木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
まずは、吉里弘太郎がどの様な人物なのかについて、迫ってみたいと思います。吉里弘太郎はどういった人物なのでしょうか。
吉里弘太郎は1974年生まれだという話があります。また、3人兄弟の中間子として育ちました。両親や兄弟については、後ほど詳しくお伝えします。
なんと、吉里弘太郎は既に死亡しています。事件後の逮捕される直前に自殺してしまったのです。現在も生きていたなら、47歳程度になっていたと考えられるでしょう。自殺の詳細についても、後述いたします。
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次に、吉里弘太郎の生い立ちについてスポットを当ててみたいと思います。吉里弘太郎はどういった生い立ちで、どの様に生きてきたのでしょうか。
吉里弘太郎の育った家は、決して貧しかったというわけではないと見られています。比較的裕福な家庭で生まれ育ったとされているのです。
吉里弘太郎は東京芸術大学を卒業後にデザイナーとして働いていたという情報があります。18歳頃から一人暮らしをするようになり、大学時代にはヒモのような生活をしていたともされています。
いつの頃にやっていたという時期は不明ですが、吉里弘太郎はホストもしていました。そうした経験があったからか、風俗経営もするようになったと考えられるでしょう。彼は、預金口座に35億円があり2,500万円するフェラーリを始め高級車に何台も乗るという、羽振りの良さがあったというのです。
次に、吉里弘太郎の家族についてご紹介します。吉里弘太郎の育った家庭は、どういった状況だったのでしょうか。壮絶な環境について、見ていきましょう。
吉里弘太郎の父親は、1996年に自殺しています。吉里弘太郎が22歳程度の時でした。父親は朝日新聞西部本社社会部長・警察庁キャップを務めるほどであったとされています。しかし1993年に頭頸部ジストニアを患い、そのことを苦にしてなのか自殺をしたのです。
吉里弘太郎の母親は、沖縄の出身だという話があります。2001年に自殺未遂をしたとされているものの、その後の消息は途絶えています。
吉里弘太郎には兄と弟がいます。兄は、父親が自殺した後に後追い自殺をしたとされています。弟に関しては精神病を患っているという噂があり、病院に入院しているとされています。ただ、現在は弟がどうしているのか不明です。
ここで、事件の舞台となった『プチエンジェル』がどういった実態だったのかについて、見ていきましょう。『プチエンジェル』はどの様な店舗だったのでしょうか。
『プチエンジェル』は、無店舗型の児童買春デートクラブでした。デートクラブとは、男女を引き合わせるための仲介所です。女性側が店に登録をして、男性とのセッティングをしてもらうシステムとなっています。デートクラブを利用する男性は、ステータスの高い人が多いとされています。
吉里弘太郎は、デートクラブ『プチエンジェル』の経営をしていたのです。
前述の通りに、『プチエンジェル』などのデートクラブは、高いステータスを持った顧客が利用する場です。そのため、『プチエンジェル』の顧客も政治家や皇室の人物、警察官などがいたとされています。
『プチエンジェル』は会員制デートクラブであり、ステータスの高い男性が支払える額ということで、高額になっていました。『プチエンジェル』は、それなりの地位になければ入会すること自体ができないことが分かります。
『プチエンジェル』に在籍している女性は小学生から高校生までの少女たちだったといいます。その中でも、小学5年生から中学1年生までが人気となっていたのです。小学生を勧誘すれば3万円をもらうことができ、中学生や高校生なら1万円をもらうことができたとされています。
『プチエンジェル』の勧誘には、チラシが使われていました。「カラオケ5000円、下着提供10000円、裸体撮影10000円」と書かれたチラシを作成して、勧誘をしていたといいます。
続いて、『プチエンジェル事件』の概要について見ていきたいと思います。『プチエンジェル事件』とはどういった事件だったのでしょうか。
小学生の女子児童が『プチエンジェル事件』の被害者となりました。2003年7月13日に、東京都赤坂にあるウィークリーマンションの一室に、当時小学6年生だった4人の少女たちが誘拐のうえに監禁されたのです。誘拐された際には、少女たちは『部屋を掃除して欲しい』と言われ、連れていかれたとされています。
被害者のうち2人の少女が逃亡しようとしましたが、失敗をしてしまいました。犯人には、スタンガンなどで脅されたといいます。
少女たちの家族は、少女たちが帰宅しないことを不審に思いました。そして、深夜になり警察に捜索願を提出しました。
監禁から3日後の7月16日になり、吉里弘太郎に対して逮捕状が請求されました。それから、現場となったマンションの周辺において、聞き込み捜査が始まりました。
7月17日に、被害者たちは警察に無事保護されました。この事件を受けて、渋谷において一斉補導が行われ、1500名もの少年少女が補導されています。
犯人である吉里弘太郎が、その後にどうなったのか気になるところでしょう。吉里弘太郎の末路について見ていきます。
吉里弘太郎は、事件後既に自殺しています。逮捕直前の朝9時頃に、マンションのリビングにビニールテントを張り、練炭で自殺を図ったのです。吉里弘太郎は、それにより死亡しました。
メディアの見方では、吉里弘太郎の自殺手段ではビニール袋が溶けてしまい、死ぬことは不可能だったのではないかとも見られています。そのため、吉里弘太郎の死には疑問が残りました。また、司法解剖もされなかったのです。
吉里弘太郎は、関東連合(かつて存在した暴走族)と関わりがあるとの噂もありました。それだけでなく、プチエンジェルの顧客リストが関東連合に流れている、黒幕は関東連合なのではないかという噂までネット上で流れました。
事件が発生すると、しばらくの間は新しい情報などを交えてテレビなどでも報道されることがあります。では、『プチエンジェル事件』に関しての報道はどうだったのでしょうか。
プチエンジェルの顧客リストが、捜査の段階で紛失したことが分かっています。何かの理由により、意図的に顧客リストを紛失したのではないかとも言われています。
ある時を境にして、報道機関が一斉に『プチエンジェル事件』について報道をしなくなりました。また、この事件は赤坂にあるマンションで起こったものですが、渋谷での事件としての報道に切り替えられていたのです。
『プチエンジェル事件』のその後はどの様になっているのでしょうか。被害に遭った少女たちのその後などについて、迫ってみたいと思います。
ジャーナリストかつフリーライターの染谷悟が、『プチエンジェル事件』を追っていました。しかし彼は、東京湾から死体となって見つかりました。何者かに殺害された可能性がありますが、『プチエンジェル事件』との関連性は分かっていません。
被害者となった4人の少女については、消息は不明となっています。事件当時小学6年生だったことから、成人しアラサー世代になっているものと考えられるでしょう。
吉里弘太郎の生い立ちは、父親の自死から始まり兄の後追いなどがあり凄まじいものでした。吉里弘太郎本人も、アトピー性皮膚炎に悩み『死にたい』と漏らしていたとされています。『プチエンジェル事件』では複数の少女が被害に遭い、心身に傷を負ってしまいました。
しかし犯人とされる吉里弘太郎は、容疑者とされながらも逮捕されることなく練炭自殺を遂げたのです。そのため、裁かれることもありませんでした。少女たちに傷が残っただけとなりました。
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吉里弘太郎は、2003年に起きた『プチエンジェル事件』の主犯であるとされています。また吉里弘太郎は、過去にも逮捕歴があり『プチエンジェル事件』が起きた際には他の事件の執行猶予中でした。