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    プチエンジェル事件の真相は?顧客名簿や犯人に隠された闇とは?

    2003年に起きたプチエンジェル事件、被害者が小学生であること、犯人の吉里弘太郎が謎を残し自殺したことで話題になりました。プチエンジェル事件の報道や捜査が突然打ち切りになり、日本の闇を垣間見たという声も多いです。売春の実態から、顧客名簿の存在まで調査しました。

    プチエンジェル事件とは?

    プチエンジェル事件をご存知でしょうか?2003年7月13日に起きた、女子小学生4名の誘拐・監禁事件です。事件発生から犯人の自殺、被害者児童達の供述の食い違い、報道の偏向、そしてその事件を追いかけたフリージャーナリストの殺害など、多くの謎を残す事件となりました。

    まるで事件の全てが、予め用意されていたシナリオのような事件となっています。不可解な事件であるプチエンジェル事件を、振り返り紐解いてみます。

    プチエンジェル事件

    1990年代に入ると、ブルセラや援交という言葉が認知される事件が次々と起こり、女子高生を中心とした未成年者の売春が社会問題となりました。1990年代前半には、ダイヤルQ2にて女子高生をデートクラブで働かせていた組織が摘発されたこともあり、社会に大きな衝撃を与えたました。

    その中でも、プチエンジェル事件を思い出す人もいるでしょう。この事件は、女子中高生の売春斡旋をしていた会社「プチエンジェル」を運営していた男・吉里弘太郎が誘拐・監禁事件を起こした為、プチエンジェル事件といわれるようになりました。

    プチエンジェルとは、ロリコンデートクラブとなります。当時プチエンジェルでは、少女たちに「カラオケ5000円・下着提供10000円・裸体撮影10000円」でバイト代を支払い、売春斡旋をしていました。更に一部の少女たちには、性的行為を行なわせることもあったのです。

    プチエンジェル事件の被害者

    プチエンジェルでは、女子高生の売春斡旋を主体としていました。新宿の歌舞伎町や渋谷で、たむろしている女子高生達や家出少女に「安全な高額バイト」と銘打ち、売春斡旋を行っていました。また家に帰りたくない少女たちには住む場所を与え、売春宿のような経営もしていたのです。

    しかし、なぜプチエンジェル事件の被害者が、女子中高生ではなく女子小学生だったのか調べてみました。

    プチエンジェルのスカウトシステム

    プチエンジェルでは、売春を行う女の子達をどのように集めていたのでしょうか。「安全な高額バイト」と書かれたビラを作成し、電話ボックスなど家出少女の目につきやすい場所に張ったり、歌舞伎町や渋谷でたむろする少女たちにビラを配り宣伝をしていました。

    しかし、実際に少女たちを集めていた方法は、少女同志によるスカウトです。スカウトを行い、吉里弘太郎に紹介すると紹介料が貰えていました。知らない大人から声を掛けられると警戒しますが、同じ世代の女の子に声を掛けられると、警戒心が無くなります。上手く、組織の巨大化に成功していきました。

    年齢は低ければ低い程、高額の紹介料金を受け取ることができました。紹介料は、女子中高生(中学2年生から高校3年生)は1万円、それ以下の年齢(小学5年生・6年生・中学1年生)であれば3万円と高額になっていました。また容姿が良い女の子のみに、厳選されていました。

    被害者は小学6年生の少女4人

    被害者は、当時小学校6年生の少女たち4名でした。その中の1人の少女が2003年7月初旬に渋谷に遊びに行った際、二人の女子高校生から「プチエンジェル」を紹介されました。この女子高校生達はプチエンジェルに在籍し、スカウト業務も行っていました。

    この日のうちに、少女は吉里弘太郎と接触しました。その時に「会ってくれたお礼」として、吉里弘太郎は少女に対して1万円を渡しており、「またおいで」と優しい言葉をかけています。小学生にとっては、かなり高額なお小遣いを簡単に手にしたことになります。

    少女は吉里弘太郎と携帯電話の番号を交換しており、何度か連絡を取っていました。事件発生までの間に、再度接触していたのかは不明です。2003年7月13日、少女が同じ小学校に通う同級生の少女3名を連れて渋谷に行き、吉里弘太郎と接触しました。これが、事件の始まりです。

    プチエンジェル事件の犯人「吉里弘太郎」はどんな人物?

    プチエンジェル事件を起こした犯人である「吉里弘太郎」とは、どんな人物だったのでしょうか。吉里弘太郎の生い立ちや、家庭環境、どんな人生を歩めば女子児童をターゲットとしたプチエンジェル事件を起こす人間となるのか、経歴から調べてみました。

    吉里弘太郎のプロフィール

    吉里弘太郎容疑者は、プチエンジェル事件犯行時29歳でした。母親は沖縄県出身。父親は、元朝日新聞の西部本社・社会部長で、警視庁のキャップも務めた経歴があります。吉里弘太郎は裕福な家庭に育っており、判っているだけでも兄と弟がいます。

    吉里弘太郎は、元々は東京芸術大学出身のデザイナーでした。また、ニューヨークやパリなどに遊学していたこともあり、外国人との交流が広くありました。大学生の時にはヒモのような生活を送っていたり、2年間ホストクラブで働いた経験があるなど、魅力的な容姿でした。

    しかし、吉里弘太郎の女性に対する興味は、未成年者である少女達に向けられていました。実際にロリコンデートクラブに、頻繁に出入りしていたことが判明しています。実際には、吉里弘太郎がロリコン趣味だったのか、ペドフィリアだったのかは謎のままです。

    吉里弘太郎の家族は自殺している

    吉里弘太郎の父親は、出世コースを歩むキャリア組でしたが、1993年に指定難病である頭頸部ジストニアを発症しました。これを機に、一線を退くこととなり1996年に自殺しました。自殺の原因については、さまざまな憶測がありますが事実は公表されていません。

    負の連鎖が始まるように、1999年に兄も自殺にて亡くなりました。更に、母親も2001年に自殺未遂を図ります。弟も、精神不安定な状態となり精神病院に入院していたとの情報もありました。吉里弘太郎自身も、重いアトピー性皮膚炎を患っており、周囲の人達に自殺をほのめかす話をしていました。

    吉里弘太郎の前科

    吉里弘太郎は、プチエンジェル事件の前にも犯罪を起こしていました。初犯は、2001年4月に違法ロリータビデオ販売で逮捕、書類送検され執行猶予を受けました。

    執行猶予期間中である2002年3月に、女子中学2年生を6万円で売春した容疑で指名手配されます。当時、吉里弘太郎は、住民票を登録していた埼玉県久喜市のアパートには住んではおらず、都内のホテルを転々とする生活を送っており、足取りが掴めずにいたのです。

    プチエンジェル事件の詳細

    プチエンジェル事件は、吉里弘太郎が犯人とされています。しかし、吉里弘太郎は女子児童を監禁していた部屋で、練炭自殺を図りました。事件の真相は語られることはなく、被疑者死亡にて事件は幕を閉じました。

    プチエンジェル事件は、あまりにも不可解な点の多さや、捜査のずさんさが目立ち、真相が解明されてない点が多くあります。現在でも、恐ろしい未解決事件といわれています。プチエンジェル事件の経緯を、改めて辿っていきます。

    事件の発端

    2003年7月上旬に、1人の小学6年生の少女が渋谷で女子高生に声をかけられ、プチエンジェルの運営者である吉里弘太郎を紹介されました。その日に、謝礼として1万円を渡しており、少女が持っていた携帯電話の番号を交換します。

    一度目の接触から度々連絡を取り合っており、少女は吉里弘太郎に部屋の掃除のアルバイトを持ち掛けられます。7月13日に少女は、同じ小学校に通う同級生の少女たち3名を誘い、待ち合わせ場所である渋谷に向かいます。吉里弘太郎とは、渋谷の高級ホテルで接触しました。

    掃除をする部屋に案内するとし、渋谷のモヤイ像の前よりタクシー2台に分かれ、赤坂にある短期賃貸マンションに移動しました。1台目のタクシーに吉里弘太郎と少女たち2名が乗車、2台目に「ヤマザキ」と名乗る男性と残りの少女たち2名が乗車しました。

    吉里弘太郎が小学生少女4人を監禁

    赤坂にある短期賃貸マンション「インターナショナルプラザ赤坂No.1」の11階の1101号室が、監禁場所となりました。部屋の間取りは、2LDKです。この部屋に、入った途端に「ここに来た意味が分かるよね?」と言われ、少女たちは全員おもちゃの手錠とアイマスクを着けられ拘束されます。

    手錠を掛けられる際に、抵抗した2名の少女はスタンガンを当てられ負傷しました。抵抗した少女たちは、20リットルのポリタンクや鉄アレイで重しを付けられ、脱衣所に監禁されました。他2名は、それぞれ別の部屋に監禁され、ベッドに繋がれていました。常に吉里弘太郎は、リビングで監視していました。

    この部屋には、吉里弘太郎と一緒に少女たちを部屋に案内した「ヤマザキ」と名乗る男性と、女性の出入りがあったことが分かっていますが、この男女の所在が不明であり、吉里弘太郎の単独犯だったと断定されました。

    少女の保護者が捜索願を出す

    誘拐・監禁された少女たちの保護者が捜索願を出したのは、当日の7月13日の深夜でした。被害者が未成年であった為、捜査はかなり慎重に行われます。被害者宅に出入りする捜査員の人数も、極少人数と制限されました。

    最初に吉里弘太郎と接触した少女が、渋谷に行ったことは判明していました。また、少女の部屋を捜索した際に、プチエンジェルのビラが発見されており、以前より保護者の間でもプチエンジェルの存在は把握されていたことが分かりました。これで、一気に吉里弘太郎の容疑が浮上することとなります。

    マスコミの報道が開始

    公開捜査に踏み切ったのは、16日の未明となっています。児童買春が絡んでいた事実は、既に警察側は掴んでおり、売春斡旋を行っていたのが吉里弘太郎であり、誘拐したのも吉里弘太郎である可能性についても、確信をもっていたのでしょう。

    しかし、捜索願が出されてから公開捜査に至るまでの間、大きくタイムロスをしており、バッシングを受けることとなります。児童誘拐事件において、タイムリミットは72時間とされており、少女たちの生存は絶望的ともされていました。

    報道についても、配慮を求めるよう警察側からの指示があったとされています。児童買春が絡んでいるということは、性犯罪に巻き込まれている可能性が高いことから、少女たちの実名や写真の公開はされていませんでした。

    風俗店への電話

    吉里弘太郎は、7月16日の午前11時頃、都内の風俗店に女性の派遣を依頼する電話を入れています。「性交をしているところを少女たちに見せたい」という内容だった為、店長は断ります。しかし、以降もしつこく電話が入ります。

    「自慰行為を見せるだけでもいい」「店長が彼女と来てくれ」など、異様な要求の電話が閉店まで続きました。対応していた店長は、吉里弘太郎が「今日しかない」との発言をしたことを覚えていました。

    恐らく、公開捜査になったことで自身が逮捕されるか、もしくは他に、何か恐ろしいことが待っている可能性を理解していたのかもしれません。

    吉里弘太郎が練炭自殺

    吉里弘太郎は、自首することもなく自殺を図ることとなりました。自殺場所は、監禁していた部屋のリビングとされています。自殺の方法は、練炭自殺と見られています。しかし、真実は公表されていません。

    椅子を中心に置き、ビニールをテント状に張り、厳重に目張りを行った上で、練炭を焚いていたそうです。発見された時には、本人はビニール内の椅子の下に倒れていたとの報道がありました。その一方で、顔にのみビニールを被っていた、練炭はベッドの下に置いてあった等、報道が錯誤してました。

    実際に、練炭をビニールテントの中で焚くと1000度を越えてしまい、ビニールが解けて密室は作れません。また、1000度の中では、人間の皮膚は焼けただれ、火傷と強い臭いが発生します。1000度の高温の中で、意識がある人間は耐え切ることはできない為、既に意識が無かった可能性が高いと言えます。

    被害者4人を保護し事情聴取を開始

    7月17日に、少女の1人が吉里弘太郎の気配がせず、生活音がしなくなったことから、吉里弘太郎が部屋に居ないと判断し、部屋から脱出します。この少女は、自身の手錠は外すことができましたが、他の少女たちの手錠は外せなかった為、助けを求めて裸足で部屋から逃げ出しました。

    監禁されていたマンションを出て、通りを挟んで向かい側の生花店に助けを求めに入りました。そこの店員が警察に連絡をし、少女たち全員を無事に保護しました。少女たちは衰弱しており、中には自分の名前も言えない程、怯えた精神状態だった子供もいました。

    少女たちが保護された時点で、リビングで死亡している吉里弘太郎も発見されました。死後、数十時間が経過していました。この時点で、この事件を知る人物が監禁されていた少女たちのみとなります。少女たちに、事情聴取が開始されます。

    偏向報道と突然の報道、捜査打ち切り

    このプチエンジェル事件の報道も、不可解な点が多くありました。その背景には、警察の発表内容が次々と変わったことが大きな原因になっています。重要な事柄について、警察側から積極的な発表がなく、報道陣の指摘を受けてから、後を追うかたちで発表を行っていたことです。

    突然捜査打ち切りとなり、報道もパタリとなくなりました。恐らく、未成年者が関わった事件だった為、プライバシーの保護が目的だったと考えられます。犯人とされる吉里弘太郎が自殺し、被疑者死亡で事件は終了しました。自殺と断定するには謎な点が多いながら、司法解剖は行われませんでした。

    吉里弘太郎の犯行前の行動

    吉里弘太郎が、プチエンジェル事件を起こすにあたり、入念な下準備をしていたことが判明しています。併せて、不可解な行動も起こしていました。自殺を事前に決めていたように、練炭や七輪の購入も行っていたことが分かっています。吉里弘太郎が、プチエンジェル事件の直前に起こした行動を辿ります。

    犯行の準備

    2003年の7月上旬に、少女の1人と知り合いになった後から、不自然な行動を起こします。7月11日に、吉里弘太郎の愛車であるシルバーのフェラーリ2台を売却し、2500万円を手にしています。また、同日に監禁場所となる短期賃貸マンションの契約が行われており、契約者は「ヤマザキ」という男性でした。

    7月12日には、都内でポリタンク・鉄アレイ・七輪・練炭を購入しています。この時点で、自殺を考えていたのでしょうか。そして7月13日に、少女たちを誘い出し、誘拐・監禁事件に及ぶこととなります。

    ここまでの経緯を見ると、用意周到で計画的な犯行と捉えられます。少女たちにを誘拐・監禁した理由についても明らかにならず謎です。また七輪や練炭の購入についても、自殺目的での購入だったのかは謎なままです。

    プチエンジェルとは?

    では実際にプチエンジェル事件の発端となったプチエンジェルとは、どのような商売だったのでしょうか。少女たちに対して、高額のアルバイト代を支払いながら経営ができたカラクリや、プチエンジェル事件の発端となった「デートクラブ」に関して調べてみました。

    「プチエンジェル」はロリータクラブ

    プチエンジェルとは、ローティーン専門としたデートクラブになります。女子小学生から女子高校生を好む男性が利用します。恋愛対象か性的嗜好かは各々ですが、日本人の場合には、性的嗜好が強いとされています。大変需要が多いのに対して、供給側が追いつかないことも特徴的です。

    ロリコン専門の売春では、供給側が少ないことから、お金を持っている男性の趣味やステータスともされています。プチエンジェルでも、高額の登録料金と月会費が必要とされていました。その為、顧客リストには医者・弁護士・政治家・官僚などの名前が並び、2000名もの記載があったといわれています。

    また、ロリコン趣味の男性の大半は小学生くらいの年齢層を求める人が多く、希少価値の高さから小学生の斡旋に関しては、更に高額な値段で取引されていたようです。それを物語るように、吉里弘太郎名義の口座には、35億円にもなる預金残高が残されていました。

    未成年者のいる風俗店

    プチエンジェルは、未成年とデートができるという風俗店になります。デートクラブとして、プチエンジェル以外にも同じような業者が多くありました。現在も、デートクラブは残っています。しかし、未成年とデートをするだけでは罪に問われません。その先に、性的行為があったのかが問題点となります。

    プチエンジェルの配布していたビラにも、カラオケは5000円と一番低く、下着提供や裸体撮影については1万円と紹介されていました。それとは別に、スカウト料金が定められており、小学生を紹介すれば3万円を貰えるようになっていたのです。この組織の巨大化は、少女たちによって行われていきました。

    しかし、これ以外のサービスの他に、性行為もありました。性行為において、吉里弘太郎の取り分は決まっており、女子中高生の場合には1万円、女子小学生の場合には3万円を取り、残りを渡していました。若ければ若い程、吉里弘太郎にとって、お金になるシステムだったのです。

    プチエンジェル事件は偏向報道された?

    プチエンジェル事件では、偏向報道がされたと言われています。

    偏向報道とは、力のある組織や団体から圧力をかけられて、事実とは異なる報道がされることを指します。なぜ、プチエンジェル事件に関して、偏向報道とみなされた内容とは、どのようなものだったのでしょうか。また、なぜ偏向報道を余儀なくされたのかを調べてみました。

    偏向報道とみなされた内容

    まずは、誘拐された少女たちの保護者から7月13日の深夜に捜索願が出されていながら、公開捜査が行われたのは7月15日未明でした。謎のタイムロスが発生しています。この間に、警察内部の人間が吉里弘太郎の殺害を示唆したとも噂されています。

    また用意していたように、吉里弘太郎に2002年3月に起こした児童買春の容疑で逮捕状を請求しました。この時点で、吉里弘太郎の事件への関与に対し、確実な裏付けが取れていたと思われます。しかし、監禁場所の周辺で聞き込みをしていたとされながら、少女たちの発見にまで至っていませんでした。

    少女たちについても、手錠をはめられ終始監禁されていたと証言していましたが、吉里弘太郎の代わりに、郵便局のATMでお金を降ろしたり、助けてもらった生花店にも保護前に一度立ち寄っていたとの証言もあります。実際には、拘束されておらずに自由が設けられていた児童もいたようです。

    警察においても、女子児童に使用したスタンガンの有無について、報道陣から質問があり、翌日にはスタンガンが発見されたと発表したり、押収した顧客リストには多くの著名人が記載されていたと公表しながら、名簿の内容は全て偽名だったとして捜査が打ち切られました。

    プチエンジェル事件の報道は突然パタリとなくなった

    被害者が未成年者であることと、性犯罪に巻き込まれている可能性もあった為、捜査・報道と慎重にならざるを得ませんでした。しかし、突然の捜査の打ち切りや、報道がパタリとなくなったことに、多くの国民が警察や報道機関に対して、不信感を募らせました。

    この少女たちが赤坂のマンションに連れて来られた時に、一緒に児童をタクシーで送った男性と、マンションに出入りしていた女性については、しっかりと捜査はされずに、身元不明のままです。一部では、この男が警察官僚の息子だったともいわれていました。

    また、吉里弘太郎の35億円という多額の預金残高についても、売春斡旋のみで稼げる金額ではありません。大変権力のある裏の人物と繋がりがあり、吉里弘太郎は自殺と見せかけて殺されたとの噂もあります。何か大きな力が働き、報道にストップがかかったことは間違いないでしょう。

    「プチエンジェル事件」の名簿・顧客リストがやばいと言われている?

    では、プチエンジェル事件で明るみとなった名簿や顧客リストには、何が記載されていたのでしょうか。多額の登録料や月額料を支払うことができ、社会的に地位が高い人間達がプチエンジェルの顧客リストに記載されていたと見られています。プチエンジェル事件についても、重要な鍵となる名簿や顧客リストについて調べてみました。

    事件後に顧客名簿が消えていた

    事件発生後に、プチエンジェルの顧客リストの存在が明らかになっていました。その名簿には、約2000名もの顧客リストが記載されていたといわれています。顧客リストについて捜査関係者からは、名簿には有名な医者・弁護士・官僚・政治家・芸能関係者が多く記載があったとの情報もありました。

    しかし、しばらくして顧客リストが消えます。約2000名から記載されていた名簿の紛失の真相については、警察は濁したままです。埼玉県久喜市の自宅から押収されたロリータビデオの顧客リストについては、存在が認められています。

    しかしながら、顧客リストに記載されていた名前は全て偽名であり、誰一人としてビデオの購入や売春の事実確認を取ることができなかったと発表されています。名簿に記載されていた名前が、全て嘘だったというのは疑わしくあります。

    プチエンジェル事件と芸能界

    プチエンジェルの顧客リストの中には、有名芸能プロデューサーの名前が存在していたことも噂されていました。彼がロリコン趣味なのは、業界でも有名な話です。実際に、現在でも第一線でプロデュース業を行っており、多くの女性アイドルグループを手掛けています。

    被害者の少女たちのうち1人が、そのアイドルグループに所属するため、芸能界に入ったことが噂されました。実際に、芸能人御用達の飲食店で、プロデューサーと一緒に食事をしていたとの情報もありましたが、現在は芸能界から身を引いているようです。

    プチエンジェル事件の顧客リストには天皇家も?

    プチエンジェルの顧客リストを世の中に出すことができない本当の理由は、絶対に知られてはならない人物の名前が書かれていたからと言われています。その名前が、次期天皇陛下となる徳仁皇太子でした。

    勿論、そのような事実が確認されている訳ではありません。しかし、あまりにも顧客リストが公にならずに、名簿自体を闇に葬るような対応が、様々な憶測を生むことになったことが大きな理由ではないでしょうか。

    事件を追っていたフリーライター「染谷悟」が殺害される

    プチエンジェル事件を、更に不可解な事件であると印象付けたのが、プチエンジェル事件を追いかけていたフリーライターの殺害事件でした。その殺害方法が、あまりにも残忍であったことから、プチエンジェル事件の真の恐ろしさを、世の中が理解する事件になったのです。

    染谷悟の経歴

    染谷悟さんは、1991年にフリーライターの仕事を開始し、1995年にはペンネーム「柏原蔵書」として執筆活動を行っています。執筆内容は、アンダーグラウンドな世界を中心としており、主に「裏ブブカ」を中心に記事を書いていたようです。

    アンダーグラウンドな世界とは、裏社会のことで、暴力団・薬物・人身売買・臓器売買など、かなり危ないジャンルに、深いところまで取材をしていたことも分かっています。

    染谷悟はどのような人物だったか

    かなり危ない世界を取材していた染谷悟さんの記事は、内容にとても臨場感があると人気でした。しかし、それだけ裏社会の人達との繋がりも深くなり、記事にした内容について揉め事が起こることも度々ありました。

    また、染谷悟さんは金銭的にルーズだったようで、半グレから借金をしたり、自身のアパートの家賃を何カ月も滞納し、家財道具をの残したまま逃げてしまいました。滞納分の家賃については、保証人が支払いを行っています。

    また、2002年には染谷悟さんの留守中に空き巣に入られます。盗まれたものは、染谷悟さんの取材道具であるパソコンやカメラなど77点にもなりました。

    染谷悟と関わりのあった人物の話

    染谷悟さんは、裏社会の人達との繋がりの中で様々な情報を得ていきます。2003年7月には、自身の取材記である「歌舞伎町アンダーグラウンド」が刊行されています。タイトル通り、内容もかなりハードになっていました。

    この次に取材対象としていたのが、未成年者の売春斡旋を行っていたプチエンジェルだったと言われていました。当時、記者仲間や周囲の人達に「中国マフィアの尻尾を踏んだ」「児童売買のネタに当たった」と話していたことが分かっています。

    しかし、次第に身の回りで不可解なことが起こり始めます。実際に、自宅に空き巣に入られた以外にも、ベランダを壊された、窓ガラスを割られた、玄関のドアを壊されるなど、身の危険を感じる事件が頻発していました。周囲の人に、「中国人に命を狙われている」と話をしていました。

    その後東京湾で死体で発見された

    プチエンジェルを探っている最中、吉里弘太郎が起こしたプチエンジェル事件が明るみになりました。染谷悟さんは、プチエンジェル事件の報道が一斉に終了した後も、執念深く事件の真相を追っていた人物です。しかし、プチエンジェル事件から2か月後に、染谷悟さんは殺されてしまいました。

    2003年9月12日の早朝、東京湾に浮かんでいる遺体が発見されます。遺体は、背中に8箇所の刺し傷、頭蓋骨も打撲痕が2箇所確認されました。また、衣服の上から鎖を巻き付けられており、腰にはスキューバダイビング用のベルトを巻かれ、2キロの重りを数個付けられていました。

    染谷悟を殺害したのは誰?

    2003年9月16日に染谷悟さんを殺害した犯人が逮捕されました。犯人は、桜井景三(当時42歳)鍵会社の役員、熊本恭丈(当時31歳)元プロバイダー、藤井亮一(当時34歳)無職の男性3名によるグループでの犯行でした。怨恨により事件だったと報道されています。

    この3名の男性は、プチエンジェル事件には関係ないとされていますが、鍵会社の役員だった熊本恭丈が、中国への太いバイパスがあったと噂されていました。これが、プチエンジェルの背後にあった、児童売買の闇だったのではないかとも言われています。

    プチエンジェルでは、家出少女たちをマンションに住まわせ、売春行為をさせた後、人身売買をしていたという噂がありました。染谷悟さんも、人身売買の取材を行っており、日本人の少女たちは高値で取引されていたとされ、その資金が吉里弘太郎の口座にあった35億円の預金だったとも考えられています。

    プチエンジェル事件の被害者「少女」の現在

    プチエンジェル事件で誘拐・監禁された少女たちは、同じ東京都稲城市の小学校に通っていた同級生でした。プチエンジェル事件が公開捜査された時、学校側も会見を行っています。この小学校は、当時6年生のクラスは2クラスしかなく、比較的小規模の学校だったようです。

    その中で、4人のうち3人の少女たちは、仲良しグループだったことが分かっています。中でも目立つ少女がおり、髪を茶色に染め、日頃より授業をさぼるなどの問題行動がありました。しかしながら、学校側も市の教育委員会も「普通の子供たち」「問題はなかった」と発言していました。

    少女の名前は非公開

    被害者が小学生の少女たちであったことから、名前は非公表となっています。しかし、事件発覚時に学校側の会見で、東京都稲城市の市立小学校に通う少女たちだったことが判明し、ネットで実名と写真が掲載される問題が起こりました。しかし、直ぐに削除要請が出され、削除されます。

    また、この少女たちが住んでいたのは、新興住宅地でした。被害者の少女たちに対する取材が行われましたが、住民から事件のことについて語られることはありませんでした。それは、あまりにも不自然な程、住民達が少女たちについて触れることがなく、報道陣を追い出したとの噂もありました。

    地域住民の行動に異質性を感じた取材陣達は、ここに住む住民が何かを隠しているようだったとも語っています。誰かの指示で、何も話してはならないと口止めをされていた可能性を示唆する人もいました。

    プチエンジェル事件にいまだに残る謎

    プチエンジェル事件は、被害者である少女たちが無事に保護され、犯人は自殺を図り、被疑者死亡で幕を降ろしたように思えます。しかし、あまりにも謎が多いことからプチエンジェル事件は、現在でも未解決事件といわれています。では、一体どこが謎な点となっているのでしょうか。今一度、要点を整理してみました。

    操作がなぜ打ち切られたのか

    少女たちの公開捜査が開始してから、保護されるまで、報道はかなり過熱していきました。プチエンジェルの存在が分かると、児童買春、デートクラブ、また渋谷でたむろする女子高校生をターゲットにし、報道は加速していきました。

    しかしながら、事件の犯人とされる吉里弘太郎が自殺していたことで、報道は一斉に収束します。事件を起こした犯人が死亡し、被害者もまだ小学生の少女たちであり、真相を語れる人間がいないことが大きな理由だと考えられます。

    しかしながら、犯人とされる吉里弘太郎は、司法解剖も行われずに自殺と決定されたこと、練炭自殺が確実に実行できた証拠が無いこと、吉里弘太郎と一緒に行動していた男女が行方不明であることなど、多くの謎が残されています。

    被害者4人の証言も食い違っている

    被害者である少女たちの証言にも食い違いがありました。少女たちは、全員手錠で拘束されていたと証言されていますが、監禁されてから保護されるまでの間、外出していた少女もいました。吉里弘太郎に代わり、郵便局のATMでお金を降ろしていたのが確認されており、助けを求めた生花店にも一度立ち寄っていたそうです。

    助けを求める為に逃げ出した少女は、「犯人の声や音がしなくなったから逃げ出した」と証言しています。吉里弘太郎が練炭自殺を行っている際のことについては、何も気が付かなかったと言っています。1000度以上の密閉空間で、一切苦しまずに死亡したのか謎は残ります。

    また、部屋の中ではアイマスクを付けられたままだったという証言がありましたが、保護された際に、自分達の事件が報道されていることを知っていた口調だったと、生花店の店員は話していました。証言の内容や食い違い、警察側の公表内容と取材内容の違いが分かります。

    プチエンジェル事件の真相は?

    プチエンジェルの真相については、入口はロリータ専門のデートクラブであり、その延長上に未成年者の売春斡旋の実態が確認されています。しかし、それだけで多額の利益を生み、35億円もの預金を持てるのでしょうか。恐らく売春の先には、人身売買や臓器売買などの恐ろしい闇があったのかもしれません。

    ただし、人身売買や臓器売買については、あくまで憶測にしか過ぎません。この事件の謎を知る人物は、吉里弘太郎だけとされ、自殺を図り死亡したということで、プチエンジェル事件は終了したのです。誰もそれ以上、謎に足を踏み入れることはありませんでした。

    裏社会から圧力がかかった?

    プチエンジェル事件において最後まで謎な点は、なぜ2000名近くの顧客リストの管理や、未成年者の売春斡旋が吉里弘太郎だけで運営できていたのかです。また、吉里弘太郎は、裏ビデオの販売や、主婦を中心とした売春斡旋も行っていたことが分かっています。

    これだけの大きな事業を、全て1人でしていたとは考えにくいものです。また、プチエンジェル事件は、吉里弘太郎の単独犯であるとして片づけられました。そこには、裏組織の存在があるからだといわれています。

    暴力団との関係性

    多くの顧客リストを管理し、未成年の売春斡旋を行いながら、裏ビデオの販売までを1人で行うことは不可能です。かなり、大きな組織が必要となります。しかし、警察側は吉里弘太郎に全てを被せて、事件の幕引きをしました。その理由に、警察と裏社会との深い繋がりがあったとされています。

    その組織が山口組系後藤組と噂されていました。力のある後藤組の組織内で、吉里弘太郎が自身の性癖を駆使したビジネスを行い、色々と面倒を見てもらっていたとの見方が強まっていました。また、警察と後藤組の癒着については、有名だったようです。

    描かれたシナリオ

    警察内部の人間が、この誘拐事件が起こった時点で、吉里弘太郎に全ての罪を被せるようにシナリオを描き、公開捜査が始まってから、逮捕までを迅速に終了させたように仕向けたと見る人もいました。また、赤坂界隈にもロリータクラブがあり、出入りしていたのは大物政治家や官僚だったといわれています。

    この件が明るみになれば、日本が崩壊すると考え、警察が後藤組に情報を流し、吉里弘太郎を殺害させ、そして少女達にも絶対に話さないよう口止めを行い逃がした、少女達が住む地域住民にも見張り役を置いたなど、様々な憶測が生まれていますが、謎が明らかになることはありませんでした。

    「プチエンジェル事件」に対する世間の反応

    プチエンジェル事件は、夏休みを前に起こったショッキングな事件でした。事件後には歌舞伎町や渋谷などで、1500名からの学生達が一斉補導をされました。また、ローティーン専門のデートクラブの存在や、未成年者の売春が社会問題とされたことで、子供を守る社会の在り方について、考えさせられる事件でした。

    またプチエンジェル事件をきっかけに、携帯電話に対する教育も重要視されるようになりました。少女たちが、親の知らないところでネットワークを広げ、危険人物と連絡を取り続けたことで起こった事件ともいえ、携帯電話を持たせる親の責任についても問われることとなりました。

    プチエンジェル事件が残した課題

    プチエンジェル事件は、決して昔の話ではありません。現在でも、JKビジネスやJKリフレ、パパ活と名前を変えて、法の目をかいくぐり存在しています。それは、年々罪の意識が薄まり、現在では親子で売春ビジネスを行いお金を稼ぐ人達もいるそうです。

    需要と供給のどちらもゼロになる日は、決して来ないでしょう。だからこそ、少女たちが一生消えない傷を作ることのないよう、安心できる家庭環境や安全な地域社会を作ることが大人の役割だといえます。また、売春行為に対して、厳しい取り締まりと重罰が必要だと思われます。

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