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    宮沢りえの人生を翻弄した【毒親】!宮沢りえの母「りえママ」って?

    舞台、ドラマ、CMなどで活躍する実力派女優・宮沢りえさん。プライベートでは離婚問題、熱愛報道などでマスコミに取り上げられることも多いですね!そんな宮沢りえさんの母はあまりにも強烈過ぎる【毒親】だった!?宮沢りえの人生を翻弄した「りえママ」こと宮沢りえの母が強烈すぎる…!

    女優・宮沢りえと母・宮沢光子のプロフィール

    宮沢りえ

    プロフィール

    プロフィール

    生年月日:1973年4月6日 
    星座:おひつじ座 
    出身地:東京都練馬区
    血液型:B型 
    身長:167cm 
    所属:芸能事務所エムツー企画

    日本人の母親とオランダ人の父親を持つハーフ。

    11歳でモデルデビュー。

    雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルとなる。1987年、CM『三井のリハウス』の初代リハウスガール“白鳥麗子”役を務める。
    人気絶頂期に『ふんどしカレンダー』、ヘアヌード写真集『Santa Fe』などで話題を集める。

    またマネージャーを務めていた母親(通称・りえママ)の存在が注目された。
    婚約解消、交際報道、拒食症、激やせなど、芸能マスコミからのバッシング報道が相次いだことで一時期は芸能活動休止状態となるが、徐々に芸能活動を再開。
    2002年、映画『たそがれ清兵衛』以降、高い演技力が評価され本格派女優として活躍している。

    宮澤光子

    プロフィール

    生年:1948年~1949年頃?
    没年:2014年9月23日
    女優宮沢りえさんの母。

    若い頃、六本木でホステスをしていた時に宮沢りえさんの父親にあたるオランダ人と交際し、宮沢りえさんを出産。
    その後、赤ん坊だった宮沢りえさんをタクシー運転手をしていた実父(宮沢りえさんにとっては祖父)に預け、自身は夫のオランダ人とオランダに渡る。
    その後、オランダに渡った宮澤光子さんは夫の家族とうまくいかず離婚。

    日本へ帰国した宮澤光子さんは、引き取った娘の宮沢りえさんをモデルにしようと考え、この時から「りえママ」として、宮沢りえさんのプロデュースを始める。

    宮沢りえの幼少期、デビューのきっかけ

    宮沢りえ 父も母もいない孤独な幼少期

    “一卵性母子”といわれた母親の“りえママ”こと宮沢光子は、六本木でクラブホステスをしていたとき、オランダ人と恋に落ちた。

    当時はほっそりと可愛い女のコとして評判で、りえを授かった後、産み落としたりえを残して単身オランダに渡る。

    りえはタクシー運転手だった祖父の男の子と一緒に兄弟のように育てられた。人生で一番幸せな時期だったという。

    日本で育てられていたりえは
    オランダに住むオランダ人の父親とは、両親の離婚により全く交流がなかったらしい。
    このため、父親を知らずに大きくなった。
    テレビ朝日のワイドショーで異母兄弟がいることが明かされた。

    「シングルマザーだから育てられない、という理由で小さい頃からりえを親戚の家に預けて、りえが美少女に育ったのをみると引き取ってすぐに芸能界に売り出したんでしょ。親というより商売の道具としてみてるみたいだった。でもりえはお母さんが迎えに来てくれて嬉しかったんだろうね。一生懸命期待に応えようとしたのかも。これからは自分と子供の為だけに生きてほしい。」

     

    というコメントも寄せられています。

    宮沢りえの母、若い頃は宮沢りえより美しかった!?

    「りえママの若いころの写真、昔のセブンティーンか何かで見たけど、りえよりきれいだったよ!」

    「昔雑誌で、りえママが若くて独身の頃、加賀まりこ一派とりえママがつるんでいたって加賀本人の話を見たことあるけど、『光子さんはりえちゃん以上の美貌でバレエもやってたからスタイルもよくて周りの男性全ての羨望の的でね、まさに高嶺の花のような存在だった。

    今の姿からは想像つかないでしょ?けど人形のように物凄く美しかったのよ』

    っていうのを見たことあるよ。」

    「りえママ、若いころにスカウトされてCM出たことがあるんだよな。

    オランダ人のりえパパが写真集で娘の裸を見て『りえママそっくり。特に目元が。』とかいってたっけな。ちなみにりえの腹違いの妹は金髪の宮沢りえって感じだった。」

    宮沢りえの複雑過ぎる家族構成

    非常に複雑な家庭環境であり、幼少期は伯母の家で従兄弟と一緒にそだちました。

    また、異母兄弟も異父兄弟もいるそうで、関係性の複雑さがうかがえますね。

    「父親はオランダ人だよ。妹は髪の毛の色が違うだけで、あとはりえちゃんにそっくりだった。

    (中略)

    りえちゃんはハーフです。

    オランダ名はリー・マムだとデビューして間もなくの頃、雑誌のインタビューで答えてましたよ。

    『リー』はleeeとeが三つだから間違えないで、っていう発言が印象的だったから覚えてる。」

    りえの弟に当たる後藤聡さん(仮名)は、光子さんがりえの実父であるオランダ人の夫と別れた後、再婚したピアニストの男性との間に生まれていたという。

    しかし光子さんは出産後すぐにりえを連れて家を出てしまい、以来音信不通なのだという。

    この事実は、聡さんが20歳の時に初めて家族から明かされ、それまでは父親のことを兄、また祖父母のことを両親と信じて育ってたのだとか。

    そして現在に至るまで、りえと光子さんとの再会は果たせていないそうだ。

    宮沢りえの生い立ちに対する世間の反応

    子どもの頃、親戚の家に預けられていてお母さんと暮らせるのを夢みる少女だったと対談番組で話していた。

    「りえは小学生までな叔母さんに育てられたんだよね。愛情いっぱいに育ててくれたらしいから、人格の土台はそこで作られたんだろうね。それがせめてもの救いかな」

    苦労話を公に話さない宮沢りえさんの人間としての品性の高さを感じた。

    宮沢りえさんと母・宮澤光子さんの関係についてまとめてみました。

    残念ながら、宮沢りえさんの母である宮澤光子さんが「美しかった」という証拠となる若い頃の画像は見当たりませんでした。
    (なぜか、女優の原節子さんの画像を、宮澤光子さんであると取り違えているサイトはありましたが)
    熱愛報道が多い事で知られている宮沢りえさんですが、母・宮澤光子さんも異性関係に関しては派手だったうえ、あまり関係が長続きしなかったようです。
    その為、宮沢りえさんの家庭環境、家族構成は複雑でした。

    宮沢りえをプロデュースする母、宮澤光子

    娘・宮沢りえをデビューさせた母

    オランダの家族との折り合いが悪くなったりえママは離婚して帰国し、りえを引き取る。

    東京・大泉学園近くのアパートに居を構え、ここで可愛いりえを見た友人のススメで、モデルの仕事をはじめる。

    もともと宮沢りえは本人の意志というより、母親の強いプッシュで芸能界入りしました。
    保険の外交やホステスを続けながら、手塩にかけて育てたのが宮沢りえです。

    「それまで光子さんは、りえを抱えて、保険の外交の仕事をしていた言われてますが、銀座のあまり有名ではないクラブのホステスもやっていたんです。その関係で知り合ったかどうかは定かではありませんが、六本木の高級寿司屋の旦那と深い関係だったんです。その店に幼いりえをよく連れていった。そこは、芸能界の幹部連が通う店。たちまち幹部たちの目に留まったんです」(ベテランのマネジャー)
     りえがスカウトされ、デビュー時、所属した事務所は"芸能界のドン"と呼ばれた人物の息がかかった「E」というプロダクションだったが、ブレークするや、光子さんの判断で即独立してしまった。

    剛腕マネージャー兼プロデューサーとして宮沢りえを売り出す母、宮澤光子

    光子さんは、敏腕ではなく、豪腕マネジャーとして恐れられた。

    プロデューサーとしても実力を発揮。

    まだ10代のりえを"ふんどしカレンダー"に起用したり、篠山紀信さんによる全裸写真集『サンタフェ』を発売した。

    「ステージママの操り人形」といった批判をよそに、りえブームに火がついたのも事実。

    “ふんどしカレンダー”が話題を呼び、17歳の時に撮影したといわれる篠山紀信氏によるヘアヌード写真集『Santa Fe』(サンタフェ)は150万部のベストセラーに。

    当時、ビートたけしは、「娘をヌードにさせないのが親なのに考えられない」と毒づいたほど。

    母・宮澤光子さんに操られるかのように芸能界にデビューし、言われたとおりに仕事をこなしていく宮沢りえさん。
    幼少期に離れていたことを埋め合わせるかのように依存し合う親子…。
    その不自然な関係はいずれ破綻していくことになりますが、宮沢りえさんは最後まで母・宮澤光子さんを決して悪く言うことはありませんでした。

    娘・宮沢りえの仕事、人生、恋愛も完全プロデュースしようとする母

    宮沢りえ 幻の婚約発表…その時、母は?

    1992年に貴乃花さん(貴乃花親方)と婚約を発表し、 “世紀のカップル誕生”と大きく報じられましたが、僅か2ヵ月後、 「人生最高のパートナーになれなかった」 というコメントと共に婚約解消をしています。

    歌手の美川憲一(68)が5日に放送された読売テレビ「上沼・高田のクギズケ!」という番組に出演。女優の宮沢りえ(41)の婚約解消のキーマンとなったのは自分だと衝撃告白した。 (中略) 美川は「頼まれて(婚約を)ぶっ壊したのよ、私が」と当時を述懐。

    「りえに電話をしてあなた本当にお嫁に行きたいの?と聞いたら“行きたい”と。

    でもあなたは背負っているものが多い。あなたは母一人子一人。

    お母さんがすごい犠牲になってきている。

    おかみさんになったらどうするの?ずっと(母の)面倒見なきゃいけないのよ」と好きなだけでは結婚はできないと諭したという。

    93年、貴乃花親方と破局に追い込まれた場で、りえは独りけなげに対応した。

    会見し終えた後、すぐ別の場所にいた光子さんに電話をかけて「あれでよかった?」と話しているのを見たとき、「宮沢りえは女優になる」と感動したことがある。

    その後、ふたりは世間の目から逃げるようにアメリカへ渡った。アイドル・宮沢りえが終止符を打った瞬間だった。

    宮沢りえの熱愛報道につきまとう母・宮澤光子の思惑

    19歳のりえが貴乃花(当時、貴花田)と婚約を発表したのも「りえママ戦略の一環」といわれているが、婚約破棄後のスキャンダルにも、なんとりえママの影がつきまとっていたという。

    貴乃花親方と別れ、傷心しているりえの前に現れたのが、妻子持ちの中村勘三郎(当時・勘九郎)だった。

    二人は光子さん公認の仲であった。というのも、りえが京都で自殺未遂騒動を起こす夏の前に、りえと勘三郎と光子さんの三人で、筆者の親しいモデルが経営していた六本木のカウンターバーを訪れたりしている。

    (中略)

    それからしばらくして、りえが勘三郎と不倫のもつれから自殺未遂騒動を起こした。

    その後も市川右近や市川海老蔵、中田英寿ら何人もの男性と噂になったが、光子さんの反対にあって別れたという。

     

    独立後のりえママは、利用できると睨んだ芸能人、映画・ドラマプロデューサー、さらに有能な広告代理店マンを強引に取り込んでいったいう噂がある。

    「’92年にりえと即席ラーメンのCMで共演したビートたけしもその一人。

    海外ロケで泊まったホテルに深夜、突然りえが『ママに言われて来た』とビートたけしの部屋に現れた。

    驚いたたけしはりえを傷つけないように『早く帰って寝なさい』と帰したそうです。

    母親自ら娘の“枕営業”を勧めるわけですから、さすがのたけしも、りえママのパワーに脱帽でしたよ」

    宮沢りえの人生を狂わせ始めた母の歪んだ欲望!?

    娘が選んだ相手との恋愛は決して許さず、たとえ不倫であっても自分の選んだ男性との交際にこだわった母。

    りえママがりえとたけしとのセックスに異常に固執し、勘三郎との関係を後押ししたのは、芸能界でセンセーショナルな存在として話題を振りまきたい、大物とのつながりをもちたいなどの計算ももちろんあっただろうが、それ以上にりえママ自身が彼らのことを“好き”だったのではないか。

    そう、一連のりえのスキャンダルは、自分の欲望を娘に託した“毒親”的行動によって引き起こされていたのではないだろうか。

    1996年1月に拒食症の治療のために母親の光子さんとロサンゼルスに渡った宮沢りえ。

    以前は帰国するとマスコミに追いかけられていたが、最近ではまるで、それがなくなった。

    その原因と見られているのが、りえママ光子さん。木村拓哉やビートたけしなどりえママに売名で使われた芸能人は数知れず、最近では誰も近づかないという。

    一方で、りえも中村勘九郎との不倫の末、自殺未遂しており、極めて危険。

    りえ一人であっても近づく芸能人は少ない。最近、りえが交際が噂される市川新之助には勘九郎サイドから注意されたという。

    「りえママは自分のできなかった人生を娘のりえにさせて自己投影してたんだと思うわ。

    美貌があって野心があってお金があってという、なれなかった自分をそのまま娘に強要してたんだろうね。

    この心の汚さの出てる顔を見ると、りえママは毒親だったと思う。ある程度生きると人生が顔に出るからね」

    宮沢りえの結婚・出産・母との決別…

    女優の宮沢りえさん(35)が近く結婚することが13日、分かった。
    所属事務所が明らかにした。相手は一般人で、名前などの公表は控えたいとしている。
    現在、妊娠6か月だという。

    【宮沢りえさんコメント】

    「報道関係者各位

    突然、このような形でのご報告を驚かれる方も多いと思いますが、私の大きな夢でもあった、赤ちゃんを授かりました。

    一昨年の終わりに知り合った彼と、只今6か月の小さな命と共に、喜びや戸惑いを何倍にも感じながら毎日を重ねられるのは、支えてくれる人たちの大きなエネルギーがあるからだと感じています。」

    りえは何人もの男性とウワサになった。しかし、いずれも母親の光子さんに反対されて別れたといわれている。

    「光子さんは今回のりえ妊娠報道を知って、滞在先のパリから飛んで帰ってきて結婚に反対したそうです。しかし、妊娠6カ月で堕胎するのは不可能です。りえから聞いて、りえママの行動パターンをすべて把握している勘三郎がアドバイスし、スポーツ紙上での“妊娠発表”に至ったとウワサされています」(関係者)

    母の反対を押し切り結婚したものの、結局この結婚生活は長くは続かずに現在、離婚訴訟中となっています。
    ですが、母に決められたのではなく、自分自身で選んだ相手と結婚し、出産した宮沢りえさんは、やっと母の手から離れて自分自身で選んだ道を歩きだしたと言っても良いのかもしれませんね!

    宮沢りえの母 宮澤光子 2014年9月 逝去

    「女優の宮沢りえさん(41)の母親で、所属事務所「エム・ツー企画」の代表取締役を務め、”りえママ”と呼ばれて一時期注目を集めた宮沢光子さんが、肝腫瘍によって65歳の若さで亡くなられていたことが24日に明らかとなりました。」

    「小5の時に子供服のポスターでモデルデビューして以来、芸能界の荒波を母娘の二人三脚で乗り越えてきた。宮沢りえ(41)は母・光子さんが息を引き取った当日(23日)も、公演中の舞台に穴をあけることなく、役者業をまっとうした。」

    「ご存じのように、りえは長く摂食障害に苦しんできたが、それも母子関係が原因だったと見られている。マスコミは光子さんのステージママぶりを「母子一体」「一卵性親子」と表現してきたが、その呪縛から解き放たれたからこそ、さまざまなスキャンダルや苦難を乗り越え、りえは女優として再起できたのだろう。


    「私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」──母子2人の歩みをこうして振り返ると、母の最期にコメントしたりえのこの言葉は、力強く響いてくる。」

    母亡き後…女優 宮沢りえのこれから

    これまでも舞台などで高い演技力を発揮してきた女優の宮沢りえさん。
    昨年は主演を務めた映画「紙の月」で最優秀女優賞を受賞し女優としても安定した活躍を続けてきていますが、バラエティ番組「ヨルタモリ」でレギュラー出演するなど新境地を開拓しているようにも見えますね!

    プライベートでは離婚問題を抱え相変わらずマスコミには執拗に狙われているようにも見えますが、その人生に大きく関わってきた母との別れによって、今後、宮沢りえさんがどんな生き方を選び、幸せを探していくのか、見守りたいところですね!

    今後の活躍も楽しみです。

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