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    北海道の心霊スポットといえば常紋トンネル!人柱伝説の真相は?

    北海道には、常紋トンネルというトンネルがあり心霊スポットと言われています。しかも人柱の伝説があるというのです。一体常紋トンネルとはどういった場所なのか、なぜ心霊スポットと言われているのかについて、探っていきます。

    常紋トンネルとは

    常紋トンネルとは何なのか分からない、聞いたことがないという方もいるかもしれません。まずは、常紋トンネルがどこにありどういったものなのかについて、探ってみましょう。基本的な情報から覚えていくのも大事です。

    常紋トンネルのある場所

    常紋トンネルは、JR北海道石北本線に存在する単線非電化の鉄道トンネルです。生田原駅と

    金華信号場の間に位置し、遠軽町と北見市を結んでいる常紋峠の下を通っています。トンネルの全長は507メートルです。

    常紋トンネルへの行き方は?

    常紋トンネルは今でも使われている路線であり、列車が運行されています。直にトンネル内に立ち入ることはできない(徒歩での立ち入り厳禁)ものの、列車を利用すると訪問可能です。訪れるとするなら、石北本線の常紋トンネルを通る列車に乗るのがカギとなっています。

    常紋トンネルが心霊スポットとして有名な理由

    全国各地に心霊スポットと呼ばれる場所は存在するものです。常紋トンネルも心霊スポットとして有名なのを知っているでしょうか。ここで、常紋トンネルがなぜ心霊スポットと言われているのか、その理由について紹介していきます。

    常紋トンネルはなぜ心霊スポットとして有名なのか

    常紋トンネルは、凄まじく過酷な『タコ部屋労働』という労働環境下で建設されました。"タコ"とは本州より集められた労働者のことを指し、僅かな食事と過酷な労働により工事が完了する1914年10月までに死者100人以上を出したのです。

     

    凄惨なタコ部屋により亡くなってしまった労働者達は、トンネルが完成した後に発生した十勝沖地震で人骨が発見されるまでの間存在さえも知られずに供養がなされていませんでした。生前だけに留まらず死してもなお邪険に扱われた労働者達の無念さは、霊として現れ心霊現象として現れるようになったとされています。

     

    その心霊現象は、1914年のトンネル開通当時から付近で発生していたのです。

    常紋トンネルでの体験談

    常紋トンネルでは、色々な方が心霊体験をされています。ここでは、皆さんの心霊体験を幾つか紹介していきます。一体、皆さんはどの様な体験をしたのでしょうか。早速見ていきましょう。

    血だらけの男が立ちはだかるトンネル

    氷雨が降っているある日の夕方に、普段通りに蒸気機関車が暗い常紋トンネルに入ったら、いきなり蒸気機関車の前には頭から流血している男の姿が現れたのです。慌てた機関士は列車を急停止させて直ぐに機関車から降り調べたものの、誰もいませんでした。

     

    何か見間違えたのかと思った機関士は再度機関車を走らせたのですが、またしても流血している男が現れました。機関士はまた急停止させたものの、流血している男のその形相が目に焼き付き、目を瞑り結局機関車を発車できなくなってしまったのです。

     

    終いには、とうとう後続の機関車の機関士が代わり停車した機関車を動かすことになったのでした。

    突然に列車が停車し車掌は怯えていた

    ある方が網走から札幌へと向かう途中の夜行列車に乗っていた際に、『留辺蘂』という駅で僅かに停車してから常紋峠に向かい徐々に高度を上げていきました。常紋峠の最高潮へと到達する前の、最後の駅となる『金華駅』に着いた際に分けもわからず列車が停車したのです。

    ダイヤの通りであれば通過するはずと考えていると、また発車したまたま通った車掌に事情を聞いたら「走行中にブレーキ系統に異常が出たと警告サインが出たため調べるために停車した」ということでした。

    その結果、ブレーキのテストをしても問題なかったため再度出発したということです。ところが、その車掌は決してその方の方を見ようとせずに何かに怯えているようでもあったのでした。

    骸骨に足首を掴まれる

    常紋トンネルは 幽霊が出るだとか呪われるとか色々と言われている場所ですが、その周辺は人があまり出入りしないこともあり、山菜が沢山自生していました。この付近に住むある40代の女性は、近くに山菜採りに出かけて帰ろうとした際に右足が動かなくなってしまったのです。

    何かに引っかかったように感じられたのですが、木の根にでも引っかかったのかと思ったら、足首を骸骨の手に掴まれていました。恐怖に振りほどいて駆けだしたものの、幾度も転んでしまい、その傍には骨が散らばっていたとされています。

    後日、トンネル内から人骨が見つかったと聞き、女性は2度とその場に近づかなかったのでした。

    うごめく黒い影

    ある撮り鉄の男性が夜行列車に乗っていたそうです。その際に、深夜近くなって列車は常紋トンネルに差し掛かりました。トンネルに入る警笛が鳴り響いて暫くしたら、血生臭いような汗臭いような臭いが立ち込めてきたのです。

    それから袋に割れた陶器を入れて引きずっているような、『ぐしゃり』『がしゃり』という音が聞こえてきました。男性が恐怖で廊下を覗いてみると、人の形のような黒い影が廊下でゆらりとうごめいていたのです。

    暫くしたら影は消えたのですが、男性は茫然としていました。すると、『お客さんも見ましたか?』と見回りをしていた車掌が声をかけてきました。男性は冷や汗が止まらなかったといいます。

    タコ部屋労働とは

    常紋トンネルの建設のために集められた労働者達が経験することになった、タコ部屋労働がどういったものだったのかを伝えていきます。実態は、通常では想像もできないものかもしれません。その凄惨な環境は一体どれほどのものだったのでしょうか。

    タコ部屋労働とは

    タコ部屋労働とは、主として戦前の北海道において労働者を長期間にわたり身体的に拘束し、行われた非人道的な環境の元での過酷な肉体労働を指します。タコ労働とも言われていました。

     

    タコ部屋労働で使われていた労働者は"タコ"と呼ばれて、タコ達が監禁された要するに土木部屋をタコ部屋ないし監獄部屋、人夫部屋とも呼んでいたのです。タコ部屋というのは、タコ部屋労働の環境そのものを現すこともありました。

    囚人労働が起源

    タコ部屋労働は、明治維新の後に開拓が開始された北海道において、明治20年代に行われていた“囚人労働”が起源となっています。1870年代の北海道では、開拓をするために屯田兵が配置されて、道路が沢山切り開かれていきました。

    主要となる道路や鉄道の建設をするとしたら、屯田兵のみでは数が足りず道内にある集治監(しゅうじかん)に収監されていた囚人を建設の労働力として充てることとなり、空知にある樺戸集治監もしくは後の網走刑務所となる北見の釧路集治監網走分監の囚人が従事することとなったのです。

    労働条件

    タコ部屋での労働条件というのは、虐待とも言えるほどに凄まじいものでした。早朝3時より深夜まで過酷な重労働を強要されるのです。残りの時間というのは、粗末な部屋に監禁状態となり食べ物も僅かしか与えてもらえないのが実情でした。

    そのため栄養失調となってしまい多くの人が亡くなったのです。こうした状況のため、脱走をした人もいました。その脱走者は捉えられてしまい、見せしめのために凄まじいまでのリンチあるいは拷問を受けました。

    もし無事に脱走できたとしても、遭難するなどして死亡してしまうことも少なくなかったのです。栄養失調や病気、リンチ等により志望者が多数出たものの、遺体は雑に扱われ遺棄されました。賃金は支払われてはいましたが、大体が生活費として取られ実際にはただ働きのような状態であったとされています。

    常紋トンネルでのタコ部屋労働経験者の手紙

    ・労働は深夜の3時から夜が更けるまで行われる
    ・耐えられないほど重いものを強制的に担がされ胸骨がベキベキと軋む音が聞こえた
    ・病気になっても治療は受けさせてもらえず回復の見込みがない者は線路の下に生き埋めにされる
    ・月に2回巡査が見回りにくるが遺体の存在は金でごまかす
    ・逃げ出した労働者を業者が銃を持って追いかけていった
    ・捕まった者は見せしめとして火炙りにされたり、裸に酒を吹きかけられ蚊責めにされた
    ・熊に襲われた者もいた

    出典:https://career-find.jp

    上記は、タコ部屋労働がいかに過酷だったかを表す、手紙の文章です。常紋トンネルで働かされていた人が、姉に描いた手紙となっています。これを書いた人は、家出をしたときに公園で声をかけられたとされているのです。

    口車に乗せられて騙され、北海道にあるタコ部屋に送り込まれたのでした。

    働けなくなったら人柱となって生き埋めにされた噂があった

    常紋トンネルでは、タコ部屋で働かされ亡くなっていった人達の人柱がたてられたという噂があります。それに、労働環境が酷かったうえに見せしめとしてトンネル内に人柱がたてられたという噂もあるのです。

    また、現場の監督に歯向かったことでスコップで撲殺し、人柱としてトンネルの中に埋めたという話もあります。

    常紋トンネルの人柱の噂は本当?

    “人柱”というと何やら穏やかではない感じがするでしょう。しかし、それが何なのか分からないという人もいるかもしれません。ここで、人柱とは何なのか、人柱にされたという噂は本当なのかについて迫っていきます。

    人柱とは

    人柱は、古代より世界各地で診られた人身御供(ひとみごくう)の一種です。どういったものかというと、規模の大きな建築物を造る際に、その建築物が災害などにより壊れたりしないように神へと祈願する目的で、建築物の内部もしくはその周りに生贄として人を土中に埋めたり水中に沈めたりするのが主だったとされています。

    噂は本当かどうか

    人柱があったという事実は、十勝沖地震がきっかけとなりその存在が判明しました。マグニチュード8というとても強い地震であり、常紋トンネルの壁面も損傷したのです。その改修工事が行われた際に、立ったままの人骨が発見されました。

    人柱としてたたされる人というのは、基本として生きたままの状態で生贄とされます。頭蓋骨が損傷している遺体もあったことから、生前に無理に埋められたことが推測されるでしょう。死亡後に埋められたわけではないということです。よって、常紋トンネルの人柱の噂は現実であったと考えられます。

    供養のための慰霊碑がある

    1980年に『常紋トンネル工事殉難者追悼碑』という慰霊碑が建てられました。これは北見市の留辺蘂町に所在する金華駅の高台にあり、死んでいった労働者達の功績をいつまでも伝えていくために建てられたのです。今は、この慰霊碑は誰でも参拝できるようになっています。

    もし慰霊碑の参拝に行くとしたら、昼間に訪れるのが一案です。帰りに関しては、生田原駅周辺の電車の本数がとても少ないために、注意をする必要があるでしょう。

    常紋トンネルは現在使われているのか許可なしで入ると?

    常紋トンネルは今もなお現役で使われているトンネルであり、石北本線の途上にあります。その常紋トンネルは、無許可で入るとどうなるのでしょうか。その実態について見ていきます。

    勝手に入れば恐ろしい自体になる

    常紋トンネルに勝手に侵入してしまうと、幽霊に遭遇するよりも恐ろしい事態になりかねません。まず現在も利用されているトンネルですし、通過する列車にはねられてしまう危険性があります。それだけでなく、軌道敷内に侵入すれば刑事責任を問われてしまうこともあるため、十分注意をしなくてはいけません。

     

    勝手に入ることだけはNGなのです。

    電車に乗った人の話

    常紋トンネルは今も昔と変わらず存在していて、その場所は山に囲まれていて人家もないのです。電車に乗った人は、昼間であっても暗そうに感じるとしています。トンネルの中に関しては空気が冷たくてカビ臭い印象なのだそうです。

    また、列車が常紋トンネルに差し掛かると入る手前で悲しさを含んだような警笛を鳴らすとされています。507メートルあるトンネルを抜けると、かつて無人の信号所だった場所は草で覆われているのです。

    信号所だった際には、スイッチバックになっていてその頃は普通列車はスイッチバックに入って特急列車などの待避をしていました。常紋トンネルを抜けたなら、列車は下り坂を軽快に走行していきます。

    常紋トンネルがテーマになっている物語もある

    タコ部屋労働や心霊スポットとして有名な常紋トンネルですが、物語にも登場しているのを知っているでしょうか。ここで、その物語について紹介していきます。ぜひ手にとって読んでみてください。

    作者は蛭田亜紗子

    常紋トンネルが登場する作品を書いたのは、小説家の蛭田亜紗子(ひるたあさこ)です。北海道札幌市出身であり、現在も住んでいます。2010年に『自縄自縛の私』という作品でデビューしています。こちらの作品は、2013年に竹中直人が監督し映画化されています。

     

    2017年6月からは、NHK北海道地方放送番組審議会の委員も務めているのです。

    『凛』という作品に常紋トンネルが登場

    常紋トンネルが登場する蛭田亜紗子の作品は『凛』という物語です。大正時代を舞台に、八重子という女性が網走の遊郭にやってきますが、知人に預けていた愛する息子・太郎が亡くなったことを知ります。

    それをきっかけに、八重子はこの遊郭でトップに昇り詰めることを誓うのでした。『凛』という物語は、この八重子の話を現代の大学生である上原沙矢が知ることになるという話です。

    常紋トンネルやタコ部屋労働はどこで登場するのか

    大正3年に八重子が本州から北海道へと渡る青函連絡船の船中で出会った男性が、白尾麟太郎でした。青函連絡船を降りた後は別々の道を行く2人でしたが、後にまた出会うことになるのです。この白尾麟太郎が、ひょんなことからタコ部屋で働くことになり、それまで裕福だった暮らしがガラリと変わり、生きるだけで精一杯の日々に突入するのでした。

    ここで常紋トンネルが登場するということです。そして八重子と白尾麟太郎は、互いに過酷な運命の中でも生きる意味を探していきます。

    『この、タコ!』という悪口はタコ部屋労働が由来になっている?

    あなたは『この、タコ!』などという悪口を言っているのを聞いたりしたことがあるでしょうか。“タコ”という言葉が登場しますが、果たしてタコ部屋労働とは関係があるのでしょうか。言葉の意味や由来について見ていきましょう。

    『この、タコ』はもう死語

    『この、タコ』という罵りの言葉は、最近ではあまり聞かれません。90年代頃までは聞くことがあったのですが、今の若い人からすると古くて死語でもあると認識されているようです。ある学生の方も、今では『死ね』などといった『タコ』よりも辛辣な悪口がネット上やリアルな世界などで言われるようになっていますが、『タコ』の方が人情味を感じると言っています。

     

    今は非人情的な悪口も溢れていますので、それに比べたら『タコ』と言われた方が、まだ救いがあるかもしれません。

    『たこ』は大阪弁だった

    『この、タコ』は標準語かと思っている人もいるかもしれません。しかしそうではないのです。『タコ』は大阪弁の罵りの言葉であり、『ぼけ』や『すかたん』と同じように使われています。

    例えば、大阪の小売業では売り上げがなかった日を『タコ』もしくは『ボンさん』と言うのです。

    『この、タコ』は古くは江戸時代から

    上記の通り、タコ部屋労働者を侮蔑する意味で『タコ』という言葉が残っていたというわけではないことが分かるでしょう。『タコ』の由来には諸説あるものの、江戸時代に旗本がしていた口喧嘩というのも有力です。

    江戸時代は士農工商という風に身分制度があって、旗本の身分になる武士の中にも階級がありました。武士の中でのランク付けというのは、将軍に直に会うことのできる『御目見得』であるかどうかがカギとなったのです。

    『御目見得』以下であれば将軍に会えないので、『イカ』という呼び方で蔑まれていたのでした。そこで、『イカ』と言われた側も『タコ』と言い返して喧嘩をしたということなのです。

    これが、一般的な罵声として江戸時代から広まっていったということになります。

    タコ部屋は今でもあるのか

    かつて北海道で過酷な環境で強制的に労働をさせられていた、タコ部屋は現在はあるのでしょうか。現在では『働き方改革』などと言われている時代ですし、タコ部屋はあってはならないでしょう。

    ここでは、タコ部屋が現在でもあるのかどうかを見ていきます。

    現在は禁止となっている

    タコ部屋労働は強制労働の一種になりますが、現在の日本においては労働基準法により禁止となっています。表面上は、タコ部屋労働は無くなっているということでしょう。タコ部屋労働のような働かせ方は、高度経済成長期までは見られたのですが、その後は鎮火してきていますし、立ち入り調査が入ったりすることもありタコ部屋労働をさせることは現実的に困難となっています。

    闇金で返済できない人が行く場所

    実情では、闇金で返済できなかった人が行くところをタコ部屋と呼ぶとされています。しかし、今の日本ではタコ部屋という呼び方は法的に相応しくないため、大々的なニュースにはならないのです。

    それでも、闇金からの返済が間に合わずにタコ部屋のような環境下で働いている人が、今でもいます。ある初老の男性は、20年ほど前に1か月くらい返済が遅れたことで、タコ部屋へと送られてしまったのです。

    初めに借りた額は5万円だったのですが、10日で1割という利息が膨れ上がって、返済不可能となり山間部にあるタコ部屋で労働をすることになりました。

    寮完備のはずが行ってみるとタコ部屋だった

    借金の返済ができない多重債務者が送られるという点は上記とも同様ですが、寮が完備されていて食事もついていると聞き、行ってみたらタコ部屋だったというケースもあります。要するに、騙されたということです。

    現在ではタコ部屋とはい言わず『00寮』と言われる場所が多く、砕石場での仕事という募集がされることもあるようです。給料は9,000円とされていますが、寮の管理費や家賃そして食費等が差し引かれて、手取りは2,000円ほどしか残らないとされています。

    常紋トンネルはタコ部屋労働で建設された

    道路や何かの建築物を造るとしたら、多くの労働者の手が必要になるものです。それはどこもいつの時代も変わらないでしょう。労働者の過酷な作業の上で建築されているということも、忘れてはいけないのです。しかし、日本の各地にはかつて“タコ部屋”と呼ばれる建築現場などがありました。

    騙されて連れて来られたあげくに、過酷な労働条件のもと働かされて死んでいった人もいるのです。その中には生きたまま生贄とされた人もいて、無念のまま亡くなっていったのだろうと推測できるでしょう。そうした方々の無念さが、今もなお漂っているのかもしれません。それもあって、心霊スポットとも言われている可能性もあります。タコ部屋という言い方は現在では言い方はされなくはなったのですが、似たようなことは今もなお続けられているのです。

    こうしたことは、労働者の人権はまるで無視したような状態であると考えられますし、一日でも早く、こうしたタコ部屋のようなことはなくなってほしいものです。そして、常紋トンネルには、安易には近づかないのがベストであると言えます。

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