2020/03/16
yuumi28
宮沢りえ
1973年4月6日、42歳。東京都練馬区出身。
11歳のときに子供服のポスターでモデルとしてデビュー、その後雑誌の表紙を飾る。17歳のときに「ふんどしカレンダー」、18歳のときにはヘアヌード写真集を出版するなど大きな話題(良くも悪くも)を集めた。当時のマネージャーである母・光子さんが手がけたものとして母の存在もこのときから世間に注目されるようになる。芸能界を二人三脚で渡り歩いた親子として知られる。
女優としては落ち着いた芝居が話題となり、2003年公開の映画「たそがれ清兵衛」では日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞。2005年の舞台「父と暮らせば」でブルーリボン賞・主演女優賞を獲得するなど輝かしい功績を残す。
尊敬する岡本太郎が書き綴った「生きること、死ぬこと」「夫婦愛」などの詩を朗読する活動も行っている。柔らかなウィスパーボイスの持ち主で、ナレーション業も多く務めている。
活動は女優だけでなく多方面に渡る。テレビ番組などでナレーションも多々つとめており、今後の演技や声の仕事にも要注目の人物だ。
反面、私生活においては2009年4月に元プロサーファーの男性といわゆる「できちゃった婚」を発表するも、夫の生活拠点がアメリカであったためにすれ違いが多く2012年5月に離婚。一人娘を育てるシングルマザーでもある。
しかもこの離婚騒動はまだ決着を見ておらず、離婚調停は泥沼化するのではないかと言われている。
そんな宮沢りえの今日があるのは、ひとえに母・光子さんのおかげといっても過言ではない。では、母はどのような人物だったのだろうか?
六本木でクラブホステスをしていたとき、オランダ人と恋に落ちた。当時はほっそりと可愛い女のコとして評判で、りえを授かった後、産み落としたりえを残して単身オランダに渡る。
宮沢りえの母は昔、六本木のホステスだった。当時は細く可愛らしい女性で客にも人気があったようだ。そこで知り合ったオランダ人男性と結婚する。
そこまではいいが、なんとこの母はまだ赤ん坊の宮沢りえを残して夫と2人きりでオランダへ渡ってしまうのである。
母を失った宮沢りえは、祖父に引き取られて従兄弟たちと育てられることとなる。このときが人生で一番幸せだったと振り返る宮沢りえ。母のことはなんと言われて育ったのだろう。
数年後、母はオランダで夫の家族と折り合いが悪くなり帰国する。自由奔放というか身勝手というか・・・。そこから宮沢りえを引き取り、二人暮らしを始めたらしい。
可愛いりえを見た友人のススメで、モデルの仕事をはじめる。
当時のライバルは同学年の後藤久美子だった。彼女はゴクミの二番手としてゴクミが蹴った仕事をこなしながらモデルとしてステップアップ。映画「ぼくらの七日間戦争」や「三井のリハウス」のCMを通じて名前が知れ渡った。
当時まだ小五の宮沢りえを見た母の知人のススメでモデルの仕事を始めさせたそうだ。
同学年のライバルに負けないようにと、母はマネージャーとなって宮沢りえの仕事をサポートしたのだ。
仕事に同行する母
宮沢りえが若いころは、常に仕事に同行していたという母。
宮沢りえは「ステージママの操り人形」と揶揄されたこともあった。次は、母のマネージャーっぷりを少し紹介してみたい。
母のマネージャーとしての手腕はかなり有能だったらしい。その影で強力な後ろ盾を作り、その方法はかなり強引なものだったという。
母はビートたけしをも利用しようと目論んでいたらしい。その方法が驚いたことに、まだ年端もゆかない宮沢りえを使った「枕営業」だったのだ。
カップラーメンのCMで共演した宮沢りえとビートたけしの当時の写真。そういえばビートたけしと宮沢りえには不倫のウワサがあったような気がする・・・
たけしはりえを傷つけないようにモッコリさせながらも『早く帰って寝なさい』と帰したんです。母親自ら娘の“枕営業”を勧めるわけですから、さすがのたけしも、りえママのパワーに脱帽でしたよ
おそらく当時の宮沢りえは、母の指示で何も分からずビートたけしの部屋を訪れたのだろう。それを察したか、おとなしく部屋に帰したという。常識ある人間だからよかったようなものの・・・ちょっと常識では考えられないような手法である。
母の強引な営業にビートたけしも思わず苦笑い?
これについてネット上では…
♥これ有名な話だよね?
♥たけしが「帰りなさい」って言ったのは前から報道されてたよね。昔、不倫関係にあるんじゃないかって噂にもなってた。
♥何で今更?前から有名な話だよ。りえママ亡くなったから?
・・・正直な話、このネットの声を見るまでは週刊誌の飛ばし記事だと思っていた。だが事実だったと知ってかなり動揺している。母よ、そうまでして宮沢りえで儲けたかったのか・・・?
またビートたけしは、宮沢りえのヘアヌード写真集出版に際しても、「ヌードにさせないのが親なのに・・・」とボヤいていたそうだ。
そんな宮沢りえの母親は、肝腫瘍により2014年9月23日亡くなった。関係者によれば、診断を受けたあとも母本人の希望により自宅療養を続けていたという。
母が亡くなった当時、宮沢りえは舞台公演中。しかし宮沢りえは気丈に当日も舞台に立ち、役を全うしたというのだ。
りえさんは心の乱れをみじんも感じさせず、それはもう神がかった演技をしていました。約3時間に及ぶ演目でほぼ出ずっぱり。彼女は主要中の主要キャストです。
この日の舞台を観賞していたコラムニスト・桧山珠美氏のコメントである。
桧山氏によれば、乱れも見せずきちんと役柄を演じきったという宮沢りえ。母の死を覚悟していたからなのだろうか、それとも・・・?
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」とコメントを発表した。
宮沢りえは所属事務所を通じてこのようなコメントを発表している。
母の懸命に生きる姿に感銘を受け、これからも生きていくという内容であるが・・・読み方によっては、やっと自分自身の人生を歩んでいけるのだというニュアンスに聞こえなくもない。
感動的な話になるかと思ったのだが結果として宮沢りえはやはり母の操り人形だったのではないか?という疑惑の残る記事になってしまった。
ただ宮沢りえにもしっかりと母の遺伝子は受け継がれている。母と同じで自分の都合で妊娠・結婚し、娘に片親の寂しさを味あわせている。この奔放なDNAを武器に、これからも図太く芸能界を生き抜いてほしいものだ。
この記事に関する記事
キーワードから記事を探す
Copyright© 運営事務局