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峰岸徹が死去。伝説のアイドル岡田有希子さんと交際していた?

昭和の名俳優として、数多くの映画やドラマに出演していた俳優の「峰岸徹」が2008年に死去。死因は一体?かつて「伝説のアイドル」と呼ばれていた歌手の岡田有希子と交際していて、彼女の自殺原因は峰岸徹だった噂の真相は?彼の結婚や離婚についても調べてみました。

峰岸徹が死去。伝説のアイドル岡田有希子さんと交際していた?

昭和の名俳優として、数多くの映画やドラマに出演していた俳優の「峰岸徹」が2008年に死去。死因は一体?かつて「伝説のアイドル」と呼ばれていた歌手の岡田有希子と交際していて、彼女の自殺原因は峰岸徹だった噂の真相は?彼の結婚や離婚についても調べてみました。

峰岸徹の経歴

さっそく、峰岸徹の生い立ちや、芸能界に入るまでの道のり、俳優としての活躍など、峰岸徹の経歴を詳しく見ていきましょう。

峰岸徹のプロフィール


本名:峰岸 知夫 (みねぎしともお)
別名義:峰 健二、峰岸 隆之介
生年月日:1943年7月17日
没年月日:2008年10月11日(65歳没)
出生地:東京都京橋区銀座
身長:173cm
血液型:O型
活動内容:俳優
家族:元妻(藍とも子)
事務所:アクトレインクラブ

生い立ち

峰岸徹は、銀座で料亭を営む母に育てられ、石原裕次郎やジェームス・ディーンに憧れて俳優を目指すようになりました。大学も日大の芸術学部演劇学科に入学しましたが、のちに退学しています。

峰岸徹は、1962年に東宝映画『高校生と女教師・非情の青春』でデビューしました。当時、六本木野獣会にも属していて、話題の最先端グループの仲間入りも果たしました。

端正な二枚目ぶりから、かつて「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた「赤木圭一郎の生き写し」と言われ、『若い季節』や東宝映画へ出演しました。

峰健二の名前でデビュー

峰岸徹は、デビュー当時の芸名は、峰健二でした。

東宝映画でデビューしましたが、男前の顔ばかりが注目されて、演技の評価はあまりついてこず、本人をそれをずっと悩んでいました。

峰岸徹は、俳優座養成所第16期生や文学座研究生を経て、1968年に田宮二郎に続く看板スターを探していた大映と契約 し、同年、製作者協会新人賞を受賞し、演技にも注目されるようになりました。

晩年まで俳優として活躍

峰岸徹は、1975年に芸名を峰岸徹に改名し、映画やドラマなどでも演技を高く評価されるようになり、晩年までテレビや映画など数多くの作品に出演しました。

峰岸徹は話題作にもたくさん出演し、『高校教師』では、実の娘と近親相姦を重ねる父親というショッキングな役が評判を呼び、『古畑任三郎』では頼りない古畑の上司・蟹丸義太夫役で準レギュラー出演しました。また、大林宣彦監督作品の常連でした。

ニ枚目キャラとはうらはらに、おとぼけキャラも得意で、バラエティー番組に出演したり、『ものまね王座決定戦』では審査員としても長年出演しました。

2008年に死去

峰岸徹は、2008年10月11日23時32分、65歳で亡くなりました。

峰岸徹は、いったん病に倒れ、死去する2か月前にも仕事復帰していましたが、病気には勝てなかったようです。

峰岸徹が一体どのような病を患っていたのか、早速詳しく見ていきましょう。

2008年3月「肺癌」発見

峰岸徹は、元々椎間板ヘルニアから来る腰痛に悩まされていて、2008年3月に症状が悪化したため、腰痛の手術準備で検査入院した際に肺癌であることが判明しました。

癌は、すでに腰にまで転移していて、すでに切除手術が出来ない状態との告知を医師から受け入院し、5月から6月にかけて抗がん剤投与、放射線治療などの闘病生活を送りました。

2008年4月舞台降板

峰岸徹は、肺癌を患っていることを公には公表せず、ヘルニアが悪化したことを理由とし、6月からの予定だった舞台を降板しました。

一旦は舞台降板をヘルニアのためだと公表していた峰岸徹ですが、同年7月には癌のため降板したことを発表しました。

死因は肺癌

峰岸徹は、2008年8月には仕事に復帰しますが、10月11日に死去しました。2008年11月から公開された大林監督の作品『その日のまえに』は、峰岸徹にとって最後の作品で遺作となりました。

峰岸徹の命を奪った肺癌は、男1位、女2位と死亡率が高い病気です。肺癌の予防として、まずは禁煙することが挙げられますが、峰岸徹は、若い頃に禁煙したといいますから、禁煙が肺癌になるリスクを抑える効果はあっても、完全に防ぐことはできないようです。

定期的にCTスキャンなどの健診を受け、早期発見が肺癌のリスクを減らすのに効果的だと言えそうです。

癌告知にショック

峰岸徹本人は、ヘルニア手術の検査で肺癌がわかり、かなりショックを受けたようです。

自身の公式HP上でも7月12日付でその時の心境を「一瞬何が何だかわからず、全てが止まった」「私は腰の手術で入院したのだ。そんなバカなウソだろ」などと赤裸々につづっていました。

峰岸徹は、人一倍癌に負けない気持ちもあったようですが、勝てなかったようです。

今は亡き伝説のアイドルが彼女だった?

峰岸徹が俳優業以外で注目を浴びたのは、人気アイドル・岡田有希子の交際相手として噂されたことでした。

峰岸徹と岡田有希子は、一体どのような関係だったのでしょうか?さっそく詳しく見ていきましょう。

岡田有希子の自殺

岡田有希子は、1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていましたが、人気絶頂だった1986年(昭和61年)に事務所が入居するビルの屋上から飛び降り自殺しました。

岡田有希子が自殺した後、300人以上の後追い自殺の犠牲者が出て、大きな社会問題となりました。当時のこの現象は、「ユッコ・シンドローム」などと呼ばれました。

毎年岡田有希子の祥月命日には納骨されている成満寺だけでなく、彼女が倒れていた東京・四谷の現場にも全国からファンが集まり、献花と黙祷が行われています。

遺書の内容

岡田有希子が自殺した後、遺書とみられる、鉛筆書きの便箋が見つかりました。

峰岸徹の名前は、岡田有希子の遺書や日記にも名前が書かれていました。そこには、峰岸徹に対する恋心や失恋の苦しい気持ちなどが書かれていました。

自殺の原因は失恋?

峰岸徹と岡田有希子は、1985年にTBS系列で放送された『禁じられたマリコ』で共演し、交際を噂されました。

遺書が見つかったことで、二人は付き合っていて、彼女は振られて自殺したのではないかと大きく騒がれました。

岡田有希子は、トップアイドルとして多忙を極めていて、その仕事のストレスなどからつ病を患っていて、精神的に不安定だった可能性が高いです。

記者会見

峰岸徹は、事件当日に記者会見を開き、岡田有希子は峰岸徹にとって妹のような存在だったことを明かしました。

また、二人に交際の事実はなかったと否定しましたが、彼女の気持ちには気づいており、なるべくそっけなくしていましたが、彼女が本当に自分に恋をしていたのなら自分にも責任があると涙しました。

当時 、峰岸徹はバツイチで7歳の娘を男一人で育てていたこともあり、そんな男性が10代のアイドルと大人の関係に至っていたとは考えにくいですが、真相は二人のみが知ることとなりました。

結婚と離婚

峰岸徹は、バツイチで、かつてある女性と婚姻関係にあった時期がありました。

さっそく峰岸徹の結婚と離婚の真相を詳しく見ていきましょう。

藍とも子と結婚

峰岸徹は、女優の藍とも子と、1975年にテレビ東京系列で放映されたドラマ「プレイガールQ」で出逢い、その後交際を始め、交際開始から半年後の1976年に電撃結婚し、翌年一女ももうけました。

峰岸徹と藍とも子は、12歳の年齢差がありました。彼女は1975年の「メカゴジラの逆襲」で熱演を評価され人気が出ていました。

6年後に離婚

二人の間には、女の子も生まれ、順調に思えた結婚生活でしたが、結婚後も仕事を続けるつもりの藍とも子を心配して口を出す峰岸徹に対して、意見の食い違いが生じ、しだいに藍とも子の心が峰岸徹から離れていき、夫婦仲が悪くなっていきました。

峰岸徹と藍とも子は、結婚前に半年しか付き合っていなかったので、お互いの結婚後の理想図までは想像できなかったのかもしれません。

妻が娘を捨てて失踪!

結婚から6年経った1983年に藍とも子は、娘と峰岸徹を残し突然家を飛び出してしまい、離婚に至りました。娘の親権は峰岸徹に渡り、男手一つで娘を育てることになりました。

藍とも子は、その後雑誌グラビアなどでヌードを披露したりなどセクシー女優などをしていましたが、しだいに芸能界から姿を消していきました。

峰岸の遺言で母娘再会

離婚後、藍とも子と子供は全く会っていませんでしたが、2010年母子は再会を果たしました。

再会したのは峰岸徹の死後でした。峰岸徹は亡くなる前に病床で「会いたかったら会っても良いぞ」と言い遺していたのです。

若い頃からハンサム!峰岸徹の代表作品

テレビに映画に舞台に数多くの作品に出演した峰岸徹。

峰岸徹の代表作をさっそく詳しく見ていきましょう。

テレビドラマ「風と雲と虹と」

峰岸徹は、1976年1月4日から12月26日にかけて放送されたNHK大河ドラマに出演しました。

ドラマで演じた、女好きで乱暴者の悪役は、大きく評価されました。

テレビドラマ「高校教師」

峰岸徹は、1993年にTBS系列で放送されたテレビドラマ「高校教師」に出演しました。

野島伸司脚本で、とても話題になったドラマでしたし、娘を溺愛する父親役を演じ、より多くの視聴者に峰岸徹の名前が知られるようになりました。

映画「ゴジラvsビオランテ」

峰岸徹は、1989年12月16日に公開された映画「ゴジラシリーズ」の第17作目である、「ゴジラvsビオランテ」に出演しました。


峰岸徹は、G対策センター一佐の権藤吾郎を熱演したことにより、日本国内に留まらず、アメリカでも演技力の高さを評価され、彼の代表作品となりました。

晩年の活躍

峰岸徹は、若い頃はそのあまりのイケメンぶりに演技もあまり評価されず、峰岸自身も悩んでいましたが、若手を過ぎると、渋みを生かした演技で重宝されるようになり、多くの視聴者を魅了しました。

早速峰岸徹の晩年の活躍を詳しく見ていきましょう。

昭和の名俳優

峰岸徹は、貴重なバイブレーヤーとして、亡くなった2008年までその存在感ある演技で、テレビや舞台で活躍していました。

峰岸徹は、昭和の名俳優の1人と言われるほど俳優としての評価は高かったのです。

趣味のトライアスロン

峰岸徹は、2000年頃からトライアスロンに挑戦していて、トライアスロンに関する本も出すほどでした。

2006年のインタビューでは、トレーニングは週3でしていると語っていて、普段からいつでも運動できるようトレーニングウェアで移動したりするなど、常に運動できる体制でいたそうです。

峰岸徹は、宮古島のレースにも毎年出場していて、ゴールの瞬間は何度行っても感動するかけがえのない瞬間だと語っていました。

峰岸徹は、アイドル岡田有希子の憧れの人だった!

年齢を増すごとに、バイプレーヤーとして昭和史に残る名俳優だった峰岸徹の生い立ちや死因などを詳しくご紹介いたしました。

峰岸徹の魅力は、年齢が親子ほども離れたトップアイドル岡田有希子の憧れの人にもなり得るほどでした。

峰岸徹は、間違いなく今後も視聴者の記憶に深く残り続ける名俳優ですね。

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