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尼崎事件とは?角田美代子のその後や事件の真相を徹底調査!

皆さん、尼崎事件をご存知でしょうか?この事件は角田美代子という一人の女性が中心となった疑似家族によって25年以上も続いた事件です。角田美代子はなぜこのような事件を起こしたのでしょうか?尼崎事件の真相を徹底調査していきたいと思います!

尼崎事件の真相を徹底調査!犯人の角田美代子のその後は?

25年以上もの間続いたとされる尼崎事件。一部では尼崎連続変死事件とも呼ばれ、角田美代子という一人の女性が中心となり、暴行や監禁などがされました。なぜ、この事件は25年以上もの長い間続いたのでしょうか?そして、角田美代子はなぜこのような事件を起こしたのでしょうか?今回は尼崎事件を徹底調査します。

尼崎事件とは?

尼崎事件は1987年頃に発生したとされています。尼崎事件は、発生から25年以上もの長い間続きました。では、どのような事件だったのでしょうか?まずは事件の概要からご紹介します。

尼崎事件の概要

1987年頃、ある一人の女性が失踪しました。これを発端に、不審死や失踪事件が複数発生しました。しかし、これらの事件は表沙汰になりませんでした。

最初の女性失踪事件からおよそ25年経った2011年11月、事件の主犯格とされる角田美代子により監禁されていた40代の女性が監禁状態から脱出し警察に駆け込みました。これがきっかけとなり、2012年10月に兵庫県尼崎市で連続殺人遺棄事件が発覚。一連の事件は、尼崎事件と呼ばれ多くの話題を呼びました。

話題を呼んだこの尼崎事件。主犯格である角田美代子は25年以上もの間、血縁関係にない人々を集めて疑似家族を作り、監禁状態にして共同生活を送っていました。

角田美代子による監禁とは

角田美代子による監禁は、とてもひどい状態で行われました。食事は、質素なものが一日に一度。または、数日に一度であったりとバラバラでした。たまに角田美代子の気まぐれでたくさん食べさせられるなどもあったようです。食事の他には、睡眠も制限されました。

また、我慢大会と称されるものもありました。監禁された人は、トイレに行くことが禁止され、排泄を我慢しなければならない状態に置かれたのです。角田美代子は、排泄できずに苦しむ者の様子を見て、楽しそうに笑っていたのだそうです。

さらに角田美代子は、監禁した者を厳しい環境に置き、マインドコントロールしていました。そして、親族間同士で暴力を強要しました。暴行で死亡者も出ました。角田美代子による監禁は、想像を絶するものだったのです。

尼崎事件に対する警察の対応は?

この尼崎事件では、被害者やその親族、また近隣住民などから50件以上もの警察への通報や相談がありました。しかし、身内同士の金銭トラブルや暴行ということもあり、民事不介入として警察は積極的に動こうとはしませんでした。

角田美代子は、民事不介入により警察が介入しないことを良く知っていたそうです。そのため、25年以上もの長い間、一連の事件が続くこととなってしまったのだそうです。また、監禁されている者もマインドコントロールされていたため、警察の捜査も困難を極めました。

一連の事件が発覚すると、警察の初動捜査の遅さが問題視されました。香川県警と兵庫県警は、この点について検証し、不適切な部分があったと認め、後に関係者に対して謝罪しました。

尼崎事件の判決は?

一連の事件では、主犯格の角田美代子を含む11名が起訴されました。書類送検された者も17名と多く、その中には被害者の親族もいました。

鄭頼太郎(韓国人の内縁の夫)

この男性は、角田美代子とは20代の頃からの付き合いがありました。長らく内縁関係にありましたが、角田美代子からは虐待されることもありました。この男は、3件の殺人罪などで起訴され、懲役21年の判決を受けました。

角田美枝子(義理の妹)

この女性は、1998年に養子縁組を結び、角田美代子の義理の妹となりました。金庫番のような役割を担っており、角田美代子からも信頼されていました。また、角田美代子の指示で集団生活の日誌をつけていました。一連の事件の発覚につながる痛いの遺棄場所を最初に自供した人物です。

この女性は、3件の殺人罪などで起訴され、懲役21年の判決を受けました。

角田健太郎(角田美代子の義理の長男)

1982年生まれで、もともとは角田美代子の遠縁にあたる人物でした。しかし、角田美代子により家庭が崩壊し、角田美代子とともに暮らすことになりました。1999年には、角田美代子の養子となりました。

この男性は、3件の殺人罪などで起訴され、懲役21年の判決を受けました。

角田優太郎(角田美代子の次男)

この男性は1986年生まれで、戸籍上は角田美代子の実子だとされています。しかし、実際は角田美代子の義理の妹の子供だと言われています。角田美代子からは虐待などされておらず、大事にされていたようです。

この男性は、2件の殺人罪などで起訴され、懲役17年の判決を受けました。

李正則(角田美代子の義理のいとこ)

この男性は、2002年頃に角田美代子と知り合いました。それ以降、角田美代子のもとで生活するようになりました。2004年には、角田美代子の叔父と養子縁組を結び、角田美代子の義理のいとことなりました。

この男性は、身長が167cmで体重は130kg近くもある巨漢で、背中には刺青があります。角田美代子からは「マサ」と呼ばれ、角田美代子の指示で、周囲の人間に対して激しい暴力を振るうなどして恐れられていました。

3件の殺人罪と1件の傷害致死罪などで起訴され、無期懲役の判決が下されました。

仲島康司(仲島茉莉子の夫)

仲島康司は1969年生まれで、沖縄県の出身です。2006年頃から角田美代子らとともに生活するようになりました。角田美代子らから暴力を振るわれるなど虐待されていました。妻の仲島茉莉子とともに逃げ出したこともありましたが、結局連れ戻されてしまいました。

日常生活では、角田美枝子の運転手を務めていました。

仲島康司は、2件の殺人罪などで起訴され、懲役15年の判決が下されました。

角田瑠衣(角田優太郎の妻)

角田瑠衣は、名門高校に通うほどの優等生で、明るくて優しい性格をしていました。しかし、角田美代子に出会い、性格が一変しました。

角田美代子に出会ったのは、平成15年でした。香川県高松市の実家に角田美代子らが押しかけ、角田瑠衣の家族は暴力を振るわれました。しかし、角田瑠衣だけは特別な扱いを受けました。すると、次第に角田美代子に心酔するようになりました。高校を中退し、角田美代子らと共に生活するようになりました。

そして、角田美代子の次男・角田優太郎と結婚し、子供も二人出産しました。角田美代子からは「ハナ」と呼ばれ、常に行動を共にしていました。角田瑠衣は、3件の殺人罪などで起訴され、懲役23年の判決を受けました。

川村博之

川村博之は、かつて大手私鉄会社に務めていました。しかし、2009年に角田美代子のクレームに対応してから、角田美代子によって家庭に介入されました。そして、角田美代子により退職・転居・離婚を強要されました。

元妻・大江裕美の実母・大江和子に対する傷害致死罪などで、懲役3年執行猶予5年の判決を受けました。

大江裕美(大江和子の次女で川村博之の元妻)

大江裕美は川村博之と結婚していましたが、角田美代子によって離婚・転居を強要されました。最後には、川村博之と次女の3人で無理心中をさせられる寸前に追い込まれました。

2011年11月に警察に保護されました。当時の体重は、虐待によってわずか35kgほどでした。実母の大江和子に対する傷害致死罪などで起訴され、懲役2年執行猶予3年の判決を受けました。

大江香愛(大江和子の長女)

大江香愛は、大江和子の長女で大江裕美の姉です。実母の大江和子の死亡後には、集中的に暴力を受けるようになりました。しかし、隙を見て監禁状態から抜け出して、警察に駆け込みました。このことがきっかけで、一連の事件が発覚することとなりました。

実母の大江和子に対する傷害致死罪などで起訴され、懲役3年執行猶予4年の判決を受けました。

尼崎事件に関連する一連の事件

尼崎事件では多くの逮捕者が出ました。さらに、この事件は逮捕者だけでなく、行方不明者や犠牲となった人も数多くいます。ここでは、行方不明者や犠牲となった人物やその事件をご紹介します。

女性失踪事件(1987年頃)

尼崎事件の一連の事件の発端となった事件です。この事件で犠牲となったのは、角田美代子の義理の妹・角田美枝子の夫・角田(橋本)久芳の母親です。女性は、2006年に角田美枝子によって失踪宣告申し立てされました。そのため、戸籍上では1944年5月に66歳で死亡扱いされています。

しかし、角田美代子の親族らの供述によると、女性は1987年頃に暴行を受けて死亡しました。そして遺体は尼崎市の海に遺棄されたとされています。これらの供述に基づいて、遺体が遺棄されたとされる場所を捜索しましたが、遺体は発見されませんでした。

女性死亡事件(1999年)

この事件で犠牲となったのは、角田美代子の養子となった角田健太郎の祖母です。この女性は、1999年に病死したとされています。しかし、死亡前には親族から虐待を受けていたという話もあります。

この女性の死亡に関して捜査されましたが、不審な点が見当たらず、事件化はされませんでした。

角田健太郎の実兄転落死(1999年)

角田健太郎の実兄も亡くなっています。この男性は、1999年に、当時監禁されていた兵庫県西宮市のマンションから飛び降り自殺しました。この事件も捜査されましたが、不審な点はなかったとされ、事件化されませんでした。

皆吉ノリさん死体遺棄事件(2003年)

角田美代子の内縁の夫・鄭頼太郎の中学の後輩の皆吉氏。皆吉氏の母親の皆吉ノリさんが、2003年に角田美代子らによる食事制限や暴行などの虐待により死亡しました。皆吉ノリさんの遺体は、香川県高松市にある谷本家に隣接する倉庫の地下に遺棄されました。

2012年に逮捕者の供述により、遺体が発見されました。

谷本隆さん死体遺棄事件(2004年)

角田美代子の次男・角田優太郎。その妻・角田瑠衣の叔父にあたる人物が、谷本隆さんです。谷本隆さんも、角田美代子らによる食事制限や暴行などの虐待により2004年に亡くなりました。遺体は、皆吉ノリさんの家の地下に遺棄されました。2012年に逮捕者の供述により、遺体が発見されました。

橋本(角田)久芳さん転落死事件(2005年)

尼崎事件の発端となったとされる、1987年頃に起きた女性失踪事件。その女性の長男にあたるのが、この事件の犠牲者の橋本(角田)久芳さんです。橋本久芳さんは、角田美枝子の義理の妹・角田美枝子の夫です。

橋本久芳さんは、2005年7月1日に、沖縄県恩納村の崖から記念撮影中に転落死しました。当時は事故扱いでしたが、尼崎事件の発覚により、角田美代子に自殺を強要されていた疑いが明らかになりました。

橋本久芳さんは、死亡する数ヶ月前から角田美代子らに自殺するよう執拗に迫られていました。死亡する前日には、お別れ会なども開かれていました。さらに、橋本久芳さんには多額の死亡保険金がかけられていました。そして、その保険金は角田美枝子に支払われていました。

安藤みつゑさん死体遺棄事件(2008年)

安藤みつゑさんは、角田美枝子の兄の交際相手でした。家政婦的な立場で、角田美枝子らと長らく同居していましたが、2008年11月に、角田美代子の孫を強く叱ってしまったことで、角田美代子の激しい怒りを買いました。

そのため、角田美代子に暴行され、1週間ほど角田美代子の自宅マンションの物置に監禁されました。そして、虐待を受ける最中に死亡したとされています。安藤みつゑさんの遺体は、皆吉ノリさんの家の床下に遺棄されました。その後、逮捕者の供述に基づいて、遺体が発見されました。

谷本茉莉子さん死体遺棄事件(2008年)

谷本茉莉子さんは、2008年7月頃に角田美代子のもとから逃げ出しました。しかし、すぐに発見され連れ戻されてしまいました。罰として、角田美代子の自宅マンションの物置で2ヶ月以上もの間、断続的に監禁されました。

食事制限や暴行など、虐待される中で、2008年12月ごとに亡くなりました。谷本茉莉子さんの遺体は、皆吉ノリさんの自宅の床下に遺棄されました。

谷本茉莉子さんの母不審死事件(2009年)

谷本茉莉子さんの母は、2008年3月に意識不明の状態で病院に運び込まれました。女性は、急性硬膜下血腫と診断されました。結局、そのまま意識が戻らず、2009年6月に肺炎で亡くなりました。

当時は事件性がないと判断されました。しかし、尼崎事件が発覚したことにより再捜査されると、病院に運び込まれる直前に激しく頭を揺すられるなどの暴行を受けた疑いが明らかになりました。

橋本次郎さん死体遺棄事件(2011年)

橋本久芳さんの弟・橋本次郎さんは、2011年7月下旬に同居人とトラブルになったことがきっかけで、角田美代子らの怒りを買いました。橋本次郎さんは、角田美代子らに激しく暴行され、角田美代子の自宅マンションの物置に監禁されました。

食事なども制限され、数日後に亡くなりました。橋本次郎さんの遺体は、ドラム缶にコンクリート詰めにされました。そして、岡山県の海中に遺棄されました。遺体は2012年10月に発見されました。

大江和子さん死体遺棄事件(2011年)

大江和子さんは、2011年9月1日に、角田美代子らによる虐待で亡くなりました。大江和子さんの遺体は、ドラム缶にコンクリート詰めにされ、鄭頼太郎が借りていた貸倉庫に放置されました。逮捕者の供述に基づいて、20011年11月に遺体が発見されました。

尼崎事件の犯人・角田美代子まとめ!

悲惨な事件の主犯となった角田美代子。角田美代子は、異常とも言える状態の中で、多くの人を監禁したりマインドコントロール状態にしました。一体、角田美代子というのはどのような人物だったのでしょうか?

角田美代子の性格は?

角田美代子は、中学生の頃から女ボスのような存在だったと言われています。常に男子生徒を手下にして歩くような姿が見られていました。他人に厳しく接する一方、気に入った人物を溺愛するというようなところもあったようです。

角田美代子の写真取り違え報道問題とは?

尼崎事件が発覚した後の2012年10月下旬、テレビや雑誌などで、角田美代子とされる人物の顔写真が報道されました。しかし、これは別人でありました。

報道陣は、角田美代子の長男の同級生の親などから裏付け作業を重ねました。にも関わらず、誤った人物の顔写真を報道してしまいました。これは、角田美代子が写真を撮られることを嫌い、普段から映らないようにしていたことが原因にあるようです。

兵庫県警は、その後2012年11月7日に角田美代子の顔写真を報道各社に公開しました。

尼崎事件のその後は?

多くの被害者を出した尼崎事件。親族間同士で暴行を加えさせるなど異常な事件で、事件発覚後は多くの話題を呼びました。では、尼崎事件のその後はどのようになったのでしょうか?

角田美代子が自殺

2012年11月7日に、角田美代子の顔写真が報道各社に公開されました。その、およそ1ヶ月後の2012年12月12日、角田美代子は兵庫県警本部の留置所内で自殺しました。

尼崎事件発覚後から、角田美代子は弁護団や警察官に「死にたい」など、自殺をほのめかす言葉を放っていました。そのため、角田美代子への監視は厳しくされていました。しかし、少しの隙を見て、角田美代子は布団内で長袖Tシャツを首に巻きつけ自殺しました。

真相は闇の中に

角田美代子は一連の事件の主犯者です。その人物が死亡したことにより、真相解明は非常に難しい状態となりました。事件の真相は闇の中に葬り去られました。

ちなみに、角田美代子の遺体を引き取る親族はいなかったため、2012年12月19日に、兵庫県神戸市により火葬されました。

尼崎事件の真相は不明

主犯とされる角田美代子は自殺をしてしまいました。そのため、事件の真相を解明することは不可能になってしまいました。このような事件の被害者にならないためにも、事件そのものを知っておくのは良いことでしょう。また、事件を風化させないようにするのも大切なのでしょう。

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