木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
帝銀事件をご存知でしょうか。同事件は占領期に起こった毒物を使った強盗殺人事件です。死者は12人に上り、世間を震撼させました。容疑者として画家の平沢貞通が逮捕され、死刑判決が出ましたが、冤罪の疑いが濃厚となっています。ここではこの帝銀事件について解説します。
帝銀事件とは、1948年1月26日に東京都豊島区長崎町の帝国銀行椎名町支店で発生した毒物による強盗殺人事件です。当時の日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下にあり、ポツダム宣言を執行するための占領政策が実施されていました。
1946年からは東京裁判が開始されており、1948年11月に判決が出され、同年12月に刑が執行されました。一方、1948年より反共主義、再軍備へとシフトする「逆コース」が本格化してきます。事件が起こったのは、そのような第二次大戦の余韻がまだ冷めない時期でした。
帝国銀行椎名町支店があったのは、東京都豊島区長崎1丁目7−1附近です。西武池袋線椎名町駅から北に1ブロックほど進んだところにあります。現在はマンションとなっています。駅のほど近くであり、事件が起こったときには、かなりの騒ぎになったことが想像されます。
犯人は銀行員および用務員ら16人に言葉巧みに毒物を飲ませ、12人を殺害しました。現場は集団中毒の模様を呈したために捜査は難航することとなりました。使われた毒物は、シアン化合物(青酸化合物)でした。
シアン化合物には、シアン化カリウム(青酸カリ)、シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)などがあり、冶金やメッキ、害虫駆除などに用いられます。
シアン化化合物が体内に入ると、胃酸と反応してシアン化水素が発生し、その毒性によって嘔吐、めまい、頭痛を引き起こし、重度の場合、呼吸困難から昏睡、死に至ります。
1948年8月21日、警察は北海道小樽市でテンペラ画家の平沢貞通を逮捕しました。テンペラの絵の具には、虫よけとして青酸カリが使われたり、下塗りに利用され、シアン化合物に慣れているとされました。1950年7月24日、東京地裁で平沢に死刑判決が出されました。
1951年9月29日、東京高裁で控訴が棄却され、1955年4月7日、最高裁で上告棄却、同年5月7日死刑が確定しています。平沢は再審を17回、恩赦を3回申請しましたが、受け入れられず、1987年5月10日、肺炎のため八王子医療刑務所で病死しました。95歳でした。
実は帝銀事件の以前に類似の事件が起こっていました。平沢の逮捕にはその類似の事件が大きく関わっています。類似事件から帝銀事件への経緯はどのようなものだったのでしょうか。
1947年10月14日、品川区平塚の安田銀行荏原支店で類似の事件が起こっています。閉店直後の銀行に「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」の名刺を持った男が現れ、赤痢発生のために銀行内の消毒を主張しました。帝銀事件と同様のやり方で銀行員に薬と称するものを飲ませましたが、死者は出ませんでした。
また1948年1月19日には、西武新宿線中井駅近くの三菱銀行中井支店に、「厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課」の名刺を持った男が現れました。行員は薬を飲まされそうになりました。
しかし不審に思った支店長が現金はないと言うと、男は小為替に液体を掛けただけで出ていきました。帝銀事件のわずか1週間前のことでした。
帝銀事件では、閉店直後の銀行に入った中年男性の犯人は「東京都防疫班」の腕章を着用していました。「厚生省技官」の名刺を差し出し、近くの家で集団赤痢が発生したと偽って、言葉巧みに予防薬と称し、16人に青酸化合物を飲ませました。
犯人は銀行員らを毒殺し、現金16万円および小切手1万7450円を奪って、逃走しました。現在の通貨価値はその100倍に価します。小切手は盗難の届け出が遅かったために、犯人は犯行翌日に安田銀行板橋支店で換金してしまいました。
それでは帝銀事件発生後はどのような経緯をたどったのでしょうか。捜査の進展、平沢の逮捕についてみていきましょう。
警察は当初、青酸化合物が使われたことから旧陸軍731部隊(関東軍防疫給水部本部)関係者に捜査の照準を当てました。731部隊は陸軍が1933年ハルピンに細菌戦研究のために設置した部隊です。
部隊長は軍医中将石井四郎、2600人あまりの研究者が動員され、生体実験により細菌、凍傷、毒物などの研究が行われ、実際に細菌戦も実行しました。敗戦後、石井とGHQの取り引きによりデータが提供され、部隊員は戦犯として訴追されることを免れています。
1948年6月、警視庁刑事部長は軍関係者に捜査対象を絞るように指示しました。全国の警察官に配られた『帝銀犯人捜査必携』には、犯人を旧軍人の上級者としています。しかしGHQにより捜査中止を命じられてしまいました。
そこで警察内では、類似事件で使用された名刺の捜査を進めていた名刺班にスポットが当たっていきました。同班では松井蔚の名刺を手掛かりに捜査しました。松井は名刺を渡した相手や時期を記録しており、渡した92枚のうち62枚を確認しました。また紛失した22枚を事件に関係ないとみなしました。
すなわち92枚のうち84枚の所持者は関係ないということになり、残り8枚に焦点が当たり、その中の1枚が事件に使われたとされました。そして1948年8月、松井と名刺交換をしたことがある平沢貞通が逮捕されます。
平沢貞通は、1892年東京市に生まれました。1911年に東京水道橋の日本水彩画研究所に入所。1912年に旧制小樽中学校を卒業しました。1913年石井柏亭・磯部忠一らとともに日本水彩画会を結成します。
1914年には第1回二科展で「昆布干すアイヌ」(水彩画)が初入選しました。1919年には第1回帝展で「野火の跡」(水彩画)が初入選しています。以後、16回にわたって出品し、審査なしに出品できる「無鑑査」の資格を得ました。
1921年には第9回光風会展で今村奨励賞を受賞しています。1928年には岡田三郎助らとともに日本テンペラ画会を創設しました。1930年には日本水彩画家会委員に就任しています。
平沢の逮捕理由としては、平沢は交換したはずの松井の名刺を持っていなかったこと、事件時のアリバイが証明できないこと、過去に詐欺事件を起こしたこと、事件直後に被害総額とほぼ同額を貯金したことなどが挙げられています。
拘留期限が満了となる1948年9月3日、東京地検は平沢を別件の詐欺罪で起訴しました。起訴事実としては、平沢が1947年11月25日東京の三菱銀行丸ビル支店で別人になりすまして1万円の払い戻しを受けたこと、同年12月28日知人から偽造した通帳を利用して額面20万円の小切手を詐取したことなどが挙げられました。
平沢の取調べが続くなか、警察は傍証を固める捜査を続けました。その一つは十型腕時計です。事件の目撃者は犯人が時間を図るのに用いたのが十型腕時計であったと証言しています。平沢は逮捕されたときに十型腕時計を身に付けていました。
また安田銀行荏原支店で目撃者は犯人の歩き方がびっこを引いていたと証言していますが、平沢の歩き方もびっこでした。また帝銀で小切手を奪った犯人が安田銀行板橋支店に換金に現われたときに履いていたのが、先端がエナメルのフランス製の靴でした。平沢の所持品から同型の靴が押収されました。
さらに平沢が三菱銀行中野支店に3万5000円、東京銀行本店に8万円を預金していたことが明らかになりました。名義は架空の人名でなされており、預金はほとんど引き出されていました。平沢は金の出どころについて人からもらったと供述しましたが、その人はあげた事実はないと否定しています。
警察は被害者に平沢の面通しをしましたが、平沢を犯人と述べた者はいませんでした。平沢は無実を主張しましたが、拷問のような取調べの末、自供することとなり、帝銀事件および2件の類似事件で起訴されました。そして前述のように死刑が確定します。
平沢が自殺を図っていることからも取調べがいかに厳しいものであったかが窺えます。取調べには昭和の名刑事平塚八兵衛が当たったと言われていますが、平塚自身は平塚ら名刺班は嫉妬を受けて取調べから外されたと回想しています。
以上のように警察は旧軍人関係者の捜査を止められ、名刺を手掛かりに強引とも言えるやり方で平沢を逮捕、起訴しています。以下では、冤罪である可能性についてみていきましょう。
平沢の支援者は、拷問による自白であること、平沢は狂犬病予防接種を受けており、その副作用によるコルサコフ症候群の後遺症から来る精神疾患があったことから、供述には信ぴょう性がないことを主張しました。しかし再審請求は一回も認められることはありませんでした。
平沢は事件当日、丸の内にある船舶運営会勤務の娘婿と面会したとされます。面会時間は午後2時から30分程度。そこから帝銀椎名町支店には犯行時間の3時10~20分には着くことはできません。
平沢は3時頃には自宅に戻り、娘の友人のGHQ軍曹が来ていて挨拶したと証言しています。しかし、アリバイとして家族の証言は採用されず、同軍曹もアメリカへ急遽帰国してしまいました。
画家であった平沢は、死刑確定後も獄中で支援者から画材の差し入れにより絵を描き続けました。作家の松本清張や政治家の小宮山重四郎などの支援者が釈放運動を行っています。
1962年には平沢は宮城刑務所に移送されました。環境の良くない東北に送ることで自然死を早めようとしているのではないかとする報道もなされました。1985年支援者は、刑法31条を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める人身保護請求を起こしましたが、裁判所はこれを退けています。
弁護団の団長は、初代山田義夫、2代目磯部常治、3代目中村高一、4代目遠藤誠、5代目保持清が務めています。
平沢貞通は1987年に亡くなりましたが、死後も養子の平沢武彦および支援者が再審請求を続けています。1989年より東京高等裁判所に第19回再審請求がなされましたが、2013年に請求人の平沢武彦が亡くなったため、手続きは終了とされました。平沢の遺族は2015年東京高等裁判所に第20次再審請求を求めています。
東京帝国大学法医学教室で行われた鑑定では、事件に使われた毒物を青酸カリと結論づけました。死体解剖、胃の内容物や吐しゃ物を分析した結果です。青酸カリとされたことで、一般入手しやすいため、捜査範囲は広がることとなりました。
一方、陸軍登戸研究所ではアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)が開発されていたことが知られています。青酸カリは即効性があるものですが、アセトシアノヒドリンは、事件の状況のように飲んでから1、2分で効果が出るものでした。
ジャーナリストの吉永春子が主張するのは、安定化したシアン化合物と毒性化する酵素の2つを使うバイナリー方式です。犯人が第1薬を平然と飲んだことや失敗した例があることから、731部隊員犯人説を覆すものとして注目されています。
警察が聞き取りした結果、事件で用いられた薬ビンは大、小あり、色と形から、大学や研究所、かつての軍隊などで使われたもので、戦争後は販売されていないことが明らかになりました。
厚生省の松井蔚博士は、犯人はまず酢を飲ませてシアン化合物の人体への影響を増加させていることから、衛生関係の専門家であることは間違いないと語っていました。
1948年9月27日には、逃走中にたたきつけて捨てたという平沢の自供通りに壊れた薬ビンが見つかっています。毒物は検出されませんでしたが、目撃証言により犯行で使われた薬ビンと確定されました。
かつて陸軍登戸研究所に所属し、捜査に協力した伴繁雄は、平沢の死後、テレビに出演した際、真犯人は陸軍関係者と語りました。
また捜査主任であった成智英雄警視は、その手記で、毒物の知識を持たない平沢には不可能な犯行であるとし、容疑者として731部隊の「諏訪三郎軍医中佐」の名前を挙げました。陸軍軍医名簿にはその名の人物はいませんが、似ている名前の人物として「諏訪敬三郎」と「諏訪敬明」の2人がいることがわかります。
1985年3月8日、読売新聞は朝刊一面で、帝銀事件に関するGHQ機密文書が見つかったことを報じました。同文書はアメリカ公文書館に所蔵されているもので、1948年1月27日の警視庁による事件概要や捜査指示報告書などでした。
同文書には731部隊の記録も含まれており、注目されます。731部隊の母体となった千葉県津田沼の軍秘密科学研究所では、青酸を含む毒物の使用法の研究がなされていました。
同研究所で開発された使用方法は、事件で犯人が使った方法と同一のものでした。また犯人が使った薬品の容器は研究所で使用されたものと同じでした。
平沢の弁護団は1985年5月、GHQ機密文書3点を新たな証拠書類として再審請求している東京高裁に提出しました。同文書では安田銀行荏原支店の未遂事件で犯人がGHQ衛生業務担当のパーカー中尉の名を挙げたことが記されていました。
弁護団は、平沢がGHQのパーカー中尉の名を知るわけがないこと、成智英雄警視が指摘した中佐はGHQの情報提供者としてパーカーを知る立場にあったことを指摘しました。
一方、帝銀事件の捜査主任検事であった高木弁護士は、見つかったGHQ機密文書は、捜査の一部分を明らかにしただけで、平沢が無罪である決定的な証拠ではないとコメントしています。
帝銀事件を扱った作品の一つとして、1961年に刊行された松本清張『小説帝銀事件』があります。松本清張は平沢冤罪の立場を採り、事件の概要や逮捕、捜査、推理について書き進めています。作中には松本の分身と思われる新聞記者が登場し、事件を推理します。真犯人は731部隊の元隊員とされています。
1964年には映画『帝銀事件 死刑囚』が公開されています。助監督、脚本家を務めていた熊井啓の監督デビュー作となりました。以降、熊井啓監督は社会派の監督として注目されるようになります。
熊井啓監督は、仙台市の宮城拘置所に平沢を訪ねるなど取材、考証を進め、平沢を無罪とし真犯人を設定しつつ、ドキュメンタリー・タッチで事件を描いています。
本作は、横田喜三郎最高裁判所長官が批判的なコメントをしたことが国会で取り上げられるなど、大きな話題を呼びました。
2009年には、テレビ朝日の開局50周年記念ドラマとして『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』が放送されました。二夜連続のドラマで、ギャラクシー賞2009年6月度月間賞を受賞しています。
本作は、1975年に刊行された佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛聞き書き』をドラマ化したもので、昭和の名刑事と言われた平塚八兵衛を主人公とし、渡辺謙が主演しました。
平塚が関わった事件の一つとして帝銀事件が取り上げられており、平沢貞通役を榎木孝明、平沢咲子役を木村多江、警視庁の名刺班班長役を浅野和之が演じています。
デイヴィッド・ピースは、主に犯罪小説を執筆しているイギリスの小説家です。1994年に日本に移住し、1999年に『1974 ジョーカー』で作家デビューしました。2009年の『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』は、2007年の『TOKYO YEAR ZERO』に続く、東京三部作の一つです。
『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』は、帝銀事件を扱い、芥川龍之介の『薮の中」をオマージュし、12の語りと12の物語で描いています。
2018年は帝銀事件70周年に当たり、平沢貞通の獄中画展が開催されました。平沢は逮捕前、広大な風景画を描くことが多くありましたが、獄中では画風は変化し、さまざまな絵を描いています。その数は五千点余りにも及びました。
その中の一つ、『獄窓の花』は、窓に填められた鉄格子の中にある真っ赤な彼岸花を描いたものです。花は鉄格子の手前側に描かれ、窓の外には希望とも思われる明るい光が拡がっています。
『獄窓の花』は当局により宅下げが許可されず、平沢が獄中死した後、遺族の下に送られました。
登戸研究所(第九陸軍技術研究所)は陸軍の研究所で、多くの秘密研究を行っていました。敗戦に伴って研究所は閉鎖されましたが、明治大学が跡地の一部を購入し、キャンパスを作りました。
2018年11月より明治大学平和教育登戸研究所資料館において、企画展「帝銀事件と陸軍登戸研究所」が開かれました。当初は2019年3月30日で終了の予定でしたが、5月11日まで会期が延長されています。
展示では、警視庁捜査一課の係長が残した『甲斐捜査手記』をもとに、警察の捜査が旧陸軍の毒物研究にどこまで迫っていたのか、犯行の毒物と登戸研究所の関係はどのようなものであったか、などが追及されています。展示と合わせて、講演会や講座、映画『帝銀事件 死刑囚』の上映会などが開催されました。
以上、帝銀事件について解説してきました。同事件は多くの関連書籍が出版され、映画やドラマなどの作品でも取り上げられてきました。企画展などのイベントも開かれ、現在でも多くの人の関心を惹き付けて止まない事件です。
毒物により12人が殺害されるという壮絶な事件にも関わらず、冤罪である可能性もあり、GHQによる捜査への介入によって、事件の完全な解明には謎が残るかたちになってしまっています。今後、果して事件の真相が解明される日はやってくるのでしょうか。
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