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    深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司の生い立ちや現在は?

    深川通り魔殺人事件とは1981年に東京都江東区森下の商店街で起きた無差別殺人事件。犯人として現行犯逮捕されたのは川俣軍司という男でした。4人を殺害し、2人に重傷を負わせた上に人質をとり立てこもりました。また川俣軍司の祖父は事件の被害者とはある関係がありました。

    深川通り魔殺人事件を起こした川俣軍司

    1981年、白昼の商店街で発生した、乳幼児を含む4人が殺害されてた深川通り魔殺人事件。犯人は当時29歳の元寿司職人で、トラック運転手をしている川俣軍司という男でした。

    犯人の川俣軍司は、覚せい剤の常用者で、何度も逮捕、懲役を繰り返していました。

    取り調べで川俣軍司はこの数年、幻覚や妄想に悩まされていたことが明らかとなり、それが原因となって犯行に及んだと異様な供述していて、現在まで衝撃事件として語り継がれています。

    深川通り魔殺人事件とは?

    1981年6月17日に川俣軍司によって発生した、深川通り魔殺人事件は、無差別に児童や幼児も巻き込み、6人の死傷者を出した殺人事件です。

    東京都江東区森下の商店街で歩いていた人たちを見境なく柳刃包丁で刺していった、事件の流れを詳しく説明していきます。

    乳幼児含む6名の死傷者を出した痛ましい事件

    深川通り魔殺人事件は、1981年6月17日の午前11時35分に、東京都江東区森下二丁目の商店街で発生した無差別通り魔殺人事件です。犯人は当時29歳の元寿司職人で、トラック運転手の川俣軍司という男でした。

    川俣軍司は当時1歳の乳児と当時3歳の幼児、その母親の27歳の主婦、通行人の30代の女性の合計4名を柳刃包丁で刺して殺害しました。さらには2名の女性を切りつけるなどして重傷を負わせています。

    親子連れを刺す

    川俣軍司は、刃渡り22㎝の柳刃包丁をカバンから取り出して、対面から歩いてきた親子に突然襲いかかりました。まず母親が押すベビーカーに乗っていた当時1歳の乳児の腹部を走りながら2度刺しました。このとき勢い余って、ベビーカーごと路上に投げ出されました。

    当時27歳の母親は、突然の出来事に悲鳴を上げて、路上に向かって走って逃げだします。川俣軍司は逃げる母親の背中に柳刃包丁を2度突き立てて、続いて唖然と立っていた3歳の女児の胸を4回もめった刺しにしました。

    さらに、最初に刺され血を流しながら路上に投げ出された1歳の乳児の胸あたりを再び刺して、致命傷を与えました。現場には乳母車や血痕が飛び散って、地獄のようであったと言われています。

    3人の女性を刺す

    川俣軍司は親子を刺した後、さらに凶行を続けます。たまたまその場に居合わせた買い物帰りの当時33歳の女性が、その現場を見て唖然と立っているところを、そのまま勢いよく上腹部を刺して殺害させました。

    さらには、近くのバスの停留所に停まったバスから下車してきた71歳の老女に正面から体当たりして、大腿部に突き刺します。次に近くの化粧品店から出てきた39歳の女性と鉢合わせになり、斬りつけてケガを負わせます。

    女性を1人人質にして立てこもる

    これまでの犯行はなんと約5分の間に起こりました。それから川俣軍司は午前11時40分頃に、中華料理店「萬来」の前を歩いていた当時33歳の女性の喉元に柳刃包丁を突き付けて脅して、そのまま「萬来」の店内へと引き込みます。

    この時、「萬来」は営業時間前で客は1人もおらず、店の奥にいた経営者の夫婦と子供を脅して店外に追い出しました。この時、人質にしていた女性の背中を切りつけるなどしてケガを負わせています。

    それから、川俣軍司は女性を人質に取ったまま7時間にわたって立てこもりました。ガラス戸越しに警察が説得に当たるも、応じる気配がなく、「うるさくすると人質を刺すぞ。何人殺しても同じ。」などと暴言を吐いています。

    最終的に、4人が死亡し2人が重傷に

    川俣軍司は立てこもり中、店内のテレビで自分が刺した4人が死亡したことを知りますが、動じることなく警察に要求して、差し入れさせたカレーライスや牛乳、ジュースを平然と平らげました。

    また、包丁を研ぐために砥石なども差し入れさせています。しかし午後6時54分頃に、川俣軍司が少し油断した隙を見て、人質にされていた女性が店外に逃げ出し、入れ替わるように警察と警官隊が突入します。

    川俣軍司は柳刃包丁を振り回して抵抗しましたが、それも虚しくすぐに取り押さえられて現行犯逮捕されました。最終的に川俣軍司は、乳幼児を含む4人を死亡させ、2人が重傷を負うという大惨事を起こしました。

    事件の目撃者の話

    深川通り魔殺人事件は、最終的に乳幼児を含む4人が死亡して、2人が重傷を負うという大惨事となりました。

    事件を目撃した人は、現場にはベビーカーや血痕が飛び散って、地獄の惨状であったと言われています。

    被害者の名前や、事件現場の状況を説明します。

    生き地獄の状況だった

    事件後、被害者たちの名前が判明しました。

    最初に殺されたベビーカーに乗った当時1歳の乳児は、長野博明で、その母親るみ子。次にたまたま出てきた33歳の女性は、二本松美代子。その次にバスから下車してきた77歳の女性は、加藤貞子。39歳の女性は、吉野千鶴子の4人だと分かりました。

    おびただしい血が飛び散っていた

    深川通り魔殺人事件の凶行の直後を目撃した主婦が、深川署で事情聴取で応じたところによると、事件現場は凄悔そのものだったようです。

    「倒れた奥さんは、仰向けになって痛い痛いと苦しんでいた。幼稚園の子は仰向けに倒れて苦しがっていて、お腹から腸が飛び出し、それを両手でつかんで身をよじっていた。母親が横に倒れていて、子供は大丈夫というととそのとたん動かなくなった。」

    「診療所の先生はバギーに乗ったまま倒れている赤ちゃんを介抱していたが、目を開けたままの状態で息が止まった」と証言しています。現場は、おびただしい血が飛び散っていて、まさに生きながら地獄を見る惨状であったそうです。

    犯行動機は?

    深川通り魔殺人事件を詳しく解説してきましたが、なぜ川俣軍司はこのような事件を起こしたのでしょうか?犯行動機はとても身勝手なものでした。

    深川通り魔殺人事件の直接な動機は、事件の直前に寿司店に就職を断られたことだったのです。また、川俣軍司は子供を持つ人を羨ましいと感じていたため、児童や幼児にまで刃を向けたのでした。

    寿司屋に就職を断られてカッとなった

    川俣軍司は、深川通り魔殺人事件を起こした動機として、「犯行の前に、すし店に就職を申し込んだが、断られたため、カットとなって次々と人を襲った。俺には電波がひっついているから、黒幕を暴く目的で人質を取った」と意味が分からないことを供述しています。

    子供を持つヤツらが羨ましかった

    また川俣軍司は、「子どもを持つヤツらを羨ましく思って、手当たり次第にうっぷんを晴らしてやった。死んだ人に気の毒だと思わないし、子どもの父親が来たら、いつでも会って恨みを晴らさせてやる。俺の腹を刺せばいい」とも言っています。

    他にも、「死んだ人間は、これも運命。俺はサムライだから、殺された人たちも幸せだろう。刺したときは、気分がスッとして、うまく殺せたと思う。」らしいです。

    意味不明な発言も多数

    川俣軍司は、深川通り魔殺人事件の動機として「俺には電波がひっついているので、黒幕を暴くために人質をとった」という発言をしています。

    また、それ以外にも盛んに「電波」という言葉を発言していました。その異様さは大きな話題となり、現在でもインターネットの一部などでは、精神障害者を示すスラングとして使われることがあります。

    また、この時川俣軍司は、「精神分裂病」といい、現在で言う「統合失調症」だったのではないかと言われています。統合失調症の症状として起こる、幻覚や幻聴の症状を患者は電波として感じることもあるようです。

    目的は寿司屋をクビにした経営者への復習

    川俣軍司が中華料理店「萬来」に人質をとって立てこもっている時に、要求として「電波でひっついている役人を全員連れて来い」と要求しています。

    その背景には、これまでに川俣軍司をクビにしたり、不採用にした経営者や、その妻を呼びつけて、事件現場を中継するテレビ局のカメラの前に引っ張り出したかったようです。

    ブラウン管に写し出して責任を取らせ、彼らはそれで大恥をかいて、信用を無くして倒産するだろうと思い、店をつぶしてやる考えたようです。自分に仕事がないのは、自分をクビにしたり、不採用にした経営者が悪いと思っていたようです。

    逮捕時の姿が衝撃的だった

    川俣軍司が逮捕される時は、テレビの中継がされていて、その姿が衝撃的で話題となりました。

    また、川俣軍司は覚せい剤の使用を否定しましたが、尿検査で2.3日以内に使用したと鑑定されています。そのことから彼の行動や言動は、覚せい剤が関係しているのではないかと考えられています。

    白いブリーフに白いソックス姿で逮捕

    川俣軍司は逮捕時に、白いブリーフに白いソックスだけという姿でした。靴も履いていませんでした。そして、口には、自殺を防止するために白い布を咥えさせられた格好で姿を現しました。

    その姿はテレビ中継されていて、深川通り魔殺人事件は当時大きな話題となりました。

    覚せい剤の影響か

    川俣軍司は逮捕後、「道路交通法違反で捕まるまでは、覚せい剤をしていたが、今はやっていない。だから自分は正常で、今回の事は真剣な気持ちでやった」と供述していますが、科学捜査研究所の尿検査では、2,3日以内に覚せい剤を使用していると鑑定されています。

    当時は、覚せい剤の第2次乱用期で、中毒患者による事件が多発して社会問題化していました。また、犯人の男が逮捕された時の異様な風体や、男の供述に出てくる「電波」という言葉が世間の注目を集め、薬物中毒者が起こした象徴的な事件となりました。

    ただ、この「電波」という現象は、犯人の男が覚せい剤に手を染める以前から存在していて、この事件も直接の原因は覚せい剤ではないとする意見もあります。

    川俣軍司の生い立ちは?

    凄惨な深川通り魔殺人事件を起こした川俣軍司ですが、一体どのような人物で、犯行に至る前にどのような経緯があって、犯行に至ったのでしょうか?

    その生い立ちと犯行動機はどうやら密接に関係しているようです。川俣軍司の詳しい生い立ちから犯行に至るまでを詳しく見ていきましょう。

    家庭環境は劣悪だった

    川俣軍司は1952年2月に、茨城県鹿島郡波崎町で生まれました。兄と姉2人、弟の5人兄弟でしたが、上の姉は幼児期に亡くなっています。

    当時の波崎町は、半漁半農で生計を立てる人がほとんどでした。しかし、川俣家は自分の土地を広く持っていなかったため、農業を営むことが出来ませんでした。

    父親はシジミ専門の漁師をしていましたが、漁をする時期は決められているため、家計は楽ではありませんでした。食べる物もままならず、栄養不足から母乳が足りず川俣軍司は重湯で育てられました。

    4度の刑務所暮らし

    川俣軍司はすし店に勤めていた時、刺青を入れた先輩に憧れて、自身も刺青を入れます。この頃から、犯罪行為を犯すようになりました。まず最初は、1971年6月に通行人を脅して現金を奪い取ったことで、恐喝罪で逮捕され懲役2年、執行猶予3年の判決を受けます。

    翌年1972年には、今度は暴行障害事件を起こして罰金3万円を科せられます。同年9月29日には、富坂でまたもや暴行傷害事件を起こして、懲役10年の実刑判決を受けます。恐喝罪での執行猶予も取り消されて、合計2年10カ月を川越少年刑務所にて服役しました。

    素行が悪かったのか仮出所はなく、1975年9月に満期にて出所しました。出所後は、今度は秋葉原の運送会社でトラック運転手として働きますが、道路交通法違反で罰金を食らい、それでヤケ酒を飲んでまた暴れて逮捕され、懲役10カ月の実刑判決を受けます。

    覚せい剤の使用 

    それからも度々逮捕されて、服役を繰り返しています。この頃から、運送業や警備会社、すし店、水産会社など度々職を変えては、障害や道路交通法違反などで複数回逮捕されていて、ガンで亡くなった母親の葬儀で弟とケンカになって、暴行罪で懲役を食らうなどします。

    どうやらこの頃から、川俣軍司は幻聴が聞こえ始めていたようで、周りの人間が自分の陰口を言っているなどと妄想が始まります。それから、合計10店舗近いすし店に面接に行って、経験豊富な板前を装って採用されますが、ことごとく数日で解雇されています。

    原因は、あまりにも態度が悪く、何とも言えない不気味な雰囲気でした。この頃、川俣軍司は覚せい剤にも手を出していたようで、それも解雇される理由となったようです。

    川俣軍司の祖父は昔ある事件の被害者だった

    現在、深川通り魔殺人事件のあまり知られていない不気味なエピソードとして、ある因縁めいた事実が存在します。

    それは、川俣軍司が殺害した女性、長野るみ子の祖父が、過去に川俣軍司の祖父を殺害していたという事実がありました。

    川俣軍司の祖父は殺人事件の被害者だった

    事件の数十年前に、川俣軍司の祖父が深川通り魔殺人事件の被害者女性である、長野るみ子の祖父に殺害されています。そして、祖父がこの女性の祖父に殺害されていた事実を川俣軍司は一切知らなかったというのです。

    これだけでかなり因縁めいていて不気味ですが、さらに偶然は重なって、祖父が殺害された土地は、深川事件の現場地域から小名木川1つを挟んで隣接する「森下」という地域だったそうです。

    このあまりにも奇跡的な偶然の確率を知ってしまうと、川俣軍司が盛んに言っていた「電波」があたかも祖父の怨霊の声のように聞こえてしまうとして、現在でも奇譚として話題になっています。

    川俣軍司の判決は?

    深川通り魔殺人事件の裁判と判決について見ていきます。乳幼児を含む4人を無差別に殺害した極めて凶悪な犯行でした。

    が、問題は支離滅裂な発言を繰り返す、川俣軍司に責任能力があるのかという点でした。果たして、川俣軍司にはどうのような判決が言い渡されたのでしょうか?

    判決は無期懲役

    1982年12月23日に東京地裁は「被告人は犯行時、心神耗弱状態にあって是非善悪を弁識し、その弁識にしたがって行為を制御する能力が減弱していた」として死刑ではなく、無期懲役判決を下しました。

    川俣軍司は、当初この判決を不服として控訴を考えていたそうですが、弁護人に「被害の重大さを考えなさい」や「命が助かれば上々」と諭されました。川俣軍司は「模範囚になる」と言って控訴を取りやめたそうです。

    これによって、1983年1月6日に、東京地裁の判決をもって無期懲役が確定しました。2019年5月14日現在、川俣軍司は刑務所で間もなく67歳を迎えるはずです。

    深川通り魔殺人事件がテレビドラマ化される

    川俣軍司の逮捕時の姿が衝撃的だった深川通り魔殺人事件ですが、事件からわずか2年後の1983年7月にはテレビドラマとして放送されています。テレビ朝日の月曜ワイド劇場で、大地康雄さんが犯人役を演じました。

    あまりにリアルな演技に「本当に人なのか?」という問い合わせがテレビ局にきたぐらいです。

    実際の事件をリアルに再現したドラマは話題を呼び、視聴率は26%もありました。その他にも、風祭ゆきさんや松山英太郎さん、小林稔侍さんなどと豪華キャストが出演しました。

    深川通り魔殺人事件を起こした川俣軍司とは?

    今回は白昼の商店街で突如として発生した凄惨な事件である深川通り魔殺人事件と、犯人である川俣軍司についてまとめてみました。川俣軍司の半生を追っていると、この男が少しずつ段々とおかしくなっていくのがわかります。

    それが果たして、覚せい剤のせいなのか、それ以前から悩まされていたという幻覚や妄想のせいなのかはっきりとわかっていませんが、幻覚や妄想、覚せい剤使用が原因と見られる殺人事件や障害事件は頻発しています。

    川俣軍司だからこの事件が起こったわけでなく、幻覚や妄想に悩んでいる人や覚せい剤使用者が無差別に人を襲う事件は今後も十分ありえます。注意のしようがないかも知れませんが、もう一度しっかりと考えていきたいですね。

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