木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
1人の女性を巡って男性達が殺し合いをしたとされる「アナタハンの女王事件」。フィクションかと思われる事件ですが、これは実際に起きた事件なのです。そして、この事件はこれまでに何度も映画化されてきました。また書籍なども出版されています。関連作品が出続けているアナタハンの女王事件。一体どのような事件なのでしょうか?
アナタハンの女王事件は、比嘉和子という1人の女性を巡って多くの男達が殺し合いをした事件です。この比嘉和子という女性はどのような人物だったのでしょうか?事件の起きた場所や事件の概要などとあわせて見ていきましょう。
事件は第二次世界大戦の末期、1945年から発生したとされています。当時、事件の舞台となるアナタハン島は、日本の委任統治領でした。この島で、32人の男性(軍人・軍属31人、上司1人)が、1人の女性「比嘉和子」を巡って殺し合いをしました。
このアナタハン島は、北マリアナ諸島に所属する島です。サイパン島から、およそ117キロ北に位置します。アナタハン島は、東西の長さがおよそ9キロで、幅3.7キロの小島です。この小さな島を舞台に、1人の女性をめぐり、32人の男が殺し合いをしたのです。
1914年から1918年にかけて行われた第一次世界大戦でドイツは敗戦しました。それまでドイツの支配下に置かれていたサイパン諸島は、国際連盟の委任により日本が統治することとなりました。これを機に、日本は南洋諸島に進出していきます。しかし、戦争後の恐慌を受け、初期に進出した会社の経営は上手くいきませんでした。
会社の従業員など、南洋諸島に渡った1000人ほどは、その地に取り残される形となりました。残された人々は、虫害による食糧難で飢餓に苦しみました。これらの人々を救おうと、当時台湾で製糖業に携わっていた松江春次は、1922年に南洋興発株式会社を立ち上げました。
初期は製糖業を行なっていましたが、1930年代後半からは事業を拡大。水産業をはじめ、農園業、酒造、鉱業、油脂鉱業、交通運輸業、貿易業にまで拡張し、南洋最大の企業となりました。比嘉和子の夫である比嘉正一は、この南洋興発株式会社の会社員でした。
比嘉和子は夫・比嘉正一の転勤に伴い、アナタハン島に渡りました。当時、アナタハン島では、夫の上司・比嘉菊一郎が夫婦でヤシ畑の経営をしていました。
1944年の6月、日本軍に徴用された漁船が米軍の攻撃を受け撃沈。生き残った軍人と漁船乗組員ら31人は、このアナタハン島へと泳ぎつきました。
比嘉和子は、アナタハン島で32人の男性に対してたった1人で生きました。おそらく何人もの男性から性の対象にされ、体の関係も持ったでしょう。しかし、比嘉和子には子供がいませんでした。
実は、比嘉和子は夫・正一との間に子供を宿していました。しかし、1944年にアメリカの空軍機による空襲のショックで、子供を流産してしまいます。それ以後、妊娠できない体となったのだそうです。
32名の男性と小さな島で生活していた比嘉和子。女性はたった1人という過酷な状況でした。後に男性の殺し合いが始まるのですが、事件の詳細を見る前に、比嘉和子ら主要な人物を見てみましょう。
32人もの男性が、1人の女性を巡って殺し合いをしたこの事件。この女性が比嘉和子でした。比嘉和子は、正にこの事件の主人公のような人物です。比嘉和子は、1922年に沖縄で生まれました(1924年生まれとの情報もあります)。夫の比嘉正一の転勤がきっかけで、アナタハン島に移住しました。
和子の夫・比嘉正一も沖縄の出身でした。南洋興発株式会社で働いており、和子と結婚したのち、会社の辞令を受けてアナタハン島へ転勤します。
アナタハン島で比嘉正一の上司となったのが、比嘉菊一郎です。菊一郎はアナタハン島で、夫婦でヤシ畑を営んでいました。正一とは同姓ですが、これは偶然です。
アナタハンの女王事件は、比嘉和子という女性を巡って起きました。32人もの男性が殺し合いをしたということで、話題性のある事件となりました。ここからは事件の詳細をみていきましょう。
比嘉和子は1939年に兄を頼ってサイパン島に渡りました。その後、近くのパガン島でカフェの店員として働いていました。そこで比嘉正一と出会い結婚。夫の正一が南洋興発株式会社の辞令を受けて転勤することになり、夫婦でアナタハン島に移住しました。
アナタハン島に移住し、島の開拓事業に参加した比嘉正一・和子夫妻。しかし、時が経つに連れ第二次世界大戦が激化していきます。この時、夫の正一にはサイパン島に妹を残していました。戦争の激化に伴って、正一は妹を迎えにサイパン島にいきます。しかし、その後正一は行方不明となるのです。
また、上司の菊一郎は妻と子供をサイパンへ疎開させませした。アナタハン島にいた住民も、アメリカ軍の船でよその島へ移住。和子と菊一郎は2人で島に取り残されてしまいました。
1944年6月には、米軍機に撃沈された日本の軍人・軍属の31人の男達がアナタハン島へ泳ぎつきます。ここから、32人の男達と1人の女性との共同生活が始まりました。
1945年8月15日の正午、昭和天皇による玉音放送が流されました。そこでポツダム宣言の受託を表明し、第二次世界大戦は終結することとなりました。
戦争終結後、アメリカ軍はアナタハン島に日本人がいることを知ります。そして、戦争が終わり日本が敗戦した旨を拡声器で伝えました。しかし、アナタハン島にいる日本人はこれを信じようとせず、島に留まり続けました。
アメリカ軍は当時、北マリアナ諸島一帯の統治の手続きなどを行なっていました。そのために、この島に留まり続ける住民のことを、何年もの間忘れる形となってしまいました。
戦争が終わったということを信じずに、島に留まり続ける比嘉和子たち。島で共同生活を行う中、1946年8月に、2人の軍人がアメリカ軍のB-29の残骸から4丁の拳銃を発見します。2人は拳銃を組み変えて2丁にしました。こうして、この2人の軍人が島で権力を持つようになりました。そして、銃で脅し強制的に和子との関係を迫りました。
島内では、拳銃を持っている者が絶対的な権力を持つようになりました。そんな中、1人の男性が木の上から転落死するという事故が起こります。死亡した男性は、拳銃を持っていた軍人の1人と仲が悪く、普段から敵対していました。その為、島内の人々は、この男性は拳銃で脅されて死んだのではないかと疑い始めます。
疑心暗鬼に陥る島内の人々。やがて、些細なことで揉めるようになりました。そして、拳銃を持った軍人2人が、酒に酔って喧嘩となり、1人がもう1人を殺すという仲間割れが勃発しました。そこから次第に殺し合いが起こるようになりました。
比嘉和子は、島内ではトラブルを抑えるために、上司の菊一郎と婚姻関係にあると装っていました。しかし、軍人2人の仲間割れの後、ギリギリ保たれていたバランスが崩れたと考えた菊一郎は、もう1人の軍人を和子との協力で殺害してしまいます。その後、菊一郎自身も殺害されてしまいました。
実は、この時比嘉和子は他の男性と協力して、菊一郎を殺害したとも考えられています。この男は元コックでしたが、菊一郎が死亡した後は、和子と元コックは男女の関係になっていたようです。しかし、その後、この元コックも行方不明となってしまいます。
和子はその後も、漁船の水夫長などと関係を持ちます。そして、その水夫長も崖から転落して死亡したりと、和子と関係を持った人物が次々と不審な死を遂げるのでした。その中で、和子は島を脱出します。戦後、アメリカ軍が終戦を告げたがそれを信じなかった和子は、どうして島を脱出するに至ったのでしょうか?
次々と男性が死んでいく中、1950年6月に比嘉和子はアメリカの船によって救出されました。こうして、比嘉和子は1人だけアナタハン島から脱出することに成功したのです。
比嘉和子を巡って、殺し合いが広げあげる中、島内の男性達は次第に和子を疎ましく思い始めます。和子がいると、殺し合いが続いていくと考えたのでしょう。そこで、殺し合いの原因である和子を処刑してしまおうという声がでたというのです。そして、実際に処刑するかどうかの会議も行われたと言われています。
処刑会議が行われる中で、1人の男性がこの状況を和子にこっそりと伝えました。それを聞いた和子は、島を脱出することを決意。そこへアメリカの船がやってきて、和子は救助を求めるに至ったとされています。
他にも、脱出当時和子の相手だった男が、和子に対して激しい暴力を振るっており、その暴力に耐えかねた和子は島から逃げようとしていたとも言われています。和子はこの男の他にも、菊一郎からも暴行を受けていたとも言われています。
アナタハン島からの脱出に成功した比嘉和子。では、和子の脱出後、アナタハン島に残された男性はどのようになったのでしょうか?また、脱出後の和子はどのような人生を送ったのでしょうか?
1950年6月にアメリカの船によって救出され、アナタハン島を脱出した比嘉和子。和子が脱出した翌年の1951年6月には、島内に残っていた男性達は全員が投降することになりました。当初、32人いた男性が、この時19人でした。つまり、13人もの男性が行方不明だったり殺害されてしまったのです。
比嘉和子を含め、アナタハン島にいた男達が救助されると、島で起きた事件が大々的に報道されました。日本国内では、アナタハンブームが巻き起こり、比嘉和子のブロマイド写真が爆発的に売れました。
また、この事件は1953年に『アナタハン島の眞相はこれだ‼︎』というタイトルで映画化もされました。そして、和子はこの映画に出演し女優となりました。
やがて、アナタハンブームも落ち着き始めました。比嘉和子は、その後、人々からの好奇な目に晒されながらストリッパーとなり、場末のストリップ劇場に出演するようになりました。そして、その後は故郷である沖縄に帰郷。「アナタハン」という小さなカフェを開業しました。
沖縄に帰郷して数年、比嘉和子は子連れの男性と知り合います。その後2人は結婚しました。そして、1974年に、比嘉和子は波乱の生涯を終えました。
アナタハンの女王事件は、衝撃的な内容で世間を騒がせました。そして、現在までに様々な作品のモチーフとされてきました。では、このアナタハンの女王事件に関連する映画や書籍などの作品をご紹介します。
この映画には、比嘉和子本人も出演しました。吉田とし子監督によって撮られたこの映画は、1953年に公開されました。映画内で、比嘉和子は本人の役を演じています。比嘉和子は、それまで「男を惑わす女」として「毒婦」呼ばわりされていました。
そんな和子は、自己弁護のためにこの映画に出演しました。映画内では、和子は男達の性欲の犠牲者として描かれています。
この映画は、ハリウッド映画の巨匠であるジョセフ・フォン・スタンバーグによって作られました。
軍人を乗せた漁船が米軍の攻撃を受け、アナタハン島に漂着するところから映画が始まります。無人島のように思えたこの島には、実は日下部という男と、恵子という女が暮らしていました。流れ着いた軍人や乗組員は、島で暮らすうちに恵子に興味を持つようになる。
やがて、島に墜落した米軍機から拳銃を見つけた男達は、恵子をめぐり殺し合いをするようになる。日下部が殺され身の危険を感じた恵子は、米軍の船に救出され島を脱出することに成功するという内容で、この映画は実際の事件を踏襲したものになっています。
この映画は、実際の事件をモチーフにしているものの、作品内に登場する女性は9人です。そして男は3人と、女性の方が多いのです。3人はそれぞれ海軍大佐、陸軍大尉、2人の御付の武官です。3人は、内地へ帰る途中に船が爆撃され、報道班員の女性らとグラマ島に漂着します。
グラマ島には、他にもかつてこの地にいた会社員の妻や、慰安婦の女性がいました。3人は、これらの女性を使って自給自足の生活を送り始めます。そんな中、3人はそれぞれ愛人を作ります。しかし自給自足の生活は上手くいかず、島内の空気は悪くなっていく。
この映画は川島雄三が監督しました。実際の事件をモチーフとしながらも、映画は喜劇タッチとなっています。
この映画は、2010年に公開されました。原作は、桐野夏生による同名小説です。作品内では、クルーザーで夫ともに世界一周旅行をする女性が無人島に漂着します。そこに、与那国島での労働に耐えかねた23人のフリーターも漂着してきます。さらに、密航に失敗した11人の中国人も島にやってきます。
島内で唯一の女性である主人公は、性を武器に生き抜いていくことを決意します。
この本は、丸山通郎と田中秀吉の共著で、1952年に出版されました。現在では、絶版となっているようです。
この本は、1998年に出版されました。著者は大野芳です。ノンフィクション・ノベルとなっており、実際の事件をもとにしています。アメリカに保管されていた名簿をもとに、島内に残された人々の行動が詳細に描かれています。
この本では、狭山事件や3億円事件、グリコ・森永事件など、多くの戦後未解決事件を扱っています。2005年に宝島社より出版されました。
こちらは『FEEL YOUNG』内で、1993年に連載された漫画です。魔木子による作品で、こちらもアナタハンの女王事件をもとに創作されました。
こちらは、2017年に鳥居みゆき主演で上演された舞台です。鳥居みゆき演じる和子は、アナタハン島に12人の男性とともに漂着します。男達は、和子・食料・拳銃を巡って殺し合いを始めるという話で、こちらも実際の事件をもとにしています。
アナタハンの女王事件と似ている事件に、ピトケアン諸島少女性的暴行事件があります。この事件は、イギリス領のピトケアン諸島で1999年に発覚した集団的な性犯罪です。
当時ピトケアン諸島では、12歳を過ぎたら結婚ができるとされていました。そして、大半の女性が12歳から15歳の間に出産を経験していたそうです。ピトケアン諸島では、12歳の時少女と性行為を行うのは問題ないと考えられていました。イギリス人の婦人警官が島に派遣され、こうした風習を耳にしたことから事件が発覚しました。
この風習が明るみになると、英国政府はピトケアン諸島の7人の男性を逮捕し、55件の容疑で裁判にかけました。
しかし、古くからの習わしであったとし、被害にあったとされる少女を含めた島の女性らは、逮捕された男性らを擁護しました。少女らも自発的に性行為を行なっていたと主張しました。
終身刑になることもある児童への性犯罪でしたが、こうした島の事情を考慮して、裁判にかけられた男性らは禁錮2年から禁錮6年という比較的軽い刑となりました。中には禁固刑なしで地域奉仕を命じられた物や、無罪となった者もいました。
1人の女性をめぐり、32人もの男性が殺し合った「アナタハンの女王事件」。にわかには信じ難い事件でしたが、実際に起きたものでした。衝撃的なこの事件は、その後、事件をもとに小説化や映画化などされました。興味のある方は、それらの作品をチェックしてみてください。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局