木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
まずは、鳴海清がどういった人物だったのかを見ていきたいと思います。鳴海清はどの様な人物だったのか、迫ってみましょう。
1975年から、山口組は二代目松田組と抗争を繰り広げていました。この抗争の最中に、松田組系の組織・大日本正義団の会長、吉田弘芳が亡くなったのです。その仇討ちとして、田岡一雄が狙われたのでした。田岡一雄を撃った銃弾は彼の首に命中しましたが、田岡一雄は一命をとりとめています。
鳴海清は二代目松田組系の大日本正義団の組員でした。役職にも就いていない一介の組員ではありましたが、抗争で亡くなった吉田弘芳への忠誠心から犯行に及んだと見られています。
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続いては、鳴海清の生い立ちについてご紹介します。鳴海清はどの様な過程を生きてきたことで、事件を起こす人物になったのでしょうか。
鳴海清は、1952年8月15日に大阪府大阪市西成区で生まれました。実家は大衆食堂を営んでいて、『なるみ』という労働者を対象とした店であったといいます。また鳴海清には4人の兄弟がいて、兄弟の真ん中として育ちました。
裕福というわけではなかったものの、貧乏とまではいかない家庭だったともいわれています。なお、通っていた小学校は新今宮小学校でした。
鳴海清は、中学生の頃に万引きで2度補導歴があるといいます。そして中学校を卒業してからは、東大阪にある印刷会社に勤務していました。この時代は、中学校を卒業して就職するケースも多くありました。多少は問題行動があったとみられるものの、一般的な少年であった模様です。
印刷会社に就職後は、真面目に勤務していました。しかし、17歳の頃に西成区にある飲食店において他のお客と口論になったのです。そして相手に暴行を加え、挙句には殺害してしまいました。傷害致死事件を起こしたことで、鳴海清は逮捕され少年院へと送致となりました。
彼は浪速少年院に、1年半ほど収監されています。
少年院を出所してから鳴海清は、土木作業員などをしていました。ところが賭場(賭博をする場)に入り浸るようになります。そして、裏社会との繋がりが増えていったのです。その後、19歳にして大日本正義団の組員となったのでした。
なお、鳴海清は少年院を出所後にある女性と結婚をしています。その頃、彼の実家は誰も住んでいない状態で、皆が家を離れてしまっていました。そのため、鳴海清は妻と共に実家の店舗『なるみ』を改装して、『御食事処なるみ』を始めたのです。
ただ、経営が上手くいかずに開店後2年ほどで閉店してしまいました。“カタギ”として過ごしていた時間もあったということです。
『ベラミ事件』を起こした鳴海清ですが、その後どうなったのでしょうか。鳴海清の事件後について迫ってみましょう。
『ベラミ事件』を起こしてから僅か3か月後の1978年9月17日に、鳴海清は神戸の六甲山山中の端宝寺谷で、腐乱死体となり発見されました。遺体はパジャマ姿で下着は身に着けていなかったといいます。また腐敗が進んでいたため身元を特定することも困難となったのです。
それでも、遺体の所持品および身体的な特徴から鳴海清だと断定されました。後には、鳴海清の妻からも本人であると確認されています。
遺体の特定には、刺青が決め手となっています。腐乱死体には、天女の刺青が背中一面に彫られていました。この刺青は、鳴海清が大日本正義団に入り極道になった頃に入れたものだったのです。腐乱状態だったため、天女の刺青は、赤外線を当ててやっとのことで確認できたといいます。
なお、この天女の刺青は、鳴海清が「娘に似ている」として誇りに思っていたものでした。「娘を背負っているようなもの」とも言っていたのです。しかし、彼は、その娘が生まれた半年ほど後に事件を起こしたのでした。
見つかった鳴海清の遺体は、腐敗していただけでなく大きく損傷していて刺し傷もありました。手や足の爪は剥がされ、歯も折られていて性器は切り取られていたといいます。これは亡くなる前に、凄惨な暴行を加えられたものとみられます。
警察は、ここまで惨い殺人を犯した人物の捜査に着手しました。
鳴海清を殺害した容疑者として、大日本正義団と同じ松田組の傘下である忠誠会の組員が5人逮捕されました。実は、『ベラミ事件』後に鳴海清は忠誠会に匿われていたといいます。しかし、山口組から襲撃されるのを恐れた組員らが、鳴海清を殺害して遺棄したのだと警察は発表しました。
鳴海清は忠誠会に匿われている間に、マスコミに山口組を揶揄するような内容の怪文書を送っていたのです。これにより、松田組傘下の組織に危害が加えられていて、松田組傘下の組の中には鳴海清に対して憎悪の念を抱く者も多かったのではないかとも推測されています。
鳴海清は、『ベラミ事件』を起こす前に妻たちに対して「俺が死んでも葬式はいらない」と言っていました。ただ、「その代わり会長(吉田前組長)の骨と荷物と一緒に、会長の墓に埋めてくれ」とも言っていたのです。鳴海清が、いかに吉田弘芳前会長を敬愛していたかがうかがえるでしょう。
鳴海清の関係者などは、その後どうなったのでしょうか。彼の関わった場所や関係者のその後について迫ってみましょう。
鳴海清が田岡一雄を襲撃した店舗のベラミは、事件後も営業を続けていました。襲撃された田岡一雄は、ベラミに対して『今後は一切暴力団関係者は近づけさせない』と約束をしたのです。しかし、1985年に店のママが病気で亡くなったため閉店してしまいました。
元ボクサーであり、現在は俳優として活躍している赤井英和は子供の頃、鳴海清に可愛がられていたといいます。実家が近所であり、通っていた学校も一緒だったのです。赤井英和が鳴海清について語ることはあまりありませんでした。
しかし、ボクシングの世界戦でタイトルを獲得した際に、「この勝利を鳴海清さんに伝えたい。尊敬している」とインタビューで語っていたのです。
鳴海清には妻の他に愛人もいたといいます。鳴海清の愛人だった女性が、梅川昭美の愛人となったという話があります。梅川昭美とは、1979年に起きた三菱重工銀行人質事件の犯人です。
衝撃的な事件などは、作品として描かれることがあるものです。『ベラミ事件』を起こした鳴海清も、複数の映画に登場しています。鳴海清は、どういった映画に登場するのでしょうか。
『ベラミ事件』がモチーフとなる映画『総長の首』が1979年に公開されました。主人公である八代順三を演じたのは、故菅原文太でした。
1991年公開の『獅子王たちの夏』や1993年の『獅子王たちの最后』も、鳴海清や『ベラミ事件』がテーマになっています。実際の出来事を作品にする際には、名称等を変えることも多いでしょう。この『獅子王たちの夏』等2作品は、脚本の段階では実名が書かれていたといいます。
的場浩司が演じた吉田修が、鳴海清になっていたのです。
井筒和幸監督がプロデュースした1982年の『TATTOO<刺青>あり』は、三菱銀行人質事件や梅川昭美がテーマになっています。しかし、前述の通りに同じ女性を愛人としていたこともあり、鳴海清も登場します。梅川昭美に当たる竹田明夫役は音楽家である宇崎竜童が演じましたが、演技が高評価を得ました。
鳴海清は今から40年以上も前に亡くなっていますが、今の世でもネット掲示板2ちゃんねるで鳴海清が話題として取り上げられています。どの様なスレッドが立ち上がっているのでしょうか。
かつて鳴海清が所属していた、『大日本正義団』について語るスレッドが存在します。『【大阪戦争】今こそ大日本正義団【鳴海清】』といいタイトルであり、話題の中には鳴海清の名前も登場しています。
鳴海清個人を語るスレッドもあります。『鳴海清はだれにけされたか!』とのタイトルで、鳴海清殺しの犯人について語っているのです。
また他の掲示板では、「鳴海清の生い立ちから亡くなるまでを知りたい!」というものもあります。鳴海清の、人生そのものにも興味を抱く方もいるということです。スレッドの中では、鳴海清について様々な情報が投稿されています。
事実なら異常性のあることと考えられますが、鳴海清の手首が死後にラーメンの素材として使われたという話がある模様です。その真相について迫ってみたいと思います。
鳴海清のいた関西ではなく東京の話ですが、東京でも暴力団抗争がありました。組長代行の座やラーメン店の縄張り争いを動機として、殺人事件が起きたのです。
殺害された遺体には手首がなかったといいます。そしてその手首は、ラーメンのスープの出汁として使われ、何とお客に提供されていたのです。
東京の暴力団抗争において、殺害された人物の手首が切り取られ、ラーメンの素材として使われました。しかし、鳴海清の手首がラーメンの素材として使われたという事実はありません。東京での事件と混同し、鳴海清も同じように手首を切り取られたのかと思った方がいた可能性もあるでしょう。
鳴海清は、26歳にして『ベラミ事件』を起こしました。その頃には既に妻子がいたといいます。しかし、鳴海清は事件後しばらくして殺害されてしまったのです。殺害したのは、鳴海清の属する組織の系列組織のメンバーでした。鳴海清は“厄介払い”のような形で殺害されてしまったのです。
慕う会長への忠義のために事件を起こした鳴海清は、後にいくつもの映画で取り上げられています。
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1978年7月11日に、京都にあったナイトクラブ・ベラミにおいて山口組三代目組長の田岡一雄が襲撃されました。鳴海清は当事件の犯人とされていて、当時は26歳でした。