはそれまでの供述を一転させ、冤罪だと主張し始めました。

    無期懲役の判決が言い渡される

    死刑判決が出た10年後に、東京地裁が無期懲役を言い渡し、その判決を不服とした弁護団は上告をしましたが、棄却され、その後、1977年9月に無期懲役の刑が確定しました。

    1994年に仮出所した

    1994年に、石川一雄さんの仮出所が認められました。

     

    収監されていた千葉刑務所に支援団体が訪れていたこともあり、団体に屈する形で石川一雄さんを出所させたのではないかと言われています。

    再審請求されている

    仮出所した後も、弁護団が二度、再審請求をしていますが、棄却されています。しかし、現在も再審に向けた努力が続けられており、現在、第3次再審請求が東京高裁で審理されています。

    死者や行方不明者が出ている

    1963年から1977年の間に、中田善枝さん宅の元使用人が自殺、不審な者の目撃情報を通報した男性が自殺、中田善枝さんの姉が服毒自殺、養豚場の経営者の長兄が鉄道自殺、中田善枝さんの次兄が自殺と、6人も『狭山事件』の関係者が自殺しています。

     

    また、行方不明になった関係者もおり、事件自体も凄惨ですが、その後の事件にかかわった人も凄惨な状況となりました。

    狭山事件は、真犯人はいるのか謎のまま

    1963年に、起こった、強盗強姦殺人事件である「狭山事件」についてご紹介してきました。

     

    犯人として逮捕された石川一雄さんは冤罪を訴えており、再審の請求が行われているこの事件。石川一雄さんが犯人なのか、無罪なのか、真犯人はいるのかどうか、今後の進展が注目されます。

     

    最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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