木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
阿部定事件は、猟奇的でかつ常識では考えられないような事件で、発生当時から人々の関心を集めていました。そのため、当時は大々的に報じられました。
また、阿部定事件はあまりにも惨殺な事件で、平成に入ってもなお、いろいろな映画や漫画の題材になるくらい有名な事件で、時が経過しても多くの人々が興味や関心を抱いています。
今回は、そんな阿部定事件の概要や事件を起こす前の阿部定さんはどんな女性だったのか、阿部定さんの過去、阿部定事件を元に作られた映画や漫画をご紹介していきたいと思います。
阿部定事件(あべさだじけん)は、1936(昭和11)年5月18日に東京市荒川区尾久の待合「まさき」で、阿部定さん(当時32歳)が、愛人である石田吉蔵さん(42歳)を絞殺した事件です。
あまりにも有名な昭和の猟奇殺人だったため、多くの人の関心を集めました。
純愛だからこそ起きた事件とも称される阿部定事件ですが、そもそもどのような事件だったのでしょうか?
仲居であった阿部定さん(当時32歳)が、1936(昭和11)年5月18日に東京市荒川区尾久(現東京都荒川区尾久)の待合(主に芸者との遊びや飲食に使う店で、現在のラブホテルの側面もあった)の「満佐喜(まさき)」で、性交中に愛人の料理亭主・石田吉蔵さん(42歳)を絞殺しました。
阿部定さんは1936(昭和11)年5月18日の午前2時に、眠っている石田吉蔵さんの首に腰紐を巻き付けて絞殺してしまいます。朝まで石田吉蔵さんの遺体を抱きしめたとされています。
また殺害後には、石田吉蔵さんの性器を包丁で切断します。ハトロン紙に包んで逮捕されるまでの間、肌身離さず持ち歩きました。切断した時に出た血を使って、左ももに「定吉二人」、シーツに「定、石田の吉二人キリ」と、石田吉蔵さんの左腕に「定」と刻みました。
石田吉蔵さんのステテコとシャツを腰巻の下につけると、阿部定は宿の人間に「(石田吉蔵さんは)具合が悪くて寝ているから午後まで起こさないでくれ」と伝え、午前8時頃に宿を出ました。
阿部定さんは逮捕後、「彼をとても愛していたから、彼のすべてが欲しかった。正式な夫婦ではないため、彼を他の女性から抱きしめられることも出来るから、私が殺せば他のどんな女性でも彼に決して触ることができないと思った」と言いました。
石田吉蔵さんの性器を切断した理由は、「私は彼の頭か体と一緒にいたかったから、いつも彼の側にいれるように持っていきたかった」と供述しています。
阿部定さんと石田吉蔵さんは、愛人関係で駆け落ちをしている最中に事件が起こりました。
また、少し変わった性癖にハマっていて、性交中に首を絞める行為を繰り返していたようです。
ここでは、阿部定さんと石田吉蔵さんの出会いから不倫関係になるまでの経緯と、なぜそのような行為を繰り返していたのかについて書いていきます。
阿部定さんは、芸者や娼婦などをしながら各地を転々として暮らしていました。名古屋時代から交際をしていた中京商業高校の校長で、名古屋市議市議会議員の大宮五郎さんの紹介で、東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始めました。
阿部定さんは、働いていくうちに店主の石田吉蔵さんに惹かれていきます。石田吉蔵さんも阿部定さんに惹かれ、二人は関係を持つようになり、他の人にばれないように店を離れ、たびたび二人で会うようになりました。
そこから石田吉蔵さんと阿部定さんは、駆け落ちをして、待合を転々とするようになりました。
駆け落ち中に、二夜連続の性行為の最中に、阿部定さんは石田吉蔵さんの首を絞め始めました。石田吉蔵さんは、性交中に首を絞める行為は快感を増すと、続けるように言い、二人は窒息プレイを楽しむようになりました。
1936年5月16日の夕方、二人は首を絞める性交を2時間繰り返しました。しかし、強く首を絞めすぎたせいで、石田吉蔵さんは、うっ血してしまいます。阿部定さんは、薬局に首の痛みを和らげる薬を買いに行きましたが、時間が経たないと治らないと言われ、睡眠薬を買って帰りました。
合計30錠の睡眠薬を石田吉蔵さんに飲ませ、阿部定さんが居眠りしかけた時に石田吉蔵さんは、「俺が寝ている時に、腰紐で締めてくれ!殺し始めたら、痛いから今度は止めてはいけない」と言いました。しかしこの時は、阿部定さんは冗談だと思っていました。
石田吉蔵さんは、家に帰ってゆっくりと休みたいとも漏らしていました。その発言を聞いた、阿部定さんはショックを受けてしまいます。
その言葉を聞いた阿部定さんは、石田吉蔵さんを他の人に渡したくないという気持ちが強くなりすぎて、犯行に至りました。
石田吉蔵さんが絞殺された同日、午前11時頃、旅館の従業員によって、石田吉蔵さんの遺体が発見されて事件が発覚します。しかし、この時にはすで阿部定さんは待合を後にしていました。
殺人事件ですから、当然警察の捜査が開始されます。捜査線上に阿部定さんの存在が浮上しました。3日後に阿部定さんは、あっさり逮捕されます。
阿部定さんは宿を出た後から、逮捕されるまでどのような行動をしていたのでしょうか?
宿を立ち去った阿部定さんは、喫茶店で大宮五郎さんと待ち合わせをし、繰り返し謝罪しました。この謝罪には、自分が起こした事件で、大宮五郎さんに迷惑がかかることへの謝罪でしたが、この時は大宮五郎さんは事件の事を知る由もありませんでした。
そのため、大宮五郎さんは謝罪についてはさほど気にすることなく、その夜は阿部定さんと関係を持ちました。
後の裁判では、阿部定さんとの関係について証言しています。大宮五郎さんは後に、重要参考人として拘束され取り調べを受けています。結果は不問だったが、卒業生に合わせる顔がないと述べて、事件後は隠居生活を送ったとされています。
この事件はすぐに新聞に載り、国民を興奮させました。そして阿部定さんの捜索について引き続いて起こる発狂は「阿部定パニック」と呼ばれました。狐顔で夜会巻きにした女性を、阿部定さんと勘違いした通報がたくさんあり、銀座や大阪の繁華街は一時騒然としたパニックになりました。
阿部定さんが現れたという情報が流れるそのたびに、町はパニックとなり、新聞もそれを楽しそうに愉快に書きたて、さらに騒動を大きくしました。後に昭和11年の3第事件にも数えられます。
世間がパニックを起こしている最中、一方で、当事者の阿部定さんは、報道の過熱ぶりとは反対に、買い物をしたり映画見たりして過ごしていました。
5月20日に品川の宿「品川館」に大和田直という偽名を使って宿泊し、大阪へ逃亡する予定だった阿部定さん。品川館で阿部定さんは、マッサージを受けて、ビールを3本飲みました。また、友人や大宮五郎さんに別れの手紙を書いていました。
同日の午後4時に、警察が阿部定さんの宿泊している部屋へ踏み込みます。「阿部定を探しているの?私がお探しの阿部定ですよ。」と、さらりと言い逮捕されました。刑事たちは、阿部定さんの落ち着いた態度に驚きました。
阿部定さんは精神鑑定にもかけられて、結果サディズム、フェチズムであると判断されました。裁判の結果、事件は痴情の末と判定が下り、懲役6年(求刑10年)の判決を受けて服役しました。刑務所での生活は模範囚となり、普通の人の約2倍の作業をこなしていたと言われています。
しかし、石田吉蔵さんの一周忌を迎えることで、精神が不安定になり、奇行を繰り返すことになりました。それでも、徐々に平常心を取り戻していきました。1941(昭和16)年に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受けて、事件から丸5年後に出所しました。
出所した阿部定さんは、その後どのような生活を送ったのでしょうか。
1941年に恩赦を受けて出所した阿部定さんは、警察の配慮から「吉井昌子」という名前が与えられ、阿部定さんは過去を隠して生活していくことになりました。
しかし、終戦直後に乱造された「お定本」と呼ばれるカストリ本の一つである「昭和好色一代女お定色ざんげ」を巡って、著者と出版社を名誉毀損で告訴しました。
告訴した時は、、阿部定さんは埼玉県のサラリーマンの男性と結婚(未入籍なので事実婚)していたが、阿部定だと知ったことが原因で破局しました。
その後、再び各地でいろいろな仕事を転々としていた阿部定さんですが、62歳の頃、台頭区におにぎり屋「若竹」を開店します。表向きはおにぎり屋でしたが、おにぎり目当ての客はほぼおらずカウンターでアルコールを振舞う店だったようです。
しかし、従業員が体調を崩したことで阿部定さんが一人で店を切り盛りするようになるが、彼女も身体を壊し、さらには店の資金を恋人に持ち逃げされたことで閉店に追い込まれます。また、借金だけが残り、ある程度は返済するも全額返済の目途は絶ちませんでした。
阿部定さんはそのことから、自殺を考えましたが説得を受けて東京に戻り、過去に仕事を紹介してもらった人に再び、千葉にあった勝山ホテルを紹介してもらい、働くようになりました。阿部定さんは、この時「こう」という名前を使っています。
1971(昭和46)年の6月頃に、置き手紙を残して浴衣1枚だけ持って、働いていたホテルから姿を消しました。失踪後、1974年に浅草の知人の旅館に匿われていると証言していますが、これを最後に以後の阿部定さんの足取りは途切れてしまいます。
1987年頃までは石田吉蔵さんの永代供養をしていたお寺に、毎年命日にはお花が供えられていて、これは阿部定さんによるものではないかと考えられています。お花が供えられなくなったことから、阿部定さんはこのころ亡くなったのではないかと予想されています。
事件後、阿部定事件を再現する舞台を本人役として出演し、全国を巡業しています。芝居・見世物一座で阿部定さん本人が講釈し、石田吉蔵さんの局部の模型を見せることをしていたと、瀬戸内寂聴さんがNHKのラジオ番組で語っています。また、浅香光代さんも子供時代に阿部定劇を見たと語っています。
これまでは、事件から事件後の阿部定さんを見てきました。
日本中を浸透させる事件を起こした阿部定さんですが、彼女はいったいどのような生い立ちを歩んできたのでしょうか。
ここでは、生誕から事件発生までの阿部定さんの足取りを解説していきます。
阿部定さんは1905(明治38)年5月28日に、江戸時代から代々続く畳店「相模屋」の阿部重吉さんとカツさん夫妻の末娘として、東京市神田区新銀町(現東京都千代田区神田多町)に生まれます。母カツさんの乳の出が悪かったため、1歳になるまで近所の家で育てられました。
阿部定さんは、8人兄弟で、長女、次男、三男を幼くして亡くし、四男は養子にだされていました。そのため、長男、次女、三女の4人兄弟でした。しかも、長男とは20歳以上も年が離れていて、次女とは17歳、三女とは6歳と離れています。
そのためか、孫の年ぐらい離れた末娘の阿部定さんが両親はとても可愛がりました。進学する前から三味線や常盤津を習っていて、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判になるくらいの美少女でした。
写真はイメージです。
孫ぐらい年の離れた末娘に母親は稽古のたびに、毎回新しい着物を着せて、大人のように髪を結わせて通わせていました。また、阿部定さんがこれが似合う美少女だったため、とても可愛がっていた両親は鼻が高ったそうです。阿部定さんの見栄っ張りで、少々高慢な性格はこの頃から見受けられるようになっていました。
両親は学校生活より稽古を優先して育て、尋常小学校の教師から注意を受けるぐらいでした。そのような環境のせいか、10歳になる頃には性行為の意味を知っていたと言います。
高等小学校に進学した阿部定さんですが、15歳の時に自主退学しています。
そんな阿部定さんは友人宅に遊びに行ったとき、友人の兄の友人である大学生も遊びに来ていて、彼とふざけあっていたところ強姦されてしまいます。阿部定さんは15歳(数えのため満14歳)でした。
この時、阿部定さんはまだ処女だったため大きなショックを受けてしまいます。しかも、2日も血が止まらないので、恐ろしくなりは母親に相談しました。母親は大学生の家に行きましたが、本人に会えずに泣き寝入りすることになりました。
この強姦事件で、お嫁にいけないと阿部定さんは考え、思いつめた結果、自暴自棄になってしまいます。母親はそんな阿部定さんを見て、優しい言葉をかけたり、物を買い与えたりしましたが、それが逆効果となり彼女の癪にさわり、余計に苛立たせました。
この頃、阿部家では長男夫婦と三女夫婦の間で揉めていました。母親は年頃の阿部定さんに、家庭内の揉め事を見せないように小遣いを渡して外に遊びに行かせていました。
やがて阿部定さんは大金を家から持ち出して、不良娘になり浅草界隈を仲間を引き連れて遊ぶようになります。父親は厳しく阿部定さんをしかりつけ、家から閉め出したり、折檻をしたりしましたが、阿部定さんの行動は治らず。
後に浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり、地元の神田にまで阿部定さんの名は轟くようになります。
阿部定さんが16歳の時に、三女の縁談が決まると、家を追い出される形で女中奉公に出ました。しかし、女中公房先の屋敷の着物や指輪を盗み警察のお世話になることになり、わずか1ヵ月後に家に送り返されました。
これに対して、父親は非常に怒り、それから約1年間、阿部定さんを自宅で監禁と同じ扱いで過ごさせます。
長男が両親のありったけのお金を持って蒸発したことで、畳屋を店じまいすることになりました。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたので、生活には困りませんでした。
写真はイメージです。
阿部定さんは、その後いろいろな男性と交際を繰り返し続けて、見かねた父親と兄に、17歳の時に、「そんなに男が好きなら芸妓になれ」と長男の前妻の妹旦那で女術の秋葉正義さんに売られてしまいます。阿部定さんに夜這いをし、関係を結び4年ほど彼女のヒモになりました。
神奈川県横浜市住吉町(現横浜市中区住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に前借金300万で在籍することになり、芸者の道へ進むことになりました。源氏名は「みやこ」です。
春新美濃には1年ほど在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いています。三味線が弾けるぐらいしか特技がない阿部定さん。座敷に出ると客に性交を強いられることが多いので嫌だったそうです。
1923(大正12)年の関東大震災で、秋葉正義さんの家が全焼しました。阿部定さんは秋葉正義さんを助けるため、富山県にあった平安楼に店を移しますが、その時に約1000円の前借をしています。当時の1000円は一軒家が建つほどの大金。
しかし、20歳になると秋葉正義さんに騙されていたことを知って縁を切ろうとしますが、契約書が秋葉正義さんとの連版だったため、借金を返すため再度店を変えます。しかし、ここでも秋葉正義さんと連版で契約するしかありませんでした。
店を変えて阿部定さんは、売れっ子芸者になりましたが、性病にかかってしまいます。この出来事で遊女に身を落とすきっかけになりました。また、この時阿部定さんは母親に、秋葉正義さんの関係をすべて話して、連版の契約書を返してもらっています。
遊女になった阿部定さんは、父親の連版で大阪飛田新地の高級遊郭と契約しました。源氏名を「園丸」にし、売れっ子になりました。
1年ほどすると常連客の会社員から身請けの話が持ち上がりましたが、男性の部下も阿部定さんの常連だったので、実現することはありませんでした。
その後は逃走に失敗したり、トラブルを起こしては店を変えて、大阪・兵庫・名古屋の店を転々とし、客層がどんどん悪い店に落ちていきました。最後は、兵庫県篠山にあった下流遊郭「大正楼」から逃げ出して、遊女の仕事を辞めました。
阿部定さんは、大正楼を逃走後、神戸で2ヵ月ぐらいカフェで働き、大阪へ移動しています。遊女こそはなりませんでしたが、私娼や妾、仲居になったりしていました。
この頃は、男性と毎日肉体関係を持たないと気がおかしくなりそうと、セックス依存症らしき症状に見舞われます。実際に医者にも相談していますが、読書や結婚を薦められ終わったようです。
1933年1月に大阪の阿部定さんの元へ母親の死亡したという電報が届きます。翌年には、父親が重病で床に臥せていると連絡が入り、阿部定さんは父親の元に行き、10日間つきっきりで看病しましたが、父親も亡くなりました。父親の最期の言葉は、「まさかお前の世話になるとは思わなかった」だそうです。
阿部定さんは、愛人を作っては変えるということを繰り返していました。しかし、ある1人の愛人から訴えられ名古屋へ逃亡しました。
名古屋の料亭で阿部定さんは、大宮五郎さんと知り合い交際を始めました。大宮五郎さんは、紳士的な男性で、阿部定さんは初めて会うタイプでした。
そして、大宮五郎さんの紹介で吉田屋で働くことになりました。吉田屋の店主である石田吉蔵さんにここで出会って、事件発生となったのです。
阿部定事件は、猟奇的ではありますが、一途に1人の男性を思う”究極の純愛”として語られることもあるため、たくさんの映画や文学作品のモチーフになっています。
また、俳優の阿部サダヲさんの芸名の由来が今回取り上げている阿部定さんに由来していることを知っていましたか?
阿部定事件をモチーフにした作品をいくつかご紹介と阿部サダヲさんがなぜこの名前にしたのか由来をご紹介していきたいと思います。
こちらの『阿部定事件~ふたりの女~』は、安武わたるの作品で、阿部定さんの幼馴染の女性にスポットを当てた物語です。
主人公を阿部定さんではなく、幼馴染の女性にしていますが、ストーリー自体は阿部定事件を描いています。
事件の様子から生い立ちからの阿部定さんの生涯を描いた作品になっています。
こちらの「愛のコリーダ」は、1976年と2000年に公開された、日本とフランスの合作映画です。監督は大島渚さんで、吉蔵役には藤竜也さん、定には松田瑛子さんが演じています。
物語は阿部定さんと石田吉蔵さんが出会うことから始まり、事件までを描いています。男女の愛欲の極限を描いた作品であり、日本初のハードコアポルノとして、当時大きな話題になりました。
映画では主に藤竜也(吉蔵役)と松田瑛子さん(定役)の性的シーンはすべて無修正で撮られているため、二人の陰部が写されているシーンがあるため、日本国内では大幅な修正が施され、2000年に「完全ノーカット版」としてリバイバル上映されました。
阿部サダヲさんは、本名『阿部隆史(あべたかし)』さんと言います。
そこで、芸名を考える時に本名が阿部だから阿部定事件から「阿部定を」が候補として挙がったそうです。「定を」をカタカナにしてサダヲになりました。
昭和の初期に起こった事件、阿部定事件ですが、今もなお語り継がれているのは、それだけ人々の興味を引いてやまないからでしょう。証拠に阿部定事件をモチーフにした、映画や小説などがたくさんあります。
阿部定さんが起こた事件、その後の行動、阿部定さんの一生は一言では語れないくらい、いろいろな事が起きています。しかし、一つ言えることは殺してまで自分のものにしたいという一途な愛情は素晴らしいと思います。
決して真似をしてはいけませんけどね。
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