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安岡力也はシチリアンマフィアだった?生い立ちや武勇伝は?現在は?

コワモテで知られている俳優の「安岡力也」。彼の若い頃の武勇伝が凄いと話題です!また、安岡力也の祖父や父親がイタリアのシチリアンマフィアだったという噂は本当でしょうか?安岡力也の現在(2021)は?結婚相手や離婚理由・子供についても紹介します。

安岡力也のプロフィール

 

  • 本名(ふりがな/愛称):リカルド・ニコ・バレンティーノ(-/-)
  • 所属事務所:-
  • 生年月日:1947年7月19日
  • 没年月日:2012年4月8日(64歳没)
  • 出身地:イタリア ジェノヴァ、日本 宮城県仙台市
  • 血液型:O型
  • 身長:187 cm
  • 体重:-
  • 活動内容:俳優・歌手・タレント
  • 家族構成: 安岡力斗(息子)

 

 

映画「自動車泥棒」で芸能界デビュー

安岡力也さんは、1964年に東宝が公開した映画『自転車泥棒』でデビューしました。この映画で安岡力也さんは、日本脱出を夢見る混血孤児たちのリーダーとなる、主人公の酋長役を務めました。

 

その後、歌って踊れる異色の混血グループとして1963年3月、野沢裕二さん、鈴木忠男さん、山岡健二さん、加古幸子さん(のちのサリー・メイ)らと5人で結成した、グループ・サウンズの「シャープ・ホークス」にボーカルとして参加し、1966年にはシングル『ついておいで』でキングレコードよりレコードデビューをします。

 

1966年『遠い渚』、1967年『海へ帰ろう』がグループの代表曲となっており、ザ・タイガースのライバルと言われるほどでしたが、1969年には解散しました。

一時期はキックボクサーとしても活動

バンド活動と同時に、一時期はキックボクサーとしてもヘビー級とミドル級で活動しており、4試合で3勝1敗の成績を残していますが、相手は素人が多かったといいます。

 

後に山上ボクシングスポーツジムの副会長も務めていたこともあります。

東宝映画に次々に起用される

1969年に「シャープ・ホークス」が解散してからは、俳優をメインとして活動を始めます。

 

東映では若山富三郎の派閥に属しており、山城新伍さんの下についていたそうです。共演者に蹴りを入れるなど傷害事件を起こし、仕事が無い時期もありましたが、梅宮辰夫さんの口利きで梅宮辰夫さん主演映画『不良番長シリーズ』にレギュラー出演して以降、梅宮辰夫さんを慕っていました。

 

その後は、キックボクシングの経験と体格の良さを生かして、1973年の千葉真一さん主演作品『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、東映が製作する千葉真一さんや志穂美悦子さん主演の格闘映画に次々と出演していきました。

「ホタテマン」としても人気に!

1982年には「オレ達ひょうきん族」の「タケちゃんマン」のコーナーに出演した際に、ほら貝をホタテ貝と間違えて言ったことから、「ホタテマン」として出演するようになりました。

 

コーナー内で誰かが「ホタテ」という言葉を口にすると、“ジョーズ”のテーマに合わせて安岡力也が登場し、大暴れして皆が逃げ出してしまいわめいて大騒ぎするというのが定番パターンでした。

 

このホタテマンから「ホタテのロックンロール」という歌まで生まれるなど、人気キャラクターとなりました。「ホタテのロックンロール」は、32万枚のセールスを記録しています。

 

また、アレンジは当時駆け出しだった小室哲哉が担当していました。

 

強面の風貌で、バラエティでコミカルな事をする安岡力也さんが受け、1980年以降はバラエティ番組にも多く出演しました。

驚きの安岡力也の生い立ちや武勇伝!

続いては、安岡力也さんのすごいと言われる生い立ちや武勇伝について詳しく見ていこうと思います。

祖父と父はシチリアンマフィア!

安岡力也さんは、イタリア人の父と日本人の母に間にイタリアのジェノバで生まれました。祖父と父がシチリアンマフィアで、父親はマフィアの有力者で、安岡力也さんは銃撃などを何度も見て育ち、6歳の時に父が亡くなり日本にやってきたといわれていました。

 

本名はリカルド・ニコ・バレンティーノといいます。

宮城県生まれで仙台育ち?

しかし、東京スポーツで生前の2011年4月に掲載された自身の連載「息子へ」では、安岡力也さんの父親は、米軍と癒着していた関係で来日しており、日本人で教師の母との間に宮城県仙台市で生まれたとしています。

 

その後、4歳から埼玉県行田市の祖母宅で育ったそうです。父は表向きは貿易商でイタリアと日本を往復したため、父が日本にいる時は麻布の父宅によく行ったが、イタリアで育ったことはないと語っています。

 

若い頃の武勇伝がすごい!70人を相手に喧嘩?

安岡力也さんは、高校時代は4000人を率いる総番長だったと言われています。

 

若い頃は東京の繁華街でも悪さをしていたようですが、70人の相手にひるむことなく冷静に戦ったという伝説があります。

 

また、飲みに行っていると、喧嘩をふっけかられることも多かったようですが、そこは腕っぷしの強さで相手をのしていたんだそうです。

安岡力也の現在(2021)について

安岡力也さんが亡くなってから9年がたちますが、死因はなんだったのでしょうか。詳しく見ていこうと思います。

2012年4月に死去・死因は心不全

2006年6月に運動神経に障害が起きる難病のギラン・バレー症候群を発症して、2010年には、胆のう胞、肝細胞がん、C型肝硬変を発症し手術を受けました。

 

しかし、2012年4月6日に急に様態が悪化し、2012年4月8日午前6時に東京都内の病院で心不全で64歳で亡くなりました。

青山葬儀場でお別れ会が行われる

安岡力也さんが死去した一ヵ月後に、青山葬儀場で彼のお別れ会が行われました。

 

兄貴分だった梅宮辰夫さんが発起人となり、親交の深かった内田裕也さん、堺正章さん、中村玉緒さんなど数々の有名人が参列しました。

安岡力也の結婚相手や離婚理由は?

続いては、安岡力也さんの結婚・離婚歴について詳しく見ていこうと思います。

1984年に一般女性と結婚

安岡力也さんは、1984年に一般女性と結婚して男の子と女の子の2人の子供をもうけています。元妻はとても美人で、子供には凄く厳かったそうです。

安岡力也の女性問題で離婚

安岡力也さんは、14年間の結婚生活のあとに、自身の度重なる女性問題で離婚しました。

 

その際、安岡力也さんは長男の親権を得て、長女は元妻が親権を持つこととなりました。離婚後は再婚せずに一人で息子を育てあげました。

コワモテだが子煩悩な父親だった

子供が母親に怒られた時には、いつも心配し優しく声をかけるような父親で、子煩悩でやさしい父親だったそうです。離婚後は息子に全ての愛情をささげており、親子仲はとても良かったようです。

 

また、離婚後も娘と交流があり、ブログではハワイに住んでいて子供もおり、安岡力也さんには孫にあたるわけですが、孫の名前が「力也」であることが紹介されていました。

 

この話から、娘さんとも離れたとはいえ、良い親子関係だったことが伺い知れます。

安岡力也の息子は俳優の安岡力斗

続いては、安岡力也さんの息子・安岡力斗さんはどんな人物なのかを見ていこうと思います。

父親に肝臓の64%を提供

2010年、安岡力也さんはがんが進行して肝臓がほとんど機能していない状態で、医師からは「このままだと余命は1か月ぐらい」と宣告されたそうです。

 

まわりからは、止められたそうですが、安岡力斗さんは、恩返しするにはこれしかないと、迷いは一切無く、ドナーとなることを決め、自分の肝臓の64%を父親である安岡力也さんに提供しました。

 

これは日本に過去に例がない手術で、手術時間は42時間にも及んだそうです。

保育士や建設業で仕事

元々はプロレスラーを目指していた安岡力斗さんですが、安岡力也さんの闘病生活のため木更津に移住したことで、建築業で働き始めました。

 

その後、安岡力也さんの手術後は保育士をした時期もありましたが、その後また建築業で働いていました。

現在は俳優やタレントとして活動

安岡力斗さんは、2014年から俳優やタレントとしても活動し始めました。2016年に公開された映画『民暴』に出演しています。

 

また、プライベートでは、2019年に結婚しています。

安岡力也はマフィアの息子だった

2012年に亡くなった、コワモテ俳優の安岡力也さんについてご紹介していました。

 

安岡力也さん父親は、イタリアのシチリアンマフィアだったという噂は本当で、安岡力也さん自身、とてもケンカが強かったようです。

 

俳優だけではなく、バラエティでも活躍した安岡力也さんは、晩年は、病との戦いの日々でした。芸能界復帰を目指していらっしゃったようですが、残念ながら2012年に心不全のためお亡くなりになりました。

 

改めてご冥福をお祈りします。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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