木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
ロシアになる前の旧ソ連で起きたとされる怪事件・ディアトロフ峠事件。多くの謎が残る事件として、事件から50年経つ今でも語り継がれています。実際に事件を調査している人もいます。現在までに、事件に関して多くの説が唱えられてきました。そして、事件の原因を決定するような新説も出てきました。
それは大気物理学説というものです。聞き馴染みのない言葉で、想像するのが難しく感じるでしょう。そこで今回は、旧ソ連で起きた怪事件・ディアトロフ峠事件や、新説・大気物理学説をご紹介します。
まずは、ディアトロフ峠事件の概要から見ていきましょう。ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日に旧ソ連のウラル山脈で、スキーのトレッキングを行なっていた男女9人が死亡した事件です。それぞれの死体が、通常では考えられないような不可解な状態だったために、多くの謎を呼びました。
スキーのトレッキングに向かった一行のリーダーは、イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフという名です。事件は、リーダーの名前からディアトロフ峠事件と呼ばれるようになりました。この一行は、いずれも現在のウラル工科大学の生徒、もしくは卒業生でした。
ディアトロフ峠事件の舞台となったのは、ウラル山脈の北部に位置するホラート・シャフイル山の東斜面でした。この、ホラート・シャフイル山はマンシ語で「死の山」を意味します。マンシ語とは、シベリア北西部の少数民族のマンシ人が話す固有の言語です。
このホラート・シャフイル山、通称「死の山」で9人全員の遺体が見つかりました。遺体には、争った形跡がなかったのにも関わらず、2体の遺体には頭蓋骨の骨折、別の2体には肋骨の骨折の跡が見られました、1体は舌を失っていました。
肋骨の骨折などは、交通事故にあった時に出来るような、非常に強い衝撃をうけたことを示していました。しかし、遺体には外傷がありませんでした。このことから、あたかも非常に高い圧力を加えられたようだと考えられました。さらに、舌のなくなった遺体もあり、多くの謎を残しました。
一行は、1月25日にトレッキングへと向かいました。登山を終えて近くの集落に戻り次第、リーダーのディアトロフが自身のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていました。当初、2月12日までには電報が送られてくるだろうと思われていました。しかし、12日を過ぎても電報が送られてくることはありませんでした。
20日になってようやく、親族の要請により、大学の学生や教師からなる救助隊が送られることになりました。その後、軍と警察も捜索を開始しました。そして、2月26日、捜索隊はホラート・シャフイル山にひどい損傷を受けたテントを発見します。テント内には誰もおらず、荷物は置かれたままでした。
発見されたテントの周囲には、近くの森に向かって残された足跡がありました。捜索隊は足跡を追っていくと、森の外れの大きなヒマラヤスギの下に2つの遺体があるの発見。遺体は、下着姿で靴も履いていないユーリー・クリヴォニシェンコとユーリー・ニコラエヴィチのものでした。
さらに、この木から300メートル進んだところにリーダーのディアトロフの遺体がありました。また、480メートル先にはジナイダ・コルモゴロワ、630メートル先には流ステム・スロボディンの遺体がありました。遺体の状況から、彼らはテントに戻る最中に亡くなったと考えられています。
そして、2ヶ月後に残る4人のメンバーの遺体が発見されました。4人の遺体は、ヒマラヤスギから75メートルほど進んだ森にある渓谷の中で、深い雪の下にありました。雪の深さは4メートルほどで、4人の遺体、は他の遺体よりもまともな服装でした。先に亡くなったメンバーの服を譲り受けたと考えられています。
捜索隊がはじめに発見したテントは、内側から半分に切り裂かれていました。そして、荷物は残されたままでした。さらに、周囲にある足跡は、片足だけ靴を履いたものだったり、靴下だけだったり、裸足のものもありました。実際の遺体もその通りでした。このことから、何かから慌てて逃げ出したのではという説があります。
ディアトロフ峠事件の不可解なところはさらにあります。何人かの遺体の服から放射線物質が発見されました。しかも、その放射線物質の線量は高かったのです。
当時のソ連の捜査当局は、検視をしたりしてこの事件の調査を行いました。様々な謎が残る中で、捜査当局が出した調査結果は、「抗いがたい自然の力によるもの」が原因で全員が死んだというものでした。そして、事件の調査は1959年5月に公式に終了しました。この曖昧な見解に、現在でも多くの仮説が唱えられています。
多くの謎が残るディアトロフ峠事件。当時の捜査当局の発表では、全員の死の原因は「抗いがたい自然の力によるもの」でした。しかし、これに異を唱えるような説もあります。ここからは、捜査当局の発表とは違う説をご紹介します。
様々な仮説が持ち上がりますが、中でも有力とされるのが雪崩が原因で死んだというものです。この説によると、夜に雪崩に遭遇したメンバーがテントを切り裂いて脱出するも、靴や衣服などを喪失してしまったというのです。
遅れて見つかった4人の内3人の遺体には、ひどい骨折の痕がありました。これは、雪崩でパニックになり、助けを求めるために移動しようとして渓谷に落ちて出来た傷だとも考えられます。4人が4メートルの深さから見つかったのも、渓谷から滑り落ちたからだとも考えられます。
しかし、一般的に雪崩は傾斜が30度以上の場合に発生することが多いです。一行が見つかった一帯は、傾斜が15度であり、雪崩は起きにくい地域であるという主張もあります。さらに、遺体の衣服にあった放射線物質や、喪失した舌など雪崩だけでは説明のつかない謎もあります。
原住民に殺されたという説あります。ディアトロフ峠があるウラル山脈には、500年頃からマンシ人という人種が暮らしています。一行は、そこに住む先住民のマンシ人とトラブルになり殺されたのではないかというのです。
しかし、現場には一行の足跡しか残っていませんでした。さらに、至近距離で争ったという形跡がないために、原住民に殺されたという事実は無いと考えられています。
他にも、イエティに殺されたという説があります。イエティとは、ヒマラヤ山脈に住むとされる未確認動物です。日本で言うところの雪男です。舌が無くなった遺体があったことから、この説が浮上しました。
また、一行が書いたとされる「雪男は存在する」というメモが残されていました。他にも、大きな足跡が映った写真もありました。
しかし、舌がイエティに食べられたと考えると、どうして他の遺体は食べられなかったのか、などの謎も出てきます。捜索隊が発見した足跡は、一行のものしかありませんでした。そもそも、イエティは未確認動物です。こうしたことから、イエティに殺されたというのも説としては薄いでしょう。
遺体の中には、衣服から放射線物質が検出されたものがありました。このことから、ソ連軍が何らかの形で関わっているのではないかと噂されています。ディアトロフ峠周辺には、ソ連軍の秘密基地があったと言われています。そして、その基地で放射能が漏れ出る事故が起きたという話もあります。
何らかの形で、この秘密基地や事故のことを知ってしまった一行を、軍は隠蔽しようとして抹殺したのではないかと考えられているのです。また、事件当日には実際にミサイルの実験が行われていました。
不思議なことに、遺品の中には軍用のブーツカバーがあったとの証言もあります。舌の無くなっていた遺体は、軍人からの拷問によるものだという考え方も出来ます。
・イエティではなく熊に襲われて殺された
・竜巻が起こり巻き込まれてしまった
・雷が落ちて死んだ
・仲間割れが起こり互いに殺しあった
など、他にも多くの説が囁かれています。
様々な説が囁かれる中、新たに大気物理学説というのが提唱されました。この大気物理学説によると、「カルマン渦列」という現象がディアトロフ峠事件の真相だというのです。
この新たな説は、2018年に発刊された「死に山」という本で紹介されました。「死に山」は、アメリカの作家で映画プロデューサー・映画監督でもあるドニー・アイカーによって著されました。
この本では、時系列ごとに事件が起こるまでの一行の足跡を辿るとともに、事件後の捜索隊の行動も描かれています。また、著者のドニー・アイカー自身も現地で実際に調査しており、克明に事件の詳細が検証されています。
入念な調査の結果、著者のドニー・アイカーは、カルマン渦列によって不幸な事故が起きてしまったのだと決定づけました。
「カルマン渦列(うずれつ)」とは、流れの中に障害物を置いた時、もしくは流体の中で個体を動かした時にできる渦の列のことをいいます。気象現象におけるカルマン渦列においては、風(流体)が山(障害物)にぶつかることによって、カルマン渦が発生するのです。ヘアピン渦とも呼ばれることがあります。
そして、このカルマン渦は2本の竜巻となり轟音が鳴り響きます。2本の竜巻の間には超低周波音が発生します。超低周波音は、振動によって人間の胸を圧迫させます。テントの中で渦(竜巻)に挟まれ、超低周波音で胸を圧迫された9人はパニックを起こし、テントから逃げ出したのだとドニー・アイカーは考えたのです。
実際に、ディアトロフ峠のある山の形状は、左右対称でドーム型の障害物となっていました。これは、カルマン渦発生しやすい形だったのです。カルマン渦が発生しやすい場所にテントを設置してしまったことにより、不幸な事故が起きたとされています。
ディアトロフ峠事件は、カルマン渦によって起きたという説が一番有力なのかもしれません。頭蓋骨や肋骨が折れていたのは、パニックになった一行がテントから飛び出し、そのまま峡谷に落ちてしまったからだとも考えられます。
しかし、この説にしても不可思議な点は残ります。どうして舌の無い遺体があったのでしょうか?そして、遺体の衣服から計測された比較的高い放射線量の原因は何なのでしょうか?いまだに多くの謎が残ります。
多くの謎が残るディアトロフ峠事件ですが、2019年にロシア政府がこの事件を再調査していることを明らかにしました。実は、2018年の9月から、ロシア政府はディアトロフ事件の包括的な見直しを行っていたのだそうです。
事件の見直しを行った検察は、75種類もの説を調査しました。その中で、イエティなどの未確認生物による殺人説やUFOなどの宇宙人による事件などの幻想的な説を排除しました。そして、遺体にあった傷は死後に出来たものだということが判明しました。頭部の傷も遺体の凍結によるものだったようです。
今後、ロシア政府から派遣された専門家のチームが現地に入り、サンプルを採取して調査し、最終的な判断を下すのだそうです。
結局、ディアトロフ峠事件の真相は何だったのでしょうか?これまで調べてきたことから考えると、当初ソ連政府が発表した「抗いがたい自然の力によるもの」という説が濃厚なようです。その自然現象が、雪崩なのかあるいはカルマン渦によるものなのか。
しかし、自然によるものだとしても、衣服から計測された放射線の謎は残ります。果たして、自然現象によって高い量の放射線物質に晒されることはあるのでしょうか?今後、ロシア政府が現地に専門家チームを派遣するということで、このように残った謎についても解明されると良いですね。
真相が解明されつつあるディアトロフ事件。しかし、当時ソ連政府は事件から4ヶ月という早さで、捜査に幕を下ろしました。そして「抗いがたい自然の力によるもの」という曖昧な発表で、事件の原因を結論づけました。では、なぜソ連政府は事件を封印しようとしたのでしょうか?
ディアトロフ事件が起きたのは、米ソ冷戦の最中でした。当時、ウラル山脈の裏側には、旧ソ連軍の弾道ミサイル発射基地がありました。そこで政府は、この基地の情報やミサイルに関するデータが捜査を続けることで外国に漏れるのでは無いかと危惧しました。そして捜査の幕引きを図ったのだそうです。
不可解な謎も残りますが、ディアトロフ事件は解決に向かって進んでいます。ロシア政府も現地に専門家を派遣して調査をすることを発表しました。過去と比べて科学技術が発展してた現在。当時わからなかったことが明らかになるかもしれません。事件解明の日も近いでしょう。
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