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    元オリンピアン・瀬古利彦の経歴とは?代表選考で炎上?結婚や子供は?

    オリンピックに2度出場するも、メダルには届かなかった瀬古利彦。それでも彼は名ランナーとして人々の記憶に残っています。そこで今回は、瀬古利彦の経歴や代表選考で炎上した件について迫ってみたいと思います。また、彼の家族についてもご紹介します。

    瀬古利彦のプロフィール

    • 本名(ふりがな/愛称):瀬古利彦(せことしひこ/)
    • 所属事務所:ホリプロ
    • 生年月日:1956年7月15日
    • 現在年齢:65歳
    • 出身地:三重県桑名市
    • 血液型:O型
    • 身長:170センチ
    • 体重:65キロ
    • 活動内容:陸上競技指導者
    • 家族構成:妻、子供

    中学時代は野球をしていた

    マラソンランナーとして知られる瀬古利彦ですが、中学時代は陸上ではなく野球をやっていました。高校に進学したら甲子園を目指すつもりだったものの、中学1年生の時に校内の5キロ走大会で優勝したことで、陸上部より懇願され大会に出るようになったのです。

     

    これが、瀬古利彦が陸上を始めるきっかけとなったのかもしれません。そして、県の大会で三重県記録で優勝したことなどから、陸上に魅力を感じるようになったといいます。

    日本長距離界を牽引

    瀬古利彦はその後頭角を現し、1970年代から80年代にかけ、宗兄弟などと共に日本長距離界をリードしていきました。経歴の詳細は後述します。

    瀬古利彦はどんな経歴?

    続いて、瀬古利彦の高校以降の経歴を見ていきたいと思います。瀬古利彦は高校入学後にどの様な足跡を歩んできたのでしょうか。

    四日市工業高校でインターハイ2冠!

    瀬古利彦は、四日市工業高校に入学しました。入学直後から中距離走で実力を発揮し、インターハイで2年連続2冠を達成しています。その後に早稲田大学に進学し、中村清監督のもとで箱根駅伝において2年連続区間新記録となりました。

     

    ヱスビー食品入社

    早稲田大学入学後に中距離からマラソンランナーへと転向しました。早稲田大学競走部に入部すると、中村清監督からマラソンへの転向を勧められたのがきっかけでした。そして、1980年に大学を卒業しヱスビー食品に入社しています。この際には中村清監督も入社しました。

    マラソンランナーとしての成績

    マラソンランナーとしては、福岡国際マラソンで4勝をしていて東京やびわ湖、ロンドン、シカゴといった各マラソンを制しています。ボストンマラソンでは2勝しています。マラソンでは15戦10勝という偉業を成し遂げました。

    ミュンヘンオリンピックの覇者であるフランク・ショーターに歴代の偉大なランナー3名の中の2人目として名が挙げられたほどです。

    オリンピック出場

    瀬古利彦はオリンピックにも出場しています。1984年のロサンゼルスオリンピックに出場し、成績は14位でした。1988年のソウルオリンピックにも出場し、この際には9位という成績を残しています。

    引退後は指導に当たる

    瀬古利彦は1988年に、第一回国際千葉駅伝でのアンカーを最後に現役を引退しました。その後は後身の指導に当たっています。ヱスビー食品の陸上部監督や、1990年より4年間早稲田大学競走部のコーチを兼任していました。

    そして、ヱスビー食品陸上部監督を2006年3月で退任し、同年4月1日付でヱスビー食品スポーツ推進局長に就任しています。

    その後の肩書

    その後の瀬古利彦は、2005年3月より公益財団法人日本陸上競技連盟の役員を務めています。また、駅伝やマラソン中継の解説も多く務めるようになります。そして、2007年12月より東京都の教育委員となりました。2011年までの任期でしたが、2011年12月に再選されています。

    2013年3月末で東京都教育委員を辞任した後には、4月1日よりDeNAランニングクラブの総監督となりました。さらに2016年11月からはマラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任してます。これは、東京オリンピック2020に向けて日本陸連強化委員会が新たに設置したものです。

    2019年6月1日でDeNAランニングクラブ総監督は辞任して、エグゼクティブアドバイザーへと就任しました。それは、プロジェクトリーダーの業務が増えたことで、DeNAランニングクラブの指導が難しくなったことが理由です。

    瀬古利彦が代表選考で炎上した?

    瀬古利彦は、かつて開催されたソウルオリンピックの代表選考について、炎上したという話があります。瀬古利彦に一体何が起きたのでしょうか。

    ライバルに煽られた?

    瀬古利彦は、ソウルオリンピックに向けた強化選手の1人として、1987年の福岡国際マラソンに出場予定でした。しかし、大会の12日前に左足腓骨(ひこつ)の剥離骨折を理由として突如欠場したのです。これに対し、瀬古利彦はライバルだった中山竹通に「這ってでも出てこい!!」と煽られたと報道されました。

     

    このことについて、中山竹通本人は「自分なら這ってでも出る」と言ったとして報道を否定しています。

    『びわ湖毎日マラソン』で優勝し代表に

    1988年の『びわ湖毎日マラソン』で優勝し、瀬古利彦はソウルオリンピックの代表の座を掴み取りました。しかし、その時のタイムは2時間12分41秒と平凡と言えるものだったのです。瀬古利彦によると、当日は快晴であり気温も上がったため体力が消耗し後半にバテてしまったといいます。

    福岡国際マラソンを欠場したことで、1カ月半から2か月ほど練習できなかった彼は、急いで身体を仕上げたこともあり、上辺だけの体力しかなかったとも後に語っていました。また、もし普通の気象条件であれば2時間10分を切っていただろうとも言っています。

    救済策ではないかとの意見

    瀬古利彦がソウルオリンピックの代表に選ばれた理由は、彼への救済策ではないかの声が多く聞かれたといいます。瀬古利彦の優勝タイムが、前年の福岡国際マラソンで日本人選手3位となった工藤一良の2時間11分36秒よりも遅かったため、波紋を呼んだのです。


    瀬古利彦には、代表選考についての不透明さに関する責任はありません。しかし、こうした話題で名前があがることは瀬古利彦にとって名ランナーとしての歴史に傷痕を残す形となってしまいました。

    瀬古利彦には家族がいる?

    次に、瀬古利彦のプライベートについても迫ってみたいと思います。瀬古利彦には、どういった家族がいるのでしょうか。

    ロス五輪後にお見合いで結婚

    瀬古利彦は、ロサンゼルスオリンピックの後の1984年にお見合いをして結婚しました。相手は渡辺美恵(わたなべよしえ)という女性であり、瀬古利彦は28歳、妻は25歳でした。中村清監督と300人という花嫁候補の中から6人を選び抜き、最初に瀬古利彦がお見合いをしたのが渡辺美恵だったのです。最初のお見合いは1987年9月9日に行われたといいます。

     

    このお見合いで、瀬古利彦は妻に一目惚れをして結婚に至りました。渡辺美恵は、日本女子大文学部を卒業して幼稚園教諭をしていた女性です。なお、瀬古利彦の理想とするは女性は『ソウル五輪まで走ることに専念することができる家庭を作ってくれる女性』でした。

    息子が4人いる!

    瀬古利彦には4人の子供がいて、全て男の子です。その中で、陸上に関係しているのは三男の天哩(てんり)のみです。天哩は東海大浦安高校時代に800メートルでインターハイに出場しました。そして東海大に進んだものの、伸び悩んだことから2年生の冬からマネージャーとして駅伝主務として関わっています。

    次男が山本昌の長女と結婚!

    次男・亜土武が、2020年1月に結婚しました。その相手は、元中日ドラゴンズ投手・山本昌の長女です。瀬古利彦も、トークショーに出演した際に「サウスポーの山本昌さんと親戚になりました」と報告しています。次男・亜土武は結婚時に30歳であり、結婚した妻・裕里加は29歳でした。

    2人は明治神宮で挙式をしたといいます。

    瀬古利彦の息子が亡くなっている?

    瀬古利彦は4人の子宝に恵まれましたが、息子が1人亡くなっているというのです。それはどういったことなのでしょうか。

    長男が2021年4月13日に死去

    長男の昴が、2021年4月13日に34歳という若さで死去しました。25歳だった2012年に、ピースボートでの船旅から帰ってきた後に『胸が苦しい』と言い出し、その後に車椅子生活となったのです。2021年4月16日に父である瀬古利彦が息子の死去を発表しました。

     

    瀬古利彦が喪主を務め、4月19日に家族葬で葬儀・告別式が執り行われています。

    死因はホジキンリンパ腫という病気

    長男の死因は、ホジキンリンパ腫という病気でした。ホジキンリンパ腫とは、悪性リンパ腫の一種です。長男は、この病と8年もの間闘い続けていたのです。

    『がんマラソンのトップランナー』が発刊される

    2021年3月には、長男は闘病について綴った著書『がんマラソンのトップランナー』を刊行しています。出版は、自費によるものでした。

    瀬古利彦はソウル五輪の代表選考で炎上していた

    瀬古利彦はオリンピックに2度出場していますが、メダルを獲得することは叶いませんでした。しかし、数々の好成績を残しており名ランナーとして称えられています。過去には、ソウルオリンピックの座を巡り、ライバル選手に煽られたと報道されたことを発端に、炎上してしまったこともありました。

    現在の瀬古利彦は、マラソンの解説や後身の指導などで現在も陸上界で活躍しています。

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