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    戦後最大の経済事件と言われる「イトマン事件」の黒幕や真相とは?

    1990年代に発覚した戦後最大とされる経済事件の「イトマン事件」がありました。当時は大々的に報道されましたが、その真相や黒幕はどうなっているのでしょうか。そこで今回は、「イトマン事件」の真相や黒幕について分かりやすく解説していきたいと思います。

    「イトマン事件」の真実を分かりやすく解説!

    まずは、「イトマン事件」がどういった事件だったのか、その真実について分かりやすく解説いたします。「イトマン事件」はどの様な事件だったのでしょうか。

    伊藤萬株式会社を巡る事件

    「イトマン事件」とは、伊藤萬株式会社(現・イトマン)を巡る特別背任事件です。伊藤萬株式会社は、不況の煽りを受けて経営不振となりました。そして、多額の資金が流れ込み、その資金が反社会的勢力に流れたといいます。

     

    当時には、「イトマン事件」に関与したとされる主要人物は全員が逮捕され、裁判が開かれることになりました。また、黒幕には弁護士もいて大掛かりな冤罪事件であるともいわれています。

    伊藤萬株式会社とはどんな会社?

    伊藤萬株式会社は、1883年に大阪の心斎橋で設立した会社です。羽州屋高田久右衛門から暖簾分けをされた会社でもあります。当初は、「羽州屋(うしゅうや)」として舶来品(唐物)を取り扱う繊維商店として設立されました。一族経営であり、繊維商社を主として営んでいた会社です。

    1919年には、2代目の社長である伊藤萬助と弟の萬治郎が会社を拡大させ、「天下のイトマン」と言われたほどでした。東証1部や大証1部にも上場したことがある点も特徴です。

    不況の中での経営悪化

    1973年に起きたオイルショックにより、伊藤萬株式会社の経営は悪化していきました。そんな中、伊藤萬株式会社の社長としてメインバンクの住友銀行から河村良彦が送り込まれ、2年で黒字転換させたのです。

    「許永中」が黒幕?

    「イトマン事件」の黒幕は許永中(ホ・ヨンジュン)という人物であるとされています。当時、日本経済界のフィクサーともいわれていました。フィクサーとは、政治等における営利活動の決定に対し、正規の手続きを踏むことなく影響を与える手段もしくは人脈のある人物を指します。

    許永中は、自称経営コンサルタント・伊藤寿永光と共に伊藤萬株式会社へ呼び込まれました。それは、1985年のプラザ合意で急激に円高となったことを理由として、繊維不況により伊藤萬株式会社が再び経営が悪化しないようにするためです。

    住友銀行から多額融資を受けた!

    伊藤萬株式会社が再度経営不振に陥った時期はバブル全盛期でした。そのため、メインバンクであった住友銀行は積極的に融資を実施していました。それもあり、次期社長を送り込むことを目的として、多額の融資をしていたのです。

    絵画やゴルフ場に対する投資

    伊藤寿永光と許永中が、河村良彦社長に伊藤萬株式会社の経営を改善させるためとして、絵画やゴルフ場への投資を持ち掛けました。怪しい不動産取引や美術品、貴金属といったものの取引を積極的に行っていたのです。持ちかけた絵画の取引には、住友銀行社長だった磯田一郎の娘も関わっていたともいいます。

    また伊藤萬株式会社は、伊藤寿永光と許永中の提案により、不動産投資に対して1兆2000億円もの金額を費やしたのでした。

    山口組との関係や資金の流出

    伊藤萬株式会社に入った伊藤寿永光と許永中は、暴力団関係者とも関わりがあるとされています。山口組に所属していた、宅見勝と許永中に繋がりがあったというのです。伊藤寿永光らは、伊藤萬株式会社に住友銀行から多額の金額を流入させましたが、伊藤萬株式会社を介して、3,000億円もの資金が暴力団に流れたのでした。

    この「イトマン事件」により、山口組などの反社会的勢力は銀行口座を所持することが不可能となっています。

    「イトマン事件」に関係のあった人物とは誰?

    続いては、「イトマン事件」に関わった人物についてまとめてみましょう。「イトマン事件」にはどういった人達が関与していたのでしょうか。

    許永中

    先述もしている許永中(ホ・ヨンジュン)は、在日韓国人の実業家です。そして「イトマン事件」の首謀者ともいわれています。実業家としては、60社以上という会社の経営に携わっていました。身長が180センチあり、体重も100キロという体躯を持っていて、トレードマークはスキンヘッドであったといいます。

     

    また許永中は、実業家として活躍する中で、山口組の宅見勝(山口組の金庫番とも呼ばれる)と親交があったともされている人物です。

    伊藤寿永光

    住友銀行の磯田一郎会長から、常務として伊藤萬株式会社の経営に携わるように求められたのが、伊藤寿永光(すえみつ)でした。元は、株式会社協和総合開発研究所の社長をしていた経験もあります。

    河村良彦

    河村良彦は、住友銀行の常務を務めていました。1984年に伊藤萬株式会社が経営不振となった際に、同社の社長になることを要請され伊藤萬株式会社の社長となっています。また就任からわずか2年で経営を立て直したことから、高い評価を受けました。

    磯田一郎

    磯田一郎は、住友銀行の元頭取です。彼は、「イトマン事件」に関わった人物を伊藤萬株式会社に送り込んだとされています。当時は、“住友銀行中興の祖”あるいは“住友銀行の天皇”などと呼ばれていました。また、「イトマン事件」の真の黒幕は、磯田一郎だともいわれています。

    磯田園子

    磯田園子は、上述の磯田一郎の娘です。伊藤寿永光と許永中が伊藤萬株式会社に入り、経営を立て直すために絵画の購入を勧めた際に、関わっていたといわれています。伊藤萬株式会社と不透明な絵画取引を行い、利益を得ていたというのです。

    当時は絵画ブームだったこともあり、絵画を愛好する許永中に対し、絵画を多数売っていたともされています。

    「イトマン事件」の裁判はどうなった?

    「イトマン事件」に関わったとされる人物を挙げましたが、その後はどうなったのでしょうか。次に、「イトマン事件」の裁判について迫ってみたいと思います。

    背任容疑で6人が逮捕

    1991年に、「イトマン事件」に絡み背任容疑で大阪地方検察庁に17人が逮捕されました。逮捕された人物は、許永中や伊藤寿永光、伊藤萬株式会社社長・河村良彦らです。逮捕後の6人は、起訴されています。伊藤萬株式会社およびイトマンファイナンスを経由し、総額6,800億円が住友銀行の不良債権になったのです。

    許永中は懲役7年6月と罰金5億円

    許永中は、懲役7年6月および罰金5億円が言い渡されました。「イトマン事件」の黒幕とも言われていましたが、多額の保釈金を支払い、保釈中に韓国に逃亡してしまいました。この際には、保釈金だった現金3億円と弁護士の保証金3億円を没収すると決定し、弁護士団の弁護士は7人が全員辞めてしまっています。

    それから2年後に、東京のホテル・グランパシフィック・メリディアンで再度拘束され、黒羽刑務所で服役することとなりました。しかし、2012年には韓国で服役することが認められ、2013年に韓国でも仮釈放が認められています。

    伊藤寿永光に懲役10年

    伊藤萬株式会社の常務となっていた伊藤寿永光の判決は、懲役10年となりました。「イトマン事件」に関しては、既に刑期を終えているでしょう。ただ、その後には保釈・公判中だった2003年に「ケイ・ワン脱税事件」に絡んで、ケイ・ワンの社長だった石井和義に隠ぺい工作の手ほどきをしたとして逮捕されています。

    証拠隠滅罪であり、後に懲役1年6か月執行猶予3年の有罪判決が出ました。なお「ケイ・ワン」とは、格闘技であるK-1のイベントを主催する会社です。

    河村良彦に懲役7年

    住友銀行の元常務であり伊藤萬株式会社の社長となった河村良彦には、懲役7年の判決が下されました。許永中や伊藤寿永光より刑期は短くなっています。

    巨額資金は行方がわからない

    「イトマン事件」に関わった人物たちは裁かれました。許永中ら3人の刑が決定したため、「イトマン事件」も終わったものと考えられます。しかし、流出した多額の資金がどうなったのかは未だに不明です。

    國重惇史が内部告発した?

    「イトマン事件」は、國重惇史という人物により内部告発されたといいます。一体、どの様な告発が行われたのでしょうか。

    内部告発の文書が投書される

    「イトマン事件」が事件として明るみに出たのは、1990年5月14日付で内部告発文書が大蔵省(現・財務省)やマスコミに投書されたことが理由でした。この文書が投書されたことで、「イトマン事件」は取り沙汰されるようになったのです。

    元住友銀行取締役の國重惇史が告発

    「イトマン事件」の文書を投書して告発したのは、國重惇史でした。國重惇史は、元住友銀行取締役であり、楽天銀行の社長や副会長を経て、株式会社リミックスポイントの会長兼社長となった人物です。

    『住友銀行秘史』の著者

    國重惇史は、『住友銀行秘史』の著者でもあります。本書は、「イトマン事件」についても扱っている書籍です。また、「イトマン事件」を内部告発したのが國重惇史だと自身で綴っています。

    誰が「イトマン事件」をスクープした?

    「イトマン事件」は國重惇史の告発によりマスコミなどには知られることになりました。では、世間の人達が「イトマン事件」について知るようになったのは、何がきっかけだったのでしょうか。

    1991年元日に不正疑惑をスクープ!

    1991年の元日に、朝日新聞が『絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?』などの大見出しにより、絵画取引に関する不正疑惑をスクープしました。

    1990年に経営不案が報道されていた

    1990年5月24日には、日本経済新聞により伊藤萬株式会社の経営不安が報じてられていました。スクープの前年には、伊藤萬株式会社の経営が悪化していることが報道されていたのです。また1990年9月16日にも、伊藤萬株式会社に関する記事が日本経済新聞に掲載されています。

    『伊藤萬グループ不動産業などへの貸付金、1兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ』という記事であり、この記事でも伊藤萬株式会社の内部不正が明かされていました。

    國重惇史も報道に関与

    1990年5月の報道については、日本経済新聞の大塚将司記者が先述の國重惇史と協力していました。大塚将司記者が記事を書いて、國重惇史は告発文書を書いていたということです。

    「イトマン事件」は映画になっている?

    「イトマン事件」は大々的に報道されたため、映画などのテーマとされてもおかしくはないかもしれません。「イトマン事件」をテーマとした映画などは制作されているのでしょうか。

    映画にはなっていない

    「イトマン事件」は、映画などといった映像作品のテーマにはなっていません。しかし、上述の住友銀行秘史以外にも「イトマン事件」に関する書籍が出版されています。

    『海峡に立つ 泥と血の我が半生』

    許永中の著書『海峡に立つ 泥と血の我が半生』があります。この本は、許永中が「イトマン事件」から28年後に出版した自叙伝です。韓国での逃亡生活についても描かれているのが特徴です。

    『イトマン事件の深層』

    朝日新聞大阪社会部が、1992年6月に『イトマン事件の深層』を出版しています。この本では、「イトマン事件」で行われていた地上げおよび絵画の取引などについて記されているのです。

    資金の行方は未だ分からず

    伊藤萬株式会社において、住友銀行からの多額資金が反社会的勢力に流れる事件が起こりました。黒幕とされる許永中らは逮捕されましたが、現在は刑期も終えているとみられ、どこかで生きていると考えられます。しかし、「イトマン事件」で流れた資金がどうなったのかは、未だに不明のままです。

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