木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
4人の幼女を次々と殺した「宮崎勤」死刑囚。その宮崎勤の母親と父親、その家族はその後どのような末路をたどったのでしょうか?
宮崎勤の幼少期の家族との接し方をとおして、母親と父親の教育や愛情がどのように彼を幼女殺事件へと発展させていったのか?しらべてみました。
1988年、埼玉県でくり広げられた連続幼女誘拐殺人事件は、昭和の終わりにおこった最大の残虐な殺人事件です。
宮崎勤が逮捕され死刑判決をうけてから、宮崎勤の母親や父親、そして家族はどのような人生を送ったのでしょうか?くわしくしらべてみました。
幼女に異様な執着を持ち、ころしてしまった宮崎勤死刑囚が逮捕されると、家族は1年後に引っ越しをします。
その中で特に母親は、宮崎勤死刑囚をかばうことなく連絡をとりたがらなかったそうです。最終的には、宮崎勤の死刑が執行されたときの遺体の引き取りを「母親」にお願いしたのですが、母親はまったく無視。結局、火葬して終わりました。
母親も、宮崎勤が許せないようでその後の消息は絶たれましたが、どこかでひっそりと暮らしているでしょう。
数々の幼女を次々と誘い出し、殺害した宮崎勤は事件後「死刑」が確定しました。そのあと家族は住むに住めなくなり、引っ越しをしますが父親がとくに激怒しているようです。
通常、裁判では私選弁護人を要求するため父親に懇願したところ、あっけなく拒否。宮崎勤死刑囚には、「国選弁護士」という国の税金が使われました。
宮崎勤のお父さんは、事件後「自分たちが責められるのは当然だが、親戚の人にまで迷惑がかかるのは申し訳ない」と周囲に漏らしていました。最終的に宮崎勤の父親は家を売って、被害者遺族への支払いのめどをたてたあと、多摩川で飛び降り自殺したのです。
宮崎勤死刑囚がおこなった「幼女をバラバラに分解」したり、被害者に送りつけるといった凶悪かつ卑劣な殺人事件は、母親の関与があったのでしょうか?
それとも単独犯罪だったのでしょうか?くわしく調べました。
1988年から1989年にかけておこなわれた埼玉県連続幼女殺人事件では、宮崎勤が幼女(4~7歳)を誘い出し殺害。今田勇子という名前で犯行声明をだした卑劣極まりない事件です。
犯行声明の筆跡も異常でしたが、娘が殺害されて気が気ではないご両親に「その遺骨を送りつける」という鬼畜ぶりが日本社会をゆるがしました。
すべてが宮崎勤の単独の犯行であり、家族はまったく知らず、母親も事件の関与はないという警察の発表がありました。
宮崎勤死刑囚は、母親の関与もなく単独犯として1988年8月22日に当時4歳だった幼女を殺害しました。つづく1988年の10月3日には当時7歳だった女の子を殺しています。その2か月後の1988年12月9日には4歳の幼女を、翌年の6月6日には5歳だった幼女を次々と殺したのです。
そして、1989年7月23日に5度目の犯行をしようとしたところ、幼女の父親が不審者の情報を聞きつけて、宮崎勤をとりおさえて現行犯逮捕となりました。こういった行為じたいこの世に産んでくれた母親にとっては、いたたまれないことだと思いますが、宮崎はその取り調べのなかで次々と「過去の殺人事件の関与」を話しはじめたのです。
宮崎勤死刑囚は、数々の幼女殺害に関与したとして死刑が確定し、2008年6月17日に死刑が執行されました。いまだに謎なのが「どうして宮崎勤のような人物が形成されたのか」という点です。
精神分析の方にも大きな謎とされている「宮崎勤を幼女へ向かわせたもの」が何だったのか?母親の愛情は少なかったのか?調べてみました。
宮崎勤の幼少期は、母親から「つとむちゃん」といって可愛がられていたのですが、どうやら姑のかたの教育方針が特殊だったようです。べたべたするとろくな人間にならないよ!とやたらと追い込まれた母親は、姑に見つからないように日が暮れてから、宮崎勤を抱っこしていたようです。
そして母親は、宮崎勤死刑囚が小さい頃から手に障害を持っていたために、なるべく人様には見てもらいたくないと思って、人目を避けていたようです。母親の親心なんでしょうけど、このあたりも死刑囚「宮崎勤」を作り出した一因といえるでしょう。
鬼畜な宮崎死刑囚にも、かわいい小学生の頃はありました。小学生のころの宮崎少年は丸い顔でかわいかったと印刷工場のおじさんが語ります。特に算数が得意だったようですね。そのあとはウルトラマンの怪獣にはまり、まわりからは「怪獣博士」といわれるまでになりました。
中学時代の宮崎勤死刑囚は、将棋と英語が得意だったようです。かなりの負けずぎらいだったため、母親も自分の息子のそういった面を将来有望と勘違いしてまわりにも「うちの子英語が得意ですのよ」と自慢していましが、手の障害を気にして宮崎は片道2時間かかる高校へ進学しました。
両親は彼が英語教師になると思っていたそうですが、かなわず東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学すると、陰キャラが増していよいよ閉じこもりの傾向がではじめ、親戚のコネで卒業後も印刷会社に就職しますが出勤態度が悪いとクビになるのです。
それから、宮崎勤死刑囚は離れの部屋に閉じこもり「アニメや幼女のビデオ」6000本に囲まれながら常軌を逸した生活を繰り返します。母親も父親もそうなってしまった息子に、声をかけることすらできなくなったようです。
そしていよいよ、1988年彼が26歳のときに「幼女誘拐」がはじまって、彼の頭のなかの卑劣な妄想が現実化していきます。お金持ちのボンボンとして育った宮崎勤死刑囚ですが、お金があっても最終的にご両親の愛情が少ない状態で育てられると、子供はどこか精神的に不安定に育つようですね。
埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤死刑囚。彼の生い立ちが事件にどのように影響したのでしょう?母親との仲はよかったのか?
母親・父親が、宮崎死刑囚に与えた影響など幼少期について調べてみました。
宮崎勤死刑囚と母親の関係ですが、父母が共働きということもあり4歳くらいまでは「宮崎勤」が母親らのいる印刷工場へ遊びにいっていたそうです。工場の床にまるや四角の絵を書いてあそぶ姿が目撃されています。
宮崎勤死刑囚は、出産時の酸欠が原因で未熟児で生まれたためその後遺症から「両の手のひらをまっすぐ水平に開けない」障害をもっていました。両親はとても気にしていましたが、成長していくと目立たなくなっていたので母親も安心していきます。
母親のことはちゃーちゃんと呼んで、母親は宮崎勤死刑囚のことを「つとむちゃん」と呼んでいました。いつも母親と一緒で、道ばたで誰かにあうと母親のうしろに隠れてしまう大人しい子供でした。父親が話に入ってくると、すーっと自分の部屋へ消えていったといいますから、父親との関係性は薄かったようです。
戦後もっとも卑劣な、幼女誘拐殺人事件の主犯格である宮崎勤死刑囚。まさかお腹を痛めて産んだ息子がこのような羞恥を世間様にさらすとは、母親も思わなかったでしょうね。
この事件以降、自分の子供たちを守る運動が各地でおこなわれ、登下校での保護者や地域の人たちの警護が強まりました。
今後も、このような卑劣で自己中心的な事件に子供が巻き込まれないように大人が守りながら、この極悪事件を風化させないようにしたいですね。
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姓名:宮崎勤(みやざきつとむ)
生年月日:1962年8月21日(45歳没)
出身地:東京都西多摩郡五日市町
身長:160cmに足りず
血液型:B型
出身小学校:五日市町立五日市小学校
出身中学校:五日市町立五日市中学校
出身高校:明治大学付属中野高等学校
出身大学:東京工芸大学短期大学部画像技術科
趣味:猟奇的な内容の漫画・性的なビデオなど6000本を保持
宮崎勤死刑囚は、1962年8月21日に東京都青梅市内の総合病院で生まれます。東京都西多摩郡五日市町の小和田という土地で、秋川新聞という地域の新聞印刷会社を経営する父親と母親のもと、お金持ちの長男として育ちます。
母親も共働きで出はらっていたため、宮崎勤の子育ては住み込みの知的障害者の男性と祖父しかかかわっていなかったといいます。