風間トオルさんに結婚歴はある?娘が事故死の噂や阿部寛との仲も解説
2024/02/16
himawari3232
色々な作品に出演し俳優として活躍された伊藤俊人。もっともっと活躍を見ていたかった彼ですが、2002年に惜しまれつつも亡くなってしまいました。今回は、伊藤俊人の死因および葬儀についてスポットを当てていきたいと思います。
在りし日の伊藤俊人の演技を思い出しながら、読んでみてください。
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まずは、伊藤俊人がどういった人だったのかそのプロフィールを見ていきましょう。プロフィールを知ることで、どの様な人であったのかが分かるかもしれません。
伊藤俊人は、所属していた東京サンシャインボーイズには1990年の『12人の優しい日本人』で初参加しています。それからは、たいていの三谷幸喜作品には出演していました。また『世にも奇妙な物語』には5つのエピソードに出演しています。
そして人気ドラマ『振り返れば奴がいる』にも上野こうじ役で出演し、桑原万太郎役で『古畑任三郎』シリーズにも出演していたのです。そのほかにも、多数のドラマ等に出演していますが、OL達の奮闘を描いた人気作『ショムニ』の野々村人事部課役も印象深いものでした。
ここで、伊藤俊人が患った病や死因などについて探っていきます。伊藤俊人は、一体どういった病気で40歳という若さで命を落としてしまったのでしょうか。その真相を見ていきましょう。
伊藤俊人は、ドラマの収録日が迫っていた時に、突如として大変な頭痛を訴えました。それに吐き気も伴いそのまま緊急搬送されてしまったのです。その日は2002年5月22日。深刻な病状であり、その日のうちに緊急手術となりました。
その後、一時は意識が回復したとされています。
ところが、その手術の2日後である5月24日に容態は急変してしまいまい、そのまま亡くなってしまったのです。当時は、衝撃のニュースとして世間に流れました。
伊藤俊人が亡くなったのは、『くも膜下出血』が原因でした。この病名は割と認知度が高いですが、日本人における突然死の全体の6%ほどを占めているとされています。
伊藤俊人の死因であるくも膜下出血は、脳内の出血であり助かることもあるものの、死亡率も高くなっています。脳動脈瘤という血管の膨らみが、ある日いきなり破裂してしまい起こる病気です。
脳動脈瘤破裂が、原因のほとんどを占めています。起こりやすいのは、50歳代から60歳代となっていて、女性が2倍多くなっているのです。危険因子は、高血圧や喫煙、飲酒のし過ぎ等が挙げられます。
脳動脈瘤は、血管の分岐部分である血管が強くない場所に発生するものです。普通は血管は弾性があり強いものですが、動脈瘤は血管の弱い場所に発生するため、構造が強くありません。そのため動脈瘤は破裂してしまい、くも膜下出血へと繋がるということです。
伊藤俊人は、ショムニととても縁がありました。ショムニの中でもバイプレーヤーとして華を添えていたのです。そんなショムニには、彼は最後まで出演できたのでしょうか。
伊藤俊人が亡くなった2002年5月24日は、ずっと出演してきたショムニの作品『ショムニFINAL』の撮影を数日後に控えていた日だったのです。撮影に臨むことは叶わず、5月28日には本通夜、29日には告別式が営まれています。
ご本人は悔しかったに違いないと考えられるでしょう。
『ショムニFINAL』は放送自体を不安視する見方もありました。それでも翌6月から収録が再開されて、2002年7月3日には第1話が放送となっています。そこで、伊藤俊人が不在となったショムニは、彼の演じていた野々村人事課長のポストをどうしたか。
それは、野々村人事課長を海外赴任という設定にしたのです。そして放送後には伊藤俊人の冥福を祈るテロップが流れました。ショムニそのものが元々人気ではあったものの、この時はより注目をされ関東では23.1%という高視聴率となっています。
ショムニ全シリーズを見てみても高い視聴率でした。
伊藤俊人が亡くなって大分経ちますが、現在でもショムニの出演者達は彼の命日に集まり『偲ぶ会』を開いているとされています。庶務二課のメンバーでもあった戸田恵子は、2019年にも『偲ぶ会』が開催されたと話しているのです。
その様子をブログで報告していました。共演者達は、伊藤俊人のことをいつまでも忘れていないのだということがうかがえるでしょう。
葬儀というと、しめやかに執り行われたり悲しみに包まれるものと思われるかもしれません。しかし、伊藤俊人の葬儀二関しては異なっていて、笑いに包まれたという噂があるのです。果たして、その真相はどういったものだったのでしょうか。
芸能人の葬儀というと、大々的に執り行うケースも多いですが、伊藤俊人の葬儀はどこで行われたのかも気になるところです。伊藤俊人の葬儀会場については明らかにされていません。しかし、火葬は東京都新宿区にある落合斎場で行われたことが分かっています。
落合斎場では、他にも多くの有名人が荼毘に付されました。それは夏目漱石から赤塚不二夫、緒形拳、三沢光晴などが該当するでしょう。
伊藤俊人の葬儀は、妻が喪主を務めていますが葬儀委員長を三谷幸喜が務めました。それは三谷幸喜が大学の同期であり長年の友人であったことや、劇団員としての繋がりもあったためとされています。
葬儀委員長となった三谷幸喜は、伊藤俊人が楽しいことが好きだったのだからジメジメとした暗い送り方は止めようと提案しています。
生前に楽しいことが好きだった伊藤俊人の葬儀は、弔辞を学生時代の友人および芸能関係者など色々な方が読んだとされています。弔辞の内容も、伊藤俊人のために笑ってしまうようなユーモアのあるものが多かったのでした。
作詞家やプロデューサーとして有名な秋元康も、伊藤俊人の葬儀に参列しました。葬儀は、秋元康が『これほどまでに素敵な告別式は初めてみた』という旨のことを語っているほどです。
数々のヒット作を生み出している、人気脚本家であり伊藤俊人の葬儀委員長までも務めた三谷幸喜は、一体伊藤俊人とはどういった関係性にあったのでしょうか。2人の絆や歩んだ道について伝えます。
伊藤俊人は、日本大学藝術学部演劇学科演技コースを卒業しています。大学時代には、落語研究会にも所属していたとされています。また、日本大学藝術学部に同期で三谷幸喜がいたのです。三谷幸喜は、大学在学中の1983年には演劇への道を歩み始めていますが、伊藤俊人はまだ役者としての道は決定していませんでした。
伊藤俊人は、大学を卒業してからは民間企業に就職しています。それでも、以前からの知り合いであった三谷幸喜と偶然にも再会し、東京サンシャインボーイズに参加することになったのでした。
東京サンシャインボーイズは、1983年に旗揚げされた劇団です。
東京サンシャインボーイズでの伊藤俊人の初舞台は、『12人の優しい日本人』であり1990年のことでした。この時、伊藤俊人は28歳となっていました。それ以降は、三谷幸喜の作品のほとんどに出演しています。
ちなみに、三谷幸喜と再会した際には伊藤俊人は高層ビルの窓ふきの仕事をしていましたが、時間の融通が効いたこともあって10年ほど勤めていたとされているのです。
ここまで伊藤俊人の死についてや経歴に関して見てきましたが、彼の家族についても知りたいところではないでしょうか。ここでは、伊藤俊人の妻や子供について見ていきましょう。果たして結婚はしているのか、探ります。
伊藤俊人は結婚していました。職場結婚と言っても過言ではないかもしれません。伊藤俊人の妻の名前は"栄子"という方です。この栄子さんという方は、ショムニでスタイリストをされていました。
結婚したのは、2000年の10月でした。ただ、スタイリストであることは判明はしているのですが、演者でもなく一般人ですし妻についてのこれ以上の詳細は明らかにはなっていません。
伊藤俊人は、妻となる栄子さんに一目惚れをしたとされています。交際期間は僅か半年という、スピード婚でした。結婚後については、スタイリストである妻・栄子さんのチェックが厳しかったようで、長袖の上に半袖を着るように重ね着をいつもしていたら、妻から『お願いだから止めて』と止められたと明かしていました。
結婚となると子供がいるのかも気になるところですが、伊藤俊人と妻・栄子さん夫妻に子供はいませんでした。それでも、仲の良い夫婦であったことは知られていました。
伊藤俊人は、『王様のレストラン』というドラマにも出演していました。このドラマは三谷幸喜の作品であり、最高傑作との呼び声も高いものです。では、一体どういった作品なのでしょうか。
キャスティングやドラマの内容について見ていきましょう。
『王様のレストラン』は、1995年に全11話で放映されたドラマです。三谷幸喜の作品として好評となった『古畑任三郎』の次の年に期待される形で放映されました。こちらのドラマでは、伊藤俊人はフレンチレストランのコミ(副給仕)である和田一役でレギュラー出演していたのです。
小野武彦(給仕長の梶原民生役)と多く絡む役どころでもあり、主役である九代目松本幸四郎演じるギャルソンの千石武とのやり取りも評判でした。三流レストランが再起をかける人間模様の中において、必須ともいえるほどにしっかりと存在感を魅せていたのです。
伊藤俊人は、今作においても大事な役割を果たしていたということでしょう。
『王様のレストラン』が成功した陰には、脚本家である三谷幸喜が徹底してこだわり抜いた点があったことも要因となっていると考えられます。『古畑任三郎』が成功したことで、三谷幸喜のキャスティングに関する発言権も増したのです。
そして、松本幸四郎や筒井道隆、山口智子、鈴木京香といった有名な俳優のほかに、伊藤俊人をはじめとして小野武彦や西村雅彦、白井晃、田口浩正等の実力ある舞台俳優たちがキャスティングされたことでも、話題となりました。
また服部隆之が音楽を担当しましたが、三谷幸喜とのコンビとなる初めての作品でした。それに、当時まだ無名だった平井堅のデビュー曲『Precious Junk』がドラマ主題歌として起用されたのです。さらに、ストーリーに重厚さを出すためにナレーションを取り入れているのも特徴となります。ほのぼのとしていて暖かみもある語り口である、森本レオがナレーションを担当しました。
ドラマというと、主役がいてその主役を主体として周りが固めるというのが多いかもしれません。しかし『王様のレストラン』は一風変わった仕組みになっていました。脚本を担当した三谷幸喜は、レストラン内部での出来事のみを脚本で書いています。
毎回ごとに異なるメンバーが主役となり、フレンチレストランが一流へと復活する道のりを、コメディータッチかつ人情味溢れるタッチで描いているのです。『古畑任三郎』の後ということもあり、世間の期待も大きかったのですが、その完成度は近年でも高評価となっています。
三谷幸喜が信頼していたからこそ、伊藤俊人らを出演させたのだと考えられるでしょう。
俳優として数々の作品に出演し、存在感を示していた名バイプレーヤーとも言える伊藤俊人は、40歳という若さで2002年に天国に旅立ってしまいました。くも膜下出血ということで、周囲はもとより本人さえも予期せぬことだったでしょう。
倒れてから数日という期間で死を迎えてしまいましたし、無念だったのではないかと推測できます。ご健在であれば、まだまだ色々な役柄の面を見せてくれたのではないでしょうか。その点が悔やまれてなりません。
葬儀は笑いに包まれたと形容されるような、しめやかというよりは幾らか明るさのある式になったのでしょう。きっと、伊藤俊人も皆が悲しい思いをするのを望んでいなかったものと考えられますし、今は安心して天国で休んでいるのかもしれません。そして、今のドラマなどを天国から見て『自分だったらこう演じる』といったことを考えている可能性もあるでしょう。
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【この記事は2021/2/27に更新されました。】