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2023/12/28
大今里
みなさんはプロレスラー時代に「壊し屋」という異名がつけられ、周囲から恐れられていた前田日明さんをご存知でしょうか?
テレビなどでは怒っている印象が強いかもしれませんが、プロレスラー時代はプロレスの基盤を作り、当時の格闘技に「革命」を起こしたと言ってもを過言ではありません。
そんな偉大な前田日明さんですが、恐れられることには理由があり数々の「武勇伝」を残して来られました。この記事では、前田日明さんがどんな人間なのか「武勇伝」を含め紹介していこうと思います。
まず前田日明さんのことをご存知ないあなたのためにも、簡単なプロフィールを紹介していこうと思います。プロレスファンだったりすると知っている方も多いかもしれないですが、改めて確認しておきましょう!
リングネーム:前田 明、前田 日明、クイック・キック・リー
本名:前田 日明
ニックネーム:格闘王、壊し屋、スーパー・デンジャラス・ヒーローなど
身長:192cm
体重:115kg
誕生日:1959年1月24日(59歳)
出身地:大阪府大阪市大正区
デビュー:1977年8月25日
引退:1999年2月21日
前田日明さんは少年時代から「少林寺拳法」をしており、高校時代には空手を習って言います。最終的に空手は「2段」を取得するなど、ただヤンチャなだけではなく武道に対しても一生懸命取り組んでいました。
なぜ武道に興味を持ったのかというと、「ウルトラマン」の存在だそう。ウルトラマンがゼットンに負けたことで、仇を取ろうと少林寺拳法を始めたのだとか。実は前田日明さんってウルトラマンを守ろうとするなど、優しい気持ちを持った少年だったのですね!
ヤンチャな気質と共に、闘争心や優しい気持ちを持っていった前田日明さんですが、高校卒業後は大学受験に失敗したそうです。その後はすぐにプロレスラーにならなかったことが判明しました。
実は、ある夢のためにお金が必要だったため「アルバイト」をする日々が続いたそう。そこでここからは前田日明さんが叶えたかった夢の正体や、プロレスラーになった経緯について見ていきましょう。
前田日明さんの当時の夢は、大山倍達という有名な空手家の弟子達のように、アメリカに空手の道場を開くことだったのだそう。大山倍さんは極真空手の生みの親と言われており、前田日明さんはしっかりと「師匠の意思」を受け継いでいました。
最終的には空手家ではなくプロレスラーの道に進みますが、引退後も数々の団体の立ち上げや運営などに携わり、「THE OUTSIDER」など数々の団体の運営をしています。
空手の道場は開いてないですが、当時の思いは忘れずに格闘技の発展を願ってきた一人なのです。
そんな前田日明さんですが、デビューは1978年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でした。デビューのきっかけは佐山聡さんの誘いです。
佐山聡さんといえば、「初代タイガーマスク」で「修斗」という総合格闘技団体の親ともいわれています。誘い文句は「モハメドアリのジムと提携しているから、ボクシングのチャンピオンも目指せる」という言葉だったのだとか。
佐山聡という一流の格闘家による誘いを受けたことによって、プロレスラーとしてのキャリアがスタートしました。
プロレスラーとしてのキャリアを築いていきますが、前田日明といったら忘れてはいけないことが1つあります。そう「武勇伝」です!
実は前田日明さんは、学生時代から今までに到るまで、数々の衝撃的な武勇伝を残してきていました。自称ではありますがストリートファイトの対戦成績は1万戦無敗と言っています。
ここからは前田日明さんの語っていた武勇伝を見ていきましょう!
前田日明さんは切磋琢磨し、空手の「初段」を取ることができました。しかしそこから前田日明さんの戦いは始まりまったのです。
初段取得後、ある日先輩から声をかけられたそうで「初段は仮免許のようなものだ、仮免には路上教習というものがある!」と呼び出されたのだとか。
先輩の発言した路上教習とは「ストリートファイト」で、一度ではなく度々呼び出されストリートファイトをさせられたと言っています。「武道家なのに!?」と思った方もいると思いますが、この武勇伝から前田日明さんのいた世界は、上下関係が厳しかったことがわかります。
前田日明さんは高校生のときに、空手の修行のため、相撲取りを襲撃したのだそう。後ろから髪の毛引っ張ってしばいて、パンチが効かなければ逃げればいいかぐらいに思っていたのだとか。
実際に大阪場所のとき、近くの公園で待ち伏せをしていると、相撲取りで100kg級のサイズで「ザンパラ頭の序二段」くらいの奴が出てきたらしく、髪の毛を早速掴もうとしたときに気配を感じて、振り返ってみると当時の大横綱:輪島さんがいたそう。
そのことに怖気付いて「輪島さんお疲れ様です。僕ファンです」なんて挨拶してしまい、その流れで体が大きいことを理由に「君、相撲取りにならないか?」なんて誘われたのだとか。この話は前田日明さんを代表する武勇伝の1つです!
前田日明さんはテレビで放送できないほどの武勇伝を過去に発言していました。その武勇伝の名とは「代官山槍ヶ先交差点事件」です。
名前の通り、代官山槍ヶ先交差点で事件を起こしているのですが、内容がやばいです!交差点に占拠している〇〇をしばいたと言っています。占拠しているという発言から、相手は複数人であることが読み取れます。
この武勇伝が気になる方は「全力!脱力タイムズ」という番組にて、語っていますので確認してみてくださいね!
前田日明さんはプロレスラーの仲間をフルボッコにしたことがありました。「坂田亘選手フルボッコ事件」の名の通り坂田亘さんをフルボッコにしていました。
実はこの事件の背景には裏話もあります。坂田亘選手ですが、以前した試合の内容に対し前田日明さんは怒っていたそうで、「次も不甲斐ない試合内容だったらシバくぞ」なんて言われていていたのだとか。
実際に蓋を開けてみると不甲斐ない試合だったので、前田日明さんは怒っているのです。やりすぎとの声もありますが期待されていた試合だけに「プロレスへの愛」や「ファンへの思い」が行動させたのではないかとも取れる武勇伝ですね。
事件は後楽園ホールで起きました!前田日明のUWF軍 対 長州力の維新軍の6人タッグマッチにおいて、UWFの木戸選手に長州力がサソリ固めをかけていたときになんと、
前田日明が乱入、さらには「顔面キック」をします。理由は、勢いのある全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するためと明かしていました。
このキックによって長州力選手が、右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負い前田日明はプロレス道に反したとされ解雇されます。
この武勇伝は有名ですが、前田日明さんが六本木に「愛車のベンツ」を停めていると、在日米軍の五人グループが車に腰をかけていたのだそう。
そのことに対して前田日明さんは激怒し、4人それぞれにハイキックを食らわしてボコボコにしたらしく、最後の一人なんて「参った!アンタは強い、勘弁してくれ!」なんて言っていたのだとか。
少年時代からヤンチャだった前田日明さん。小学校からウルトラマンを守るために「少林寺拳法」をはじめ、高校生になると「空手」をしていました。当時の空手の先輩が厳しく武道の一環として「ストリートファイト」をしていました。
前田日明さんの武勇伝はそれだけでは収まらず、相撲取りや、在日米軍、同業のプロレスラーなど様々な人達と揉めた武勇伝も存在しました。
しかしそんな背景には格闘技への愛も感じ取れ、おっかないけれども嫌いには慣れない前田日明さんの人間性が現れています。これからもみんなで応援していきましょう!
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