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    附属池田小事件から20年!?犯人・宅間守の現在(2021)とは?

    午前中の小学校に侵入し、児童や教師を襲い8名の児童が命を落とした「附属池田小事件」。あれから20年が経ちましたが、犯人である宅間守は現在どうしているのでしょうか。そこで今回は、事件の概要や宅間守の現在、生い立ちなどについて迫ってみたいと思います。

    附属池田小事件はどんな事件?

    まずは、付属池田小事件がどういった事件だったのかについて、お伝えします。いつ、どのような事件が起きたのでしょうか。

    2001年に発生

    2001年6月8日の、小学校の2時間目の授業が終わりに近づいていた、午前10時頃に発生しました。今から20年前のことです。

    現場はどこ?

    事件現場は大阪府池田市にある「大阪教育大学附属池田小学校」です。小学校の設立は1909年4月12日であり、歴史ある学校でもあります。事件後の授業は、一時的に仮設校舎で行われました。

    被害者の大体が児童

    犯人は自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等で、児童や教師計23名を出刃包丁で殺傷しました。これにより、8名の児童が犠牲になってしまったのです。亡くなってしまった児童の保護者の1人は、事件後に早く学校に駆け付けました。

    しかし、負傷した児童に会うことができませんでした。その保護者は、児童を自身で探し回り搬送先の病院で既に息絶えた児童とやっと対面したといいます。被害児童は、もし犠牲になっていなければ現在は立派な社会人となっていたかもしれません。

    犯人は宅間守

    『付属池田小事件』の犯人は、兵庫県伊丹市出身の宅間守という人物です。宅間守は事件当時37歳でした。また身長は180センチあり、がっちりとした体格を持っていました。彼は幼少期からトラブルを起こしていたとされています。

    彼は現行犯逮捕されましたが、最後の1人を刺し終えた瞬間に凶器の出刃包丁を床に落とし、「あーしんど」と呟いたという話もあります。

    宅間守は現在(2021)どうなっている?

    事件後の宅間守がどうなったのか気になる方もいるかもしれません。宅間守は、現在どうしているのでしょうか。宅間守の現在について迫ってみたいと思います。

    死刑執行を訴える

    宅間守は、主任弁護人に送った文書で”刑事訴訟法第475条第2項”で規定された『死刑確定後の6か月以内の死刑執行』を訴えています。また、6カ月以内に死刑が執行されなければ当時の法務大臣に対する『特別公務員暴行陵虐致傷罪』などで、刑事告訴をする準備までしていました。

     

    さらに、2004年に担当弁護士に宛てた年賀状には、「ケジメをつけるためにご協力お願いします」と書かれており、直ちにでも死刑になりたいと考えていたことが分かります。

    2004年死刑執行

    死刑が確定してから約1年後となる2004年9月14日8時16分に、宅間守は大阪拘置所で死刑が執行されました。死刑執行時、彼は40歳でした。本人の望み通り、早い段階での執行となったのです。死刑執行の朝は、朝食をとることは許されなかったといいます。

    しかし、執行直前に煙草とリンゴジュースを刑務官からもらい、味わったのでした。

    妻への最期の言葉

    事件当時、宅間守には妻がいました。死刑執行後に、妻に対して「ありがとう、と僕が言っていたと、妻に伝えてください」という言葉を残しています。妻には、感謝の言葉を伝えていたのです。

    宅間守の生い立ちはどうだった?

    続いては、宅間守の生い立ちについて迫ってみたいと思います。宅間守は、どの様な生い立ちを経て凶悪な事件を起こすまでに至ったのでしょうか。

    いじめ

    1963年に誕生した宅間守は、幼少期から問題行動を繰り返していました。3歳の頃には、三輪車で国道の中央を走行して渋滞を発生させたといいます。小学校に入学すると、自身よりも強い児童からいじめに遭っていたといいますが、自身よりも弱い児童を徹底していじめていました。

     

    また、動物を新聞紙に包み火を付けて殺害してこともあるというのです。また、中学校では好意を抱いていた女子生徒の弁当に、自らの精液をかけたということが、事件後に鑑定医へと宅間守本人が語っています。

     

    自衛隊に入隊

    宅間守は、小学生の頃から自衛隊に強く関心を持っていました。そして高校を2年生で中退して、編入した定時制高校も中退しています。その後、数ヶ月ほどガソリンスタンドでアルバイトをして、18歳だった1981年末に航空自衛隊に入隊しました。

    ところが、1983年1月に1年ほどの勤務で強制除隊となっています。その理由は、家出をした少女を自宅に下宿させ関係を持ったとして、懲罰を受けたのだと鑑定書に書かれています。

    職を転々とする

    自衛隊を除隊となった後は、運送会社やトラック運転手、引越し業者など数十社を転々とし、どの職場も数週間から半年の間に辞職もしくは解雇となっています。そのため宅間守は精神が荒れてしまい、家族に暴力を振るうなどするようになりました。高速道路を逆走したこともあったとされています。

    1984年にはマンションの管理会社に勤務していましたが、家賃を徴収すると言って女性の部屋へと上がり込み、強姦してしまいました。この強姦事件の後に母親と共に精神科を受診して入院ましたが、病院の5階から飛び降りたのです。入院したのは、強姦事件を警察から追及されるのを避けるためでした。

    そして、飛び降りたのは親を困らせるためでした。飛び降りの後、宅間守は“統合失調症”と診断されています。30歳だった1993年には非常勤の地方公務員として勤務していたものの、トラブルを起こして懲戒処分を受け、1999年には再度トラブルを起こし『分限免職』となっています。

    5回結婚している!

    なんと、宅間守は5回も結婚をしています。1人目の妻とは医者だと偽り26歳で19歳年上の女性と結婚しましたが、嘘がバレて12日間で離婚しています。その4か月後には、20歳年上の小学時代の恩師と結婚したものの、強姦事件などが原因で離婚されました。

    3度目はお見合いパーティーで出会った女性との結婚であり、宅間守が何度も結婚を迫ったとされています。さらに3番目の妻は宅間守の子供を妊娠しましたが、離婚調停中に堕胎しました。4人目の妻もお見合いパーティーで知り合った女性でしたが、この女性とも長く続きませんでした。

    5人目の妻は、獄中結婚した相手です。死刑判決後に死刑廃止運動家の女性から手紙をもらい、文通を続けるうちに距離を縮め結婚してます。宅間守は、晩年にその女性の姓に改姓しました。女性は、クリスチャンでもあり博愛主義者であったとされています。

    宅間守の親はどんな人?

    続いては、凶悪事件を引き起こした宅間守の親について探ってみたいと思います。宅間守の親はどういった人物だったのでしょうか。また、宅間守の兄弟に関してもお伝えします。

    先祖は薩摩の下級武士

    宅間家の先祖は、薩摩の下級武士であったとされています。また宅間家の男子は、伝統として法律や警察関係の仕事に就くようになっていました。さらに宅間家では、薩摩の下級武士の家系であることを誇りにしていたといいます。

    父親は武士のプライドを持ち続けた

    宅間守の曽祖父も武士であり、宅間守の祖父や父親もその点にこだわっていました。父親は、薩摩武士としてのプライドを持ち続けていて、息子である宅間守のことも侍として厳しく躾けたといいます。

    母親は産みたくなかった?

    母親は家事などを苦手とする女性であり、育児放棄気味でした。宅間守を妊娠した際にはは親は「産みたくない」と言っており、産まれた後も毛嫌いされ宅間守は育っています。このことも、彼の人間性を屈折させた可能性があるかもしれません。

    宅間守は大人になっても母親に対して恨み続けていて、彼のアパートからは母親への恨みが綴られたノートが見つかっています。

    兄は自殺している

    宅間守の実兄は、40代前半で小刀で首を斬り自殺しています。弟である宅間守のことで心を病んだことや起業で失敗したことが理由であるとみられました。しかし兄が自殺をしたのは、宅間守が付属池田小で事件を起こす前のことでした。大事件を起こす前から、宅間守は兄の精神に影響を及ぼしていたのです。

    宅間守の裁判はどうなった?

    宅間守は死刑が執行されていますが、裁判はどの様な経過を辿ったのでしょうか。宅間守の裁判について探ってみたいと思います。

    起訴される

    2001年9月14日に大阪地方検察庁は、被告人・宅間守を大阪地方裁判所に起訴しました。罪状は、殺人や殺人未遂、建造物侵入及び銃刀法違反です。、

    精神鑑定を受けていた

    宅間守は、裁判のために精神鑑定を受けました。そして、責任能力に問題がないと判断されています。しかし、裁判中に精神異常のように振る舞ったことで、多動性障害や非社会性行為障害だと診断されました。じっとすることができない、我慢ができない、犯罪行為をしても罪悪感を感じないと判断されたのです。

    判決公判で主文が先

    2003年8月28日の判決公判において、宅間守に対し死刑が言い渡されました。しかし宅間守が騒いだことから、冒頭で死刑の主文が言い渡されています。宅間守は騒いだことから、入廷からわずか2分ほどで退廷を命じられました。被告人が退廷後、「被告人を死刑に処する」と再度主文が読み上げられています。

    なお通常であれば、死刑判決の場合の多くは主文を後回しにして判決理由から述べられるものです。

    「あの世でもおまえらの子供追いかけ回してしばき倒したるからな」

    宅間守は、「発言してもよろしいか」と言った後に長い言葉を延々と述べ、その最後に「あの世でもおまえらの子供追いかけ回してしばき倒したるからな」と発言しました。そして、「こらおもろい」と言い笑ったのです。

    これは大阪地方裁判所での死刑判決の直前、退廷命令を受けて拘置所職員に連れ出される際に宅間守が叫んだ言葉です。

    宅間守は死刑執行済み!

    『付属池田小事件』を起こした宅間守は、2004年に死刑が執行されています。事件から約1年後のことでした。宅間守は、死刑になることを望んでいたといいます。生きていることに絶望して、自棄になり犯罪を犯したことが考えられるでしょう。

    8名の児童の尊い命が犠牲となった本事件ですが、宅間守は「幼稚園ならもっと殺せた」とも言っていたのです。彼は生きるより、凶悪事件を起こして死刑になるほうがマシだと考えていた可能性があります。

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