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    「拷問王」と呼ばれた警察官『紅林麻雄』の捜査方法とは?冤罪も?

    昭和の時代に、『拷問王』と呼ばれた警察官がいました。『拷問王』こと紅林麻雄の捜査方法とはどういったものなのでしょうか。彼の捜査には冤罪もあったというのは本当なのでしょうか。今回は、紅林麻雄について警察官としての仕事や最期までを見ていきたいと思います。

    紅林麻雄はどんな刑事?

    まずは、紅林麻雄がどういった刑事だったのかについて見ていきましょう。生い立ちや特徴などについてお伝えします。

    紅林麻雄とは誰?

    紅林麻雄は、刑事として昭和時代に活躍していました。また『拷問王』の異名を持っていたことでも知られます。なぜ『拷問王』と言われたのかは、後ほど解説します。

    紅林麻雄の生い立ち

    紅林麻雄については、1908年に静岡県藤枝市で生まれたことは分かっています。ただ、親などそれ以外の情報については不明です。プライベートについては、謎に包まれているでしょう。

    警部が最終階級

    紅林麻雄は静岡県警察部から国家地方警察静岡県本部に移り、最後には静岡県警に配属となっています。彼の最終階級は警部でした。

    冤罪が多かった

    紅林麻雄が担当した事件においては、冤罪を多く作ったということでも知られています。無実の人に罪を着せて、犯人に仕立て上げたのです。

    紅林麻雄の捜査方法はどうだった?

    次に、紅林麻雄の捜査方法について見ていきたいと思います。紅林麻雄はどういった方法で捜査をしていたのでしょうか。

    拷問や自白の強要

    紅林麻雄の取り調べは、暴力や拷問が当たり前となっていました。それはただ暴力を振るっただけでなく、殴る場合にも平手と拳で、20~30往復するほどの凄まじいものだったといいます。また、正座した上に乗り踏みつけることや、焼けた火箸を押し付けるといった手段もあったのです。

     

    また、白紙の調書を用いて供述を自作し、その供述を無理やり容疑者に認めさせていたともいわれています。そして紅林麻雄の捜査は、自身に植え付けられている先入観などで偏ったものでした。供述あるいは拷問で自身の都合の良い方向へと持っていき、無理矢理犯人にしていたのです。

    供述調書を捏造した

    紅林麻雄は、1950年に静岡県磐田郡二俣町で4人が殺害された「二俣事件」を捜査しました。ある少年が容疑者として浮かび上がります。しかしその少年にはアリバイがあり、犯人とするには無理があったのです。そこで紅林麻雄は、少年が当時公開中の映画を観たとしてシナリオを作ります。

    紅林麻雄は、少年が観た映画に登場したトリックを使い、アリバイ工作をしたとの自作のシナリオをもとに、少年のアリバイを否定しました。供述調書が紅林麻雄により捏造されたのです。

    別件逮捕して犯人に仕立て上げる

    紅林麻雄は、別件逮捕という捜査手法を採っていました。彼が担当した「幸浦事件」や「二俣事件」を含め、彼の部下たちが担当した「島田事件」では、別件逮捕をしてから拷問により自白を強要しています。例えば二俣事件では、当時18歳だった現場近くに住む少年が、容疑者として逮捕されました。

    犯行当時のアリバイが不明だということは犯行の証明にならないからと、窃盗被疑容疑として逮捕したのです。

    内部告発した刑事を偽証罪で逮捕した?

    紅林麻雄は、自身を内部告発した刑事を逮捕したという話があります。同じ警察の人間である身内を逮捕したとは、一体どういったことなのでしょうか。

    山崎兵八刑事が内部告発

    紅林麻雄の同僚捜査員であった山岡平八が、紅林麻雄が行った拷問や自白の強要などの数々を、読売新聞や当時の容疑者の担当弁護士に手紙を送り告発しました。刑事たちの話の中で、容疑者に死刑判決が出るかもしれないと聞き、無実の少年を救うために告発したのです。

    偽証罪で逮捕

    すると、偽証罪により山岡平八は逮捕されてしまいます。法廷において、山岡平八は少年の無実と紅林麻雄の捜査の行き過ぎを訴えました。しかし、精神異常の疑いにより名古屋拘置所において精神鑑定を受けることとなったのです。その後、山岡平八は妄想性痴呆症(現在の妄想型統合失調症)であると診断されてしまいました。

    不起訴となって保釈されましたが、辞職願を書かされて、7年間勤務した警察署を辞職に追い込まれます。それだけでなく、運転免許証までも取り消しとなりました。

    自宅が全焼

    警察を辞職することになった山岡平八は、収入が断たれた後に新聞や牛乳の配達で暮らしていました。しかし、5人も子供を抱えて生活が困窮し、親戚からも縁を切られたといいます。さらに、不審火により自宅が全焼してしまうという憂き目にまで遭ったのです。

    この不審火は、コタツの火の不始末とされ片付けられました。なお、この火事では山岡平八が集めていた事件の資料なども焼失しています。また、山岡平八の当時小6の次女と小3の次男が怪しい男を見たと証言したものの、警察に犯人として小3の次男が補導され尋問を受けました。

    結局は次男が放火したとの証拠も見つからず、次男は解放されています。

    紅林麻雄が真犯人から収賄を受けていた?

    山岡平八は、1997年に自費で「二俣事件」についての告発本を出版しています。この本では、紅林麻雄が真犯人と思しき人物との間で金銭の授受があったという、収賄の疑惑も暴露されているのです。

    紅林麻雄は『袴田事件』に関係している?

    『袴田事件』と呼ばれる有名になった事件がありました。数々の事件を担当した紅林麻雄ですが、『袴田事件』の捜査も関わっていたのでしょうか。

    『袴田事件』について

    『袴田事件』は、1966年に静岡県静岡市で発生した強盗殺人放火事件です。6月30日に、有限会社王こがね味噌橋本藤作商店の専務宅が放火され、焼け跡から専務ら4人の遺体が見つかりました。当時19歳だった長女は、別棟で寝ていたため1人だけ生き残ったといいます。

     

    この事件で、王こがね味噌の従業員であり元プロボクサーの袴田巌が8月に強盗殺人、放火、窃盗の容疑で逮捕されました。裁判の結果、1980年に袴田巌の死刑が確定しましたが、現在も裁判のやり直しが求められているのです。

     

    なお、袴田巌は2014年3月に45年ぶりに釈放されました。2021年現在で85歳となっており、2020年時点で静岡県浜松市へと戻り、姉と暮らしているといいます。

    紅林麻雄の退職後

    『袴田事件』が起きたのは1966年であり、その頃には既に紅林麻雄は警察を退職していました。そのため、紅林麻雄は『袴田事件』の捜査には関わっていません。

    捜査したのは部下たち

    『袴田事件』の捜査を行ったのは、紅林麻雄の捜査についての考え方および捜査方法を受け継いだ部下たちでした。よって、袴田巌への取り調べも過酷だった可能性があるでしょう。

    最長17時間の取り調べをした?

    事件の現場となった企業の従業員であり、元プロボクサーの袴田巌が逮捕されましたが、炎天下で12時間以上も取り調べを続けられたといいます。最長で17時間も取り調べが行われたのです。それは、袴田巌が『元プロボクサーだから』という理由からでした。

    紅林麻雄の最期はどうだった?

    紅林麻雄は既に亡くなっていますが、彼の最期はどの様なものだったのでしょうか。紅林麻雄の最期について迫ってみたいと思います。

    1963年7月に引退

    紅林麻雄は警部にまで昇進していましたが、捜査のやり方について批判に晒されて吉原警察署駅前派出所に左遷となりました。そして、2階級降格となり交通巡視員となります。それから、自らが担当した事件の被告人の無罪が確定した後の1963年7月に警察を退職しました。

    1963年9月死去

    警察を退職してから僅か2ヶ月後の、1963年9月に紅林麻雄は55歳という若さで亡くなりました。亡くなった日付については不明です。

    死因

    紅林麻雄の死因は脳出血でした。また、生前に彼が捜査で捏造や拷問を行ったことに関しては、最後まで裁かれることはなかったのです。

    紅林麻雄は神奈川県藤沢市の出身であることは分かっていますが、お墓がどこにあるのかは不明となっています。紅林麻雄がどこで眠っているのかは分からないのです。

    紅林麻雄の家族はどうなっている?

    紅林麻雄にも家族がいたものと考えられますが、その後、彼の家族はどうなったのでしょうか。紅林麻雄の家族についても探ってみたいと思います。

    紅林麻雄の家族

    紅林麻雄の家族については、情報がほとんどありません。それは、一般人であるという理由も考えられますし、ネット社会が普及するずいぶん前のことであるため、情報が残っていないという理由も考えられるでしょう。ただ、紅林麻雄は55歳まで生きていたため結婚をして家庭を持っていた可能性もあります。

    紅林麻雄に子孫はいるの?

    紅林麻雄に関しては、家族も不明であることもあり、子孫がいるのかどうかも分かっていません。紅林麻雄の子孫は、どこかで生きている可能性はあります。

    残った家族や子孫は苦難があった?

    もし紅林麻雄に家族や子孫がいたなら、茨の道を歩んだことも考えられます。家族は、拷問王と呼ばれた紅林麻雄の血縁者として、苦難が待ち受けていたことが推測されます。

    紅林麻雄は拷問や捏造などで捜査をしていた!

    紅林麻雄は名刑事として表彰もされていますが、その捜査手法は荒く、拷問や捏造まで行っていました。自身の手柄のために、無実の人にまで罪を被せて嘘の自供をさせたこともあります。これにより、紅林麻雄は多くの冤罪を出したとも言われているのです。

    警部にまでなりましたが、批判も起き、50代半ばで警察を去ることとなりました。紅林麻雄の捜査手法は、部下たちに受け継がれたともいいます。

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