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    リンゼイアンホーカー殺人事件の犯人、市橋達也の逃亡劇の真相とは?

    リンゼイアンホーカーさんという英人女性が殺害された事件をご存知ですか?その犯人である市橋達也さんは整形を繰り返し2年7ヶ月もの期間逃亡を続けました。市橋さんの生い立ちや経歴、事件の真相、市橋達也さんの現在について詳しくまとめてみました。

    リンゼイアンホーカー事件とは?

    リンゼイアンホーカー殺人事件とは2007年の千葉県市川市福栄で発生した、英会話教師のリンゼイ・アイ・ホーカーさんが殺害された事件です。正式名称は「市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件」とも言われます。

     

    そしてこの殺人事件の犯人が「市橋達也」です。事件名を聞いてぼやけても、この犯人の名前を聞くとピンとくる人も多いのではないでしょうか?市橋達也は事件発生の2007年から2009年の間に整形を繰り返しながら逃亡。交番に行けば指名手配の写真も目立つ所にいつも貼ってありましたよね。

     

    この記事ではそんな市橋達也が引き起こしたリンゼイアンホーカー殺人事件の長きにわたる壮絶な逃亡劇や、事件の詳細に迫っていきます。

    市橋達也の生い立ち

    リンゼン・アイ・ホーカーさんを殺害し2年もの間整形を繰り返し逃亡生活を続けた市橋達也。しかし市橋達也の生まれや生い立ちは、犯罪とも貧困とも無縁のものでした。

    市橋達也の経歴

    エリートの家系に生まれ、両親の期待を一身に背負っていた市橋達也。学生時代も地元の進学校に進んでおり、運動神経抜群で成績もよく、更には顔も良いといった非の打ち所のない人物だったと言われています。

    そんなエリートだったはどんな学生時代を送ったのでしょうか?

    市橋達也の親や家族は?

    市橋達也は父親が愛知県の病院の外科医、母親が歯科医と言ったエリート夫婦の子供として、岐阜県羽鳥市の閑静な住宅街にある裕福な一軒家に生を受けました。また、姉も存在します。両親は口には出さなかったそうですが、市橋達也に医者になることを期待していました。

    しかし市橋達也はそんな両親の期待を受け取ったのか、幼少期から医者を目指しており、母親の話だと子供の頃はとにかく良い子だった反面、感情を抑えることが苦手であるとも語っています。

    市橋達也の中学・高校時代は?

    学生時代のこれと言った挫折はなく、中学時代はバスケット部で副キャプテンを勤め成績も優秀。高校も地元名門校に入学し、陸上部へ。学園では一番足が早く、顔立ちも整っていたから非常にモテていたそうです。

    運動神経も抜群の傍ら、成績も非常に優秀かつ、絵が上手。更には生徒会長も務めており、男女問わず構内の憧れの的である、人気者でした。

    通っていた中学校や小学校は定かにはなっていませんが、通っていた高校は地元の進学校である羽島北高校に進学しています。偏差値は54と全国平均で見ればぼちぼちで、その慢心が次の大学受験からの転落に繋がっていたとも言われています。

    市橋達也は大学を四浪していた

    市橋達也のエリート学生人生は高校までとなり、進学先として医学部を目指すも合格に届きませんでした。浪人を続ける中で横浜国立大学(2部)にも合格していますが、医学部ではないことと夜間であったことからプライドが許さずすぐに中退。

    結局、4浪した後に千葉大学園芸学部に入学し、植物や公園のデザイン、建築について学ぶこととなりました。千葉大学園芸学部の偏差値は58であり決して悪い偏差値ではないのですが、首都圏内ではかなり偏差値は低めとなっています。

    医学部となるとこれ以上のものを求められるのは間違いなく、市橋達也はそこまでの高みには届かなかったのかも知れませんね。

    市橋達也の大学卒業後

    エリート街道を邁進した市橋達也ですが、大学受験で挫折を味わうこととなりました。しかしそもそも4浪の後に大学へ進学していることから、かなり両親の愛を受けたていたことを察せられます。

    この項では市橋達也の甘やかされていた大学卒業後について触れていきます。

    卒業後は実質ニートだった市橋達也

    市橋達也は大学卒業後は海外の大学院に進学するために親が所有していた3LDKのマンションで暮らし始めます。このマンションはリンゼンアンホーカー殺人事件が起きた現場でもありました。

    市橋達也は大学卒業後は無職であり、なんと毎月15万円の仕送りを実家から受け取っており、ほぼ働かないままに暮らしていたと言われています。

    しかしいつまで経っても開学の大学院に進学しない市橋達也を両親は見て、遂に仕送りの停止を通告しマンションからも出ていくようにと最後通告。これが2007年の出来事であり、事件が起きる直前のことでした。

    市橋達也の性格

    高校時代までは文武両道であり、裕福の家庭で育ち人気だったと言われている市橋達也。しかし彼をよく知る方は性格的には良いとは言えない人物であったという証言が非常に多いです。

    この項はそんな市橋達也の人格面について触れていきます。

    市橋達也の性格エピソード

    市橋達也は母親が幼少時から「感情的」「筋が通らないと気が済まない性格だった」と語っているとおりに、文武両道である半面「キレやすい」子供でした。小学生時代に通信簿で担任に「頑張りましょう」と書かれ、通信簿を破り捨てたという一つのエピソードもあります。

    また、小学生時代に「将来は総理大臣になりたい」「夢はオリンピックに出ること」「うまれかわったら秀才になりたい」など、自意識の高さは多少見え隠れしていました。しかし生徒会役員の仕事っぷりも成績も優秀で、教師の間では「多少怒りっぽいが」好かれていたとも言われています。

    外から見た市橋達也の印象や性格

    ここまでが大人の立場から見た市橋達也の印象ですが、次に同級生の証言を見て行きましょう。

    同級生の中では「自分が一番じゃないと駄目なお山の大将」「両親が意思であることの自慢が絶えることはない」「とにかく人の上に立ちたがり、マウントを取ってくる」など、かなりプライドの高さを感じられます。

    生まれも育ちもエリートであり、学校でもちやほやされている上にそれなりに優秀であったため、このような性格になってしまったのでしょうか?

    リンゼイアンホーカー事件の概要

    大学時代に挫折を味わい、卒業後も無職で仕送り生活を続けていた市橋達也。仕送りを停められ窮地に立たされた2007年の3月に、遂に市橋達也はリンゼイアイホーカー殺人事件を起こします。

    この事件で殺害されたリンゼイアイホーカーさん(以後・リンゼイさん)は市橋達也の自宅マンションのベランダに置かれていた、土が埋められた浴槽内で全裸で発見されました。

    これだけなら只の殺人事件で終わったとも言えますが、この事件が有名になったのはこの後、2年7ヶ月にも及ぶ市橋達也の逃亡劇にありました。

    リンゼイアンホーカーと市橋達也の出会い

    被害者となったリンゼイさんと市橋達也の出会いは2007年3月21日。駅前留学NOVAの宣伝の講師であったリンゼイアイホーカーさんに市橋達也は路上で声をかけます。しかしリンゼイアイホーカーさんはそれを拒否して自転車で逃亡。

    しかし市橋達也は走ってリンゼイさんに追いすがり「英会話を教えて欲しい」「水だけでも飲ませてほしいとと頼み込みコムと、日本人を信用していたリンゼイさんは市橋達也は家に招待し、暫くのやり取りの後連絡先を交換。英語の個人レッスンも1時間3500円で引き受けることとなりました。

    3月25日の悲劇

    こうして接点を得た市橋達也とリンゼイさん。その4日後である3月25日に悲劇は起こります。市橋達也の自宅にやってきたリンゼイさんを、市橋達也は殺害してしまうのです。

    この項では3月25日、市橋達也が殺人に至るまでの流れを取り上げます。

    リンゼイアイホーカーさんに性行為を強要

    個人レッスンを受諾したリンゼイさん。市橋達也に近場の喫茶店でレッスンを行いますが、市橋達也が「レッスン料を忘れた。自宅に取りに行くからついてきて欲しい」と依頼。

    この後に市橋達也の自宅に向かいますが、玄関に入った瞬間、リンゼイさんを後ろから抱きしめ、拒絶されてもそのまま廊下に押し倒し、服を破り手足に結束バンドをつけ、市橋達也はリンゼイさんに強引に性行為を強要しました。

    リンゼイアイホーカーさんに許しを請う

    行為後に市橋達也は我に返り、横になったままのリンゼイさんの下にマットレスを敷き、脱がせた服を傍に。汚れてしまったリンゼイさんを市橋達也は洗おうと浴槽まで運びます。この時に市橋達也はカッとなりリンゼイさんの顔を2回殴ったという記録も残っています。

    しかし「許してほしい」と何度も許しを請う市橋達也にリンゼイさんは家族構成や自分の価値観についてぽつぽつと語り始め、まだ取り返しがつくと市橋達也の説得するも、話を聞くだけで市橋達也はリンゼイさんを開放しませんでした。

    リンゼイアイホーカーさん決死の逃走

    開放しないままに市橋達也は眠りにつきます。その数時間後に目を覚まし、浴槽に拘束状態のままで放置していたリンゼイの上体の確認へ。リンゼイさんは浴槽内にいましたが、手の結束バンドが外れていました。

    それに気付いて市橋達也が近づいた瞬間、リンゼイさんは市橋達也を殴りつけ、大声を上げながら逃亡を図ります。しかし足の結束はそのままであったため、すぐに市橋達也にが上乗りになり、抑え込まれる形となりました。

    リンゼイアイホーカーさん殺害へ

    上乗りになっても大声を上げるのをやめないリンゼイさんの顎を市橋達也は左腕で覆います。これは殺害目的ではなく、声を上げ禁呪の住民に気づかれることを恐れた上での行動でした。

    この状態でもまだ抵抗を続けるリンゼイさんを、市橋達也はさらに上に覆いかぶさるように抑えつけ逃げるのを諦めさせようとしますが、暫く続くとリンゼイさんは動かなくなりました。仰向けに起こしたリンゼイさんは既に死亡しており、市橋達也は蘇生を試みるもリンゼイさんが息を吹き返すことはありませんでした。

    リンゼイアイホーカーさんの殺害後

    リンゼイさんを殺害するつもりはなかった市橋達也。この状況が覆らないと理解した市橋達也は、全身の力が抜けて気を失い、12時間後に目が醒めることとなります。しかし目が醒めても目の前で死んでいるリンゼイさんの現実があり、死体の隠蔽へ。

    農園用の土をホームセンターで購入。浴槽ごとリンゼイさんをベランダに出し、上から土をかけて埋めていきました。市橋達也はリンゼイさんの強姦に及んだものの、殺人は事故であり、市橋達也には殺害の意思は無かったとされています。

    警察からの逃亡

    リンゼイさんを殺害してしまった市橋達也さん。市橋達也が居たいを隠蔽した時点で、リンゼイさんは長時間行方不明になっており、既に警察によって捜索が開始されていました。

    先に触れました英会話のレッスンでも喫茶店のカメラに二人で店を出る姿が確認されていることから、市橋達也がリンゼイさんの死体を埋めた日の夜に市橋達也の自宅に捜査員が来訪。職務質問が行われますが、間もなくして市橋達也は逃亡。

    「高校生時代は陸上部で一番足が早かった」俊足を生かし、6人の刑事を振り切ることとなりました。ここから、市橋達也の長い長い逃亡劇が始まります。

    美容整形を繰り返す逃亡生活のはじまり

    こうして市橋達也は警察から逃れますが、所持金5万円以外は何も持たない状態でした。この状況では親も頼れず、考え抜いた末に市橋達也はコンビニで裁縫道具を購入し、公衆トイレで自分の端を縫い人相を変えました。

    また、この時ではありませんが以後も市橋達也は分厚い下唇をはさみで切り落としたり、ほくろを自分で除去したりと逃亡のための自己整形を繰り返しています。

    逮捕までの道のり

    2年7ヶ月にも及んだ市橋達也の逃亡劇。リンゼンホーカー殺人事件を有名に至らしめたのは、この逃亡劇となりました。美容整形を繰り返し北から南まで逃げ続けた市橋達也の道のりをこの項では追っていきます。

    市橋達也は青森県へ

    市橋達也は自己整形後に埼玉・群馬・茨城などの北関東周辺を放浪。闘争資金は5万円しか無いため、無賃乗車を繰り返して移動していました。また、時には眠らないままに歩き続け、とにかく警察の手から逃れようと逃亡を続け、静岡県にたどり着いた時に北上を決定。

    市橋達也は事件直前に友人に「近々遊びに行く」と連絡を入れていたそうで、南方に逃走するのは危険と判断。青森への北上を決定します。

    この後新潟を経て青森県に到着しますが、暫く寝泊まりするうちに青森県の経済状況が良くないと判断し、青森をすぐに離れました。

    市橋達也は南の島へ

    青森を離れた後に市橋達也は大阪府の西成区へ。この時職業安定所に行きますが、そこに貼られていた自分の手配書を見てすぐに大阪府から移動。四国から鹿児島へ、鹿児島から沖縄へと渡ります。既に事件から3ヶ月が経過していました。

    この時に市橋達也は人目につかない南の島で暮らす事を決意。残っていたお金の殆どを自給自足生活に向けて費やし久米島近くの無人島へ移動。

    しかしサバイバル知識はほとんどなく生活は一週間で頓挫。脱水症状と空腹に襲われた市橋達也は、南の島を後にします。

    市橋達也は職を探す

    2007年6月。公開捜査が行われていた市橋達也の懸賞金は、この時100万円に達していました特徴として「左頬に2つのほくろがある」と書かれていたことから、市橋達也は自分のほくろを切り落とします。

    そして生きるには金が必要であると感じた市橋達也は再び大阪の西成へ。職業安定所に趣、神戸で住み込みのある仕事を見つけ、従事することとなりました。

    市原達也の一時の安寧

    辿り着いた仕事は日当1万円で寮費が3000円。逃亡を続けていた市原達也はこの時、「仕事はきつかったがマトモなものが食べられて嬉しかった」と語ります。また、市原達也は左利きなのですが、食事や人の目に触れる時は右手を使っていたそうです。

    なるべく人と接せずに日々暮らしていた市原達也でしたが、仕事にありついてから3ヶ月後に、職場仲間にリンゼイさん殺害犯(=市原達也)を探すという番組を見たと言われ、危機感を感じます。

    市原達也は島と西成の往復を繰り返す

    この話を聞いた後に市原達也は身分証明無しで施術を受けられる整形外科を捜索。鼻を高くして小鼻を小さくする手術を受けてまた人相を変え、そのまま仕事に戻らずに沖縄の島へ逃亡しました。

    この頃から市原達也は無人島生活に限界が来たら大阪の西成に戻り住み込みの仕事を探し、ある程度稼いだら沖縄の島に戻るという生活を繰り返し始めます。西成の職業安定所を経て住み込みの仕事を探す人は"訳あり"が多い傾向にあり、深く詮索されることはなかったそうです。

    狭まる市原達也の包囲網

    そんな生活を繰り返す中で事件から2年と半年が経過。住み込み先に戻るとスーツ姿の男が数人立っており、見の危険を感じた市橋達也はそのまま逃亡。名古屋の病院で整形手術を受けますが、医師がほくろの除去後に気づき警察に通報。

    しかし市橋達也は抜糸には現れず、すぐに福岡県へ移動。泊まっていたビジネスホテルで美容整形を受けていた事がメディアで報じられ、住み込みをしている場所からも通報されていることを市原達也は知ります。

    沖縄までの道中で逮捕

    全国に整形されていた事実を知られ、市橋達也は再び島行きを決意。神戸のフェリーターミナルに到着し、一人の職員に市原達也の違和感に気づきます。

    「沖縄に行く人はだいたい大きな荷物を持っているのに、どうしてもの客は手ぶらなんだ?」

    この職員は市原達也に大阪のフェリーターミナルなら夜に便が出ていると伝えた後に、大阪のフェリーターミナルに連絡。待合室から動かない市原達也を大阪の職員が確認した後に、警察へと通報。

    こうして2009年11月10日。事件から2年7ヶ月を経て市原達也は逮捕されることになりました。最終的に市原達也の懸賞金は1000万円にまで膨れ上がっていました。

    市橋達也の逮捕後の動向

    長き逃亡の果に逮捕された市原達也。全国指名手配で逃亡を続けた市原達也は社会や関係者与えた影響は非常に大きいものでした。また、逮捕後の市原達也の奇行についても、メディアでは幾度と無く報じられていきます。

    この項では市原達也の逮捕その後や裁判の行方、影響などについて触れていきます。

    逮捕後の断食の意味

    逮捕後市原達也は二週間に渡り一切食事を取りませんでした。この行動から自殺しようとしているのかと警察官は推測しましたが、逮捕に到ってもまだ抵抗を続ける市原達也にはある一つの考えがありました。

    市原達也は死体遺棄容疑から殺人罪を立証できるのは自白だけと知識として持っており、食事も取らずにひたすら黙秘を続けることで無罪を勝ち取れるという魂胆があったと言われています。自殺どころか生き残る意思の方が圧倒的に強かったということですね。

    市橋達也の性格も影響していた

    しかしこの断食行動には市橋達也の些細な抵抗もあったと言われています。

    逮捕直後に市橋達也は捜査員に食事を勧められ受諾し食事を取ろうとしましたが、別の捜査員から「よくメシなんか食えるな」という非難の声がありました。これを聞いた市橋達也は"意地"になり断食を始めたのが最初と言われています。

    幼少期からプライドが高居と言われていた市橋達也ですが、こと逮捕に到ってもそのプライドは折れていなかったようですね。

    事件後の市橋達也の家族への影響

    2年7ヶ月もの間逃亡生活を続けていた市橋達也。犯人不明の逃亡劇ではなく、完全に身元が割れていて、全国に市原達也の所業と逃亡劇が知られることとなりました。市橋達也の家族のもとにも連日のようにメディアや非難の声が押し寄せ、家族に与えた影響は甚大なものでした。

    両親は職を失う

    名医と言われていた市橋達也の父は、息子が指名手配されたのをきっかけ意思の仕事は辞め、現在は自宅に引きこもっていると言われています。母親も実家の歯科医を営んでいましたが、これも母親の代で閉鎖しました。

    またこの母親はメディアの取材を受けた際に「自殺していると思っていた」「整形をしてまで逃げるなら罪を償って欲しい」と答えています。当時は市橋達也に資金援助しているのでは? ……と疑いの目を向けられていましたが、これは事実無根です。

    現在も両親は岐阜県でひっそりと暮らしているそうです。

    姉は離婚へ

    あまり情報は多いと言えませんが、市橋達也の姉も両親の意思をついで医者になっていたと言われています。更にはリンゼイホーカー殺人事件が起きた当時は既に結婚していたんだとか。しかし実の弟が殺人を犯したことで離婚したと言われています。

    市橋達也のファンクラブ

    市橋達也ですが曲がりなりにも高身長のイケメンで、少なくとも高校生までは高スペックだったことを忘れてはなりません。逮捕直後に市橋達也容疑者を「イッチー」よ呼ぶファンクラブがmixiに創設。しかもそれに参加する女性が相次ぎモラルを疑われる出来事がありました。

    創設者や一部の参加者は「推定無罪の原則」を持ち出して支援の正当性を主張していましたが、このファンクラブを非難するコミュニティもmixiで作成され、ファンクラブ参加者への個人攻撃へ発展。退会者が続出するなど、ちょっとした騒ぎになりました。

    市橋達也の判決

    2011年7月21日に第一審が千葉地方裁判者で行われ「殺人罪」「死体遺棄罪」「強姦罪」として無期懲役の判決がくだされました。強姦致死罪へと至らなかった理由は、犯行時の行動でも触れていましたが「殺意がなく事故であり、性行為の後にかなり時間が経過してから殺害していることがあげられます。

    この後に弁護側は控訴審を行い、2012年3月15日に東京高裁で公判が行われますが1日で終結。同年4月11日に「被告人に真摯な悔恨が見られない」とし、控訴は棄却する形となり、上告もなかったために同年4月25日に市橋達也の無期懲役が確定しました。

    市橋達也には前科があった?

    余談ではありますが市原達也には前科があります。千葉大学時代にマンガ喫茶で落ちていた財布を見つけ、そのまま着服しようとしたところを店員に注意されると逆上。階段から突き落とし通報され、逮捕へと到りました。

    親が示談金を払ってくれたため前科付きにはなりませんでしたが、やはりカッとなると止まらない性格は健在ですね。

    被害者の家族

    被害者であるリンゼンさんの家族も何度も来日しています。

    駅前でビラ配りを行ったり事件が起きた2007年に専用サイトを立ち上げ、市橋達也の顔をプリントしたTシャツを販売するなどの活動を行っています。事件が風化しないようにマスコミの取材も何度も受け、市橋達也の逮捕への協力を訴え続けていました。その来日費用は市橋達也のご家族が払っていました。

    地裁の判決に対し、被害者の遺族は「4年半、リンゼイのために正義が下される日を待っていた。今日、それに到達できた。とても満足している」とコメントをした[25]。

    出典:https://ja.wikipedia.org

    裁判の時は死刑を求刑していましたが、無期懲役に対し上記のコメントを残しています。

    リンゼイアンホーカー殺人事件関連作品

    この殺害から始まり長い逃亡劇からの公開捜査は、社会現象となりました。のちに書籍化・映画化もされています。ここの一つの代表的な作品を紹介します。

    吉田修一 「怒り」

    この作品「怒り」に対し著者である吉田修一氏はリンゼイさん殺害事件や逃亡劇が念頭にあったとインタビューで答えられています。

    この小説は後に映画化もされますが、決して市原達也の加害者の掘り下げではなく、「信頼」と「裏切り」といった人間の性根の心理模様を追求した内容となっており、後にこの小説を原作として映画化もされました。

    リンゼンアイホーカー殺人事件を風化させてはならない

    このような自分勝手極まりない行動で一つの尊い命が失われ、被害者のリンゼンアイホーカーさんだけではなく、父・母・姉の人生は狂わされました。市橋達也の自尊心が高い性格が引き起こした悲劇であり、絶対に繰り返してはならないことです。

    この悲劇は絶対に忘れられてはいけない事柄であり、風化させることなく語り継いでいきたいものですね。

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