木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
「秋田県連続児童殺人事件」の畠山鈴香容疑者をご存知ですか?当時秋田県で起きた事件で、母親が子どもを殺害するという衝撃的な事件でした。今回は畠山鈴香の事件の動機などについて紹介していきます。
畠山鈴香は2006年に秋田児童連続殺害事件の容疑者として逮捕されました。この事件では、我が子を含めた2人の幼い命を奪い痛ましい事件として世間から注目されました。
畠山鈴香はなぜ可愛い我が子を殺害することに至ったのでしょうか?今回は秋田児童連続殺害事件の概要や、畠山鈴香の生い立ちから現在に至るまでについてご紹介します。
秋田児童連続殺害事件とは、2006年に起きた痛ましい事件です。同年4月10日に畠山彩香ちゃんの遺体が、同年5月18日に米山豪憲くんの遺体が発見され、彩香ちゃんの母親であった畠山鈴香が犯人として逮捕されました。「秋田児童連続殺害事件」という事件名ではピンとこなくても、畠山鈴香という名前を聞けばイメージが浮かぶ方も多いのではないでしょうか?
またこの事件において畠山鈴香の奇行もかなり話題になりました。畠山鈴香は自ら「畠山鈴香ちゃんの消息を求めるビラ」を撒いたりと、常軌を覆すような行動を取っています。更に「寄せ書き」を始めとして、畠山鈴香の幼少期の悲惨な生い立ちも注目され、今でもドキュメンタリーで定期的に取り上げられるほどです。
「人を殺傷することが悪いことなのは知っていますが、なぜ悪いことなのですか?」というような普通では考えられないような言葉を発した畠山鈴香についてご紹介します。
秋田児童連続殺傷事件は、2006年の4月10日に畠山鈴香の娘である畠山彩香ちゃんの遺体が川で発見された事から発覚しました。畠山鈴香は前日の4月9日に「娘が帰ってこない」と110番通報を行っており、発見は捜索が開始されてすぐのことでした。
現場の川は畠山鈴香の自宅から南へ10kmほど離れた場所にあり、警察は「水死体」として処理をしています。そうなると死因は溺死の可能性が高いです。「何故自宅からここまで離れて水死していたのか?」と言った疑問は拭えませんが、警察は彩香ちゃんの死因を「事故死」と断定します。
しかしこの後の一連の流れによって驚愕の真相が判明していく事となりました。
畠山彩香ちゃんの発見の1ヶ月後の5月18日。ジョギング中の男性に先日から行方不明に鳴っていた米山豪憲くんが川の付近で発見されました。彩香ちゃんとは違って水中ではなく、川岸から離れた草むらで発見されています。
豪憲くんの死因は「溺死」ではなく、遺体に索条痕があったことなどから、何者かによる「絞殺」でした。こうしての豪憲くんの事件は「殺人」として捜査本部が設置されることとなりました。
豪憲くんの事件は彩香ちゃんの時と違い「殺人事件」と断定されたことから、秋田児童連続殺害事件は大きく姿を変えていきます。真相は後ほどに。
秋田児童連続殺害事件の犯人は畠山鈴香であることは周知の事実ではありますが、深層に振れる前に畠山鈴香の悲惨な生い立ちについて説明する必要があります。
自らの娘を手に掛けた上に捜索願まで出し、それでは飽き足らず米山豪憲くんまで手にかけた畠山鈴香は一体どんな幼少期を送っていたのでしょうか?そこには性格を歪ませるには充分な、恵まれない家庭環境がありました。
秋田県能代市で運送会社を経営する父親と元スナックのホステスをしていた母親との間に誕生した畠山鈴香。
畠山鈴香は小さい頃から父親に虐待を受けていました。それもかなり過剰な暴力で「髪を引っ張られて殴る蹴る」は当たり前で、常に生傷が絶えなかったと言われています。暴力被害は母親も同様であり、報復を恐れた母親、また5歳年下の弟は畠山鈴香を助けることはできませんでした。
幼少期の経験というものは成長しても大きく影響するものです。常に虐待と隣り合わせだった畠山鈴香は自分を表現することが極端に苦手になりつつも、親に愛されていなかったという想いから承認欲求が強くなっていったのかもしれません。
それは「男性依存」を始めとした後の奇行にもまざまざと現れているのですが、畠山鈴香の幼少期の受難はまだまだ続くこととなります。
父親からは暴力を受け、母親は見て見ぬふり。虐待とネグレクトが渦巻く家庭環境に置かれていた畠山鈴香でしたが、それは学生時代も同様でした。
家庭で暴力を受け自己否定ばかりされたためか、学校で挙動不審な行動に出てしまい小学生から高校生時代にかけて一貫していじめを受け「ばい菌」「心霊写真」と言うひどいあだ名を付けられていたそうです。
小学校時代のいじめの詳細は多くは語られていませんが、家庭環境もあって自分をうまく出せず、性格も歪んでしまっていたことは想像にたやすい話です。そしてそう言った「暗めの子」「馴染めない子」「浮いている存在」は小学校ではいじめのターゲットになりやすいですよね。
小学生は感情の自制が効かない世代だからこそ「異質なものを排除」したいという感情を隠しません。子供が残酷と言われる所以でもあります。ひどいあだ名もこの頃に付けられたそうです。
こちらが高校生の卒業文集の寄せ書きとなります。小学生から始まったいじめは高校卒業まで尾を引いていた証拠でもありますね。卒業アルバムには「会ったら殺す!」「秋田の土は二度とふむんじゃねえぞ」「山奥で一生過ごすんだ♪」など、心無い言葉が書かれていました。
畠山鈴香は最早「虐められても平気なキャラ」「皆の楽しいサンドバッグ」と化していたのでしょう。
このように畠山鈴香の学生時代は一貫して「存在否定」を主とたいじめが続いています。畠山鈴香は精神的な安息も無ければ「愛」を知ることもありませんでした。それが後の悲劇につながったとも言われています。
畠山鈴香は逮捕後に売春行為をしていたと裁判所で認めています。はっきりと明言はされていませんが、高校時代から売春を行っていたとされており、地元でも噂になっていたようです。また、異性に誘われるとすぐに関係を持ってしまう「尻軽」としても有名でした。
鬱屈した承認欲求の現れとも言えますが、こういった事実もいじめが加速する一因だったことは間違いありません。それでもいじめは肯定してはいけませんが。
散々な家庭環境と学生時代だった畠山鈴香ですが、高校卒業後は地元から離れ、いじめからも冷え切った家族からも解放されることとなりました。この項からは畠山鈴香の学生卒業後の足取りについて見ていきます。
畠山鈴香は高校卒業と同時に栃木県の温泉ホテルに、仲居として住み込みで働くこととなりました。プライベート周りについては後ほど触れますが、仕事っぷりの情報は殆どありません。勤務態度は真面目だったのか不真面目だったかも不明ですが、後述します「売春」疑惑もあり、二足の草鞋を履いていたのかなとは推測できます。
栃木行きのきっかけは友人を通じて知り合った男性と、駆け落ちのように地元から逃げたそうです。その男性ともやはり関係はあったようですが、長続きはしていないようですね。
畠山鈴香自身が罵詈雑言の卒業文集の寄せ書きに対して「すぐに帰ってくることはない」と返事を書いていることから、地元を離れる決意は硬かったと思われます。散々な学生時代だったのですから、そう思うのも仕方ないことでしょう。就職が畠山鈴香にとって救いだったのかも知れませんね。
しかし地元から離れた生活も3年目に終わりを迎えます。「男性に声をかけられるとすぐについていく」畠山鈴香は就職してもその悪癖が抜けず、ついに21歳の頃に子供ができてしまったのです。
地元から離れ安息を得ていたと思われる畠山鈴香。しかし抑圧された感情の一種のはけ口として男癖が非常に悪い性質は改善される、遂に妊娠していまいました。こうして地元に戻る事となった畠山鈴香ですが、その結婚生活はどうだったのでしょうか?
仲居時代の情報は少ないですが、学生時代から囁かれていた男癖の悪さはさらに悪化。「声をかけられれば誰にでも付いていく」から「自分から声を掛けて関係を持つ」と、とにかく尻軽っぷりに磨きがかかっていたようです。「売春」をしていたという証言もありますので、自らを積極的に売っていた部分もあるのかもしれません。
仲居時代の3年間の間に両手で収まりきれない数の男性と寝たとされている畠山鈴香ですが、避妊に対する意識は薄かったようです。関係を持った男性の一人の子供を妊娠してしまい、遂に年貢の納め時を迎える事となりました。
こうして、畠山鈴香は地元に戻り母親として生きていくのかと思われましたが・・・。
しかし幸せな結婚生活は続かなかったどころか、そんな幸せな時間があったのかも不明でした。地元に戻って家庭に入った畠山鈴香ですが、夫との口論が絶えずにたった5ヶ月で離婚しています。また、夫と畠山鈴香の主張も食い違っています。
夫側→畠山鈴香が全く家事をしなかったため。
畠山鈴香側→家事はしていた。産まれたばかりの娘に暴力を奮った。
このように反論しあっており真相を知る人物もいないため、離婚理由については現在も不明なままです。ただ、結婚のきっかけがきっかけであるため、この結果も見えていたのかもしれません。
たった5ヶ月で離婚し、シングルマザーとなってしまった畠山鈴香。とにかく人間関係に恵まれていない印象が強いのですが、畠山鈴香自身にも素行に問題があったのは間違いありません。特にここまで何度も触れています男癖の悪さと自制心の無さがあり、畠山鈴香は自身の行いの跳ね返りに追い詰められていきます。
シングルマザーとして生活を支えるために、畠山鈴香は様々な仕事に就きます。スーパーのパートやパチンコ店の店員、はたまたコンパニオンをしたりと、畠山鈴香なりに娘の彩香ちゃんを育てようと必死でした。またこの時に売春で金銭を得ていたとも言われています。
生命保険の外交員として勤務していたこともあるようですが、男性と体の関係を持って契約を取っていたと地元では噂になっていました。今までの経歴の学生時代のことから、そう思われてしまうのも仕方ないことかもしれません。
懸命に働いていた畠山鈴香でしたが、そのストレスのはけ口としてギャンブルや夜遊びにもハマっていたそうです。必死に稼いだお金がストレス解消に流れていくのは、夜の商売の人たちがホストで散財するような状況に近く、畠山鈴香もそれに近いものだったのかもしれません。
畠山鈴香は最終的に生活が立ちいかなくなり、2003年に自己破産を申請し受理。生活保護を受けることとなり、極貧生活へと突入しました。家賃・光熱費は滞納し彩香ちゃんの食事はカップラーメンと、その生活水準は低かったと言われています。畠山鈴香の生い立ちはここまです。
そしてその家庭環境から3年後に畠山鈴香が起こした事件が、秋田児童連続殺害事件でした。
栃木から結婚のために戻り、5ヶ月で離婚しシングルマザーへ。生活を支えようともがいたものの、ストレスからか自制が効かずに最終的に自己破産と生活保護へ。その後は彩香ちゃんを育てながら極貧生活を送っていた畠山鈴香ですが、2006年に彩香ちゃんを殺害し、しばらくして米山豪憲くんも殺害していまいます。
最初に概要だけ触れたこの事件ですが、ここまで紹介した生い立ちを踏まえて事件の詳細を説明していきます。
娘の彩香ちゃんは散々な生活環境ではありましたが、畠山鈴香とは違い親から暴力を受けることも、いじめられることなく順調に成長していたと言われています。
しかし彩香ちゃんは2006年4月10日に、自宅から10km離れた川で水死体となって発見さてました。先に述べたとおりに、この事件は警察によって「事故」として処理されます。でも実際の犯人は、母親である畠山鈴香でした。
畠山鈴香は彩香ちゃんの死因が事故だと断定された時に「長女を事故だと断定した警察に不信感がある」として、ビラを配るなどの、自ら彩香ちゃんの消息や事件の真相をを求める行動を起こしました。
犯人自らが事件を風化させないように行動した背景に「犯罪被害者給付金」を目当てに「事故ではなく事件」にしたかったのでは?…とも言われています。それでも事件性が認められないと、供述内容を変えたりするなどの行動から、警察側も畠山鈴香に対し疑いを強めていきました。
畠山彩香ちゃんの遺体発見後から1ヶ月経過した2006年5月17日。彩香ちゃんの家の2件隣に近所に住んでいた米山豪憲くんが、川の近くで遺体となって発見されます。豪憲くんは5月17日から自宅に帰っておらず、家族が110番通報し捜索が行われていました。
近隣付近で相次いだ川の近くでの子供の死亡事件でしたが、彩香ちゃんの時とは違い、豪憲くんの遺体にはいくつかの不審な点がありました。
概要でも触れましたが1番の点として、米山豪憲くんの首に締められた跡があったことです。司法解剖の結果も「首絞めによる窒息死」とされていて、事件性が強まり捜査本部が設置されることとなりました。
またこの「殺人事件」により畠山彩花ちゃんの事件も再び注目され、連続殺人事件ではないのかと疑いが強まり、畠山鈴香の存在が操作線上に上がります。
殺害された米山豪憲くんは7歳で、畠山彩花ちゃんは9歳でした。しかしこのふたりはともだちと言えるほどに仲が良く、2件隣の近所とということもあり畠山鈴香とも面識がありました。故にその関連性が更に疑われることとなります。
こうして、畠山鈴香は「娘を事故で亡くした不幸な母親」から「殺人容疑者」として姿を変えていくのです。
事件後、記者が畠山鈴香の自宅に訪問し家を撮影した際、写真には畠山鈴香の家の中から少年が外を見ている姿が映し出されていました。
この現象に対し、週刊誌は米山豪憲くんの畠山鈴香に対する怒りのためあの世に行くことができず、幽霊として畠山鈴香の家に宿っているのではないかと言われています。
事件性を求める声に二転三転する証言。娘を始めあまりに自分に近しい子どもたちが亡くなっていく事実。畠山鈴香は容疑者として疑われることとなりますが、この項では畠山鈴香の逮捕前の不可解な発言について見ていきます。
あまりの不可解さに精神障害説などもありお、本人も強く否定はしていませんが、その真相は今もベールに包まれているようです。
先に触れていましたが、いくら「犯罪被害者給付金」が欲しかったとは言え、事件性を訴え真相が明らかになれば逮捕されるのは畠山鈴香自身です。上手くやり過ごせそうだったのに、逮捕されてしまっては給付金も貰えませんし、殺人事件なので重刑も避けられないでしょう。この行動も不可解の一つとされています。
証言も聞くごとに全く違う事を言うなど、発言が安定しないことが捜査が難航した理由の一つでもあるようです。後々わかってくることですが、捜査撹乱の意味は薄く、これも畠山鈴香の異常性の一つでもあります。
事件性が強まったことと畠山鈴香の数々の疑わしい証言から、最終的に畠山彩香ちゃんの「事故」も「事件」として再調査が行われることとなりました。ある意味では畠山鈴香が思い描いた通りとなったのです。
しかし結局、逮捕されてしまったのは真犯人である畠山鈴香自身でした。
事件性が取り沙汰され、畠山鈴香への疑いの目が強くなっていく中、ついに畠山鈴香は「死体遺棄」の容疑で逮捕されます。それは米山豪憲くんの事件から約2週間後の2006年6月4日の出来事でした。畠山彩香ちゃんの事件からは2ヶ月が経過した頃となります。
この逮捕から芋づる式に彩香ちゃんの殺害も発覚していくわけですが、その背景には何があったのでしょうか?
逮捕の決め手は畠山鈴香の自宅に強制捜査が入ったことでした。その自宅からは米山豪憲くんの自宅から米山豪憲くんの血痕及び、それに混じって畠山鈴香の体液も発見。これが有力な物証となり、まずは「死体遺棄容疑」として逮捕されたのです。
警察側は死体遺棄として身柄を拘束したあとは、殺人の実行犯として更に捜査を強めていきます。
逮捕後の畠山鈴香は殺害をほのめかす供述を始めますが、その供述に関しても発言が二転三転しています。特に代表的なのが以下でしょうか?
「長女は『豪憲くんに人形を見せに行ってくる』と言ったきり戻ってこない」と供述していたところを、逮捕から1ヶ月後の7月に「一緒に魚を見に行った際、橋から転落した。気が動転して助けを呼ばなかった」と、今までの証言を全て覆したのです。更にそこから一ヶ月後に「なんで私が犯人なの?」とここまでを否定するなど、手に負えません。
幼少期の散々な恵まれない環境をずっと引きずっている畠山鈴香は、自分自身が被害者遺族になりきっていたとも言われています。劇場型の人格障害なのではは?…と疑問の声も多く上がりました。
発言が安定しない畠山鈴香ですが、そもそも何故自らの子供とその友達を手にかけてしまったのでしょうか? この項では畠山鈴香の動機について見ていきます。
畠山鈴香が娘の彩香ちゃんを手に掛けた動機ははっきりしていません。デリヘル時代に自宅に客を呼んだ時は外に追い出したり、不潔な身なりをしていたなどの虐待疑惑もあります。しかしその反面、彩香ちゃんが「欲しい」と言えばそれを買ってあげるなどの愛を注いでいたようにも思えます。
しかし最終的には畠山鈴香は「娘について生理的嫌悪があり、世話を焼くことも触ることも嫌だった」と証言していることから、自分にとって邪魔な存在だから排除したということにまとまっています。しかし本人は最後まで殺意は否定していました。
米山豪憲くんの殺害の供述も二転三転していますが、最終的には豪憲くんに声をかけて「彩香の思い出に何か貰って」と声をかけて自宅に招き入れた時に、殺害を決意したようです。
「彩香は居ないのに、なんでこんなに元気なの?」
…と、鬱屈した娘への感情と同時に、ここで豪憲くんが殺せば「事件性」が強まるという打算が産まれます。そして殺害に到ったとのことでした。彩香ちゃんの事件について、畠山鈴香はずっと「事件性」を主張していたのは変わりありません。恐らくは「利用するため」に殺したと言うことなのでしょう。
畠山鈴香の精神状態や発言もあり、裁判までの流れは難航します。結局、事件から約2年後の2008年3月に「無期懲役」の判決が秋田地裁で畠山鈴香に言い渡されました。そこから控訴などの流れがあり、最終的に2009年の5月19日に無期懲役刑が確定しますが、それまでの流れはどうだったのでしょうか?
畠山鈴香の一つのエピソードとして、米山豪憲くんの両親に号泣土下座をしたという話があります。決着までに何度か裁判は開かれていますが、傍聴していた豪憲くんの両親に謝罪をした時があったのです。
畠山鈴香は豪憲くんの両親に対し「大事なお子さんを奪ってしまって申し訳ありませんでした」と涙を浮かべて謝罪した後に、サンダルを脱ぎ、豪憲くんの両親に向かって土下座しました。母は号泣し、父はその様子を黙って見つめていたと言われています。
裁判は長引き、初公判から結審まで13回もの裁判が行わえる形となりました。しかし最終的に「殺意を以って」殺害事件を起こしたとされ、畠山鈴香の刑罰は無期懲役が確定しました。
今現在も畠山鈴香は刑務所で服役中です。無期懲役であるため、死ぬまで刑務所内で作業を強いられる事となります。30年以上経過すると「仮釈放の候補」としてあげられる事もあるそうですが、釈放されるケースのほうが少なく、もう世間に出てくることはないのかもしれません。
凶悪犯罪者の親族は、世間的にパッシングを受け、真っ当な生活を送られなくなることはよくある話です。畠山鈴香の親族も多分の例に漏れず、事件の後に世間から非難の目を浴び、その後の人生に大きな影を落としています。
弟の情報に関しては少ないですが、畠山鈴香の逮捕前は運転代行業者として働いていました。しかし事件後には同僚やお客様から畠山鈴香のことに関して聞かれることが増え、2007年に退職してしまいます。
それ以降もハローワークなどに通い就職先を探していたようですが「畠山鈴香の弟」というレッテルが影響し、再就職はできませんでした。しかし責任感を感じていたのか、裁判の傍聴には必ず顔を出していたようです。
現在は生活が立ちいかなくなかった結果、実家に戻り母親とともに生活保護を受けて弟は暮らしていると言われています。母親と離婚した後に他界したそうで、父方の親族とは絶縁関係にあるそうです。
やせ細っていたという目撃情報もありますが、目撃談も情報も少なくはっきりしていないのが現状のようです。ただ一つ言えますのは、塀の中で軽作業に従事している畠山鈴香よりも、下手を打てば状況は悪いとも感じられます。
俳優兼リポーターとして活躍されている阿部祐二さんは、秋田児童連続殺害事件で他のどのリポーターよりも畠山鈴香やその関係者に接近することができたようです。
阿部祐二さんが畠山鈴香に接触した時の印象などについてご紹介します。
阿部祐二さんは秋田児童連続殺害事件にもっとも食い込んでいたと言われています。
畠山鈴香の最初の印象はどうか尋ねられると、「暗いという印象があった。口数が少なく、いつも『具合が悪い』と言い、面会を避けているような感じだった。そのため、彼女の母親へ取材することが多かった。」と話されていました。
阿部祐二さんはどのメディアよりも畠山鈴香に接触していたため、他のメディアから誹謗中傷を受けていたこともあったのだとか。
阿部祐二さんは畠山鈴香に接近するため、何度も自宅に足を運んで少しずつ信頼を得ていたにも関わらず、他のメディアは「阿部祐二と畠山鈴香が男女関係にあるのでは?」と変な噂を報じるところもあったようです。
秋田児童連続殺害事件の犯人である畠山鈴香。未だに発言の真意が掴めず、不透明な所も多いです。精神的に不安定なところがあったのは確かだったようで、逮捕前から「精神安定剤」や「睡眠薬」に頼りがちな生活で、度々にちょっとした騒動を起こしていたそうです。
起こした事件に同情はできませんが、幼少期から学生時代の生い立ちにより、畠山鈴香は人格が大きく歪んでしまったことは間違いありません。虐待・いじめのオンパレードからの抑圧された承認欲求から「男性依存」「性依存」に走ってしまったとも言われています。
現在でも度々、幼少期のいじめや虐待・ネグレクトを受けた子供が成長し、何かしらの事件を起こすことは珍しくありません。秋田児童連続殺害事件のような事件を繰り返さないためにも、子供のヘルプサインを見逃さないように生活してていきたいものですね。
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【この記事は2021/12/18に更新されました。】