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2023/12/28
大今里
最初に、日生学園がどういったところなのかについて迫ってみたいと思います。日生学園とは、一体どういった学校なのでしょうか。
日生学園とは学校法人日生学園のことであり、1965年12月13日に認可された学校法人です。過去の校名は、日生学園第二高等学校が正式でした。日生学園第二高等学校は、学校法人日生学園により運営されています。”第二”ということで、日生学園には系列の高校が存在しています。系列校については、後述します。
日生学園第二高等学校は全寮制の学校であり、今から42年前の1980年に開校しています。1982年には、本校の敷地内に日生学園附属中学校と附属幼稚園が併設されました。
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日生学園第二高等学校は名前を変えて、現在も運営されています。現在は一体どういった学校なになっているのでしょうか。続いては、日生学園第二高等学校の現在について探ってみたいと思います。
日生学園高等学校は、2015年に「青山高等学校」と名前を変えました。それは、学校法人日生学園創立50周年を記念してのことでした。日生学園の創設者である青田強氏は1986年に亡くなり、その後は息子である青田進氏が学園長を務める事になりました。
青田進氏が学園長になってからは、昔のスパルタ学校と言われていたような校風では無くなっています。昔の日生学園第二高等学校は、素行不良などの理由で進学できない生徒を受け入れていました。現在は、いじめなどによる不登校や引きこもりの生徒を受け入れる学校として、入学する生徒が多くなっています。
日生学園は系列学校が存在しており、1966年に日生学園第一高等学校(現在・桜丘高等学校)が開校しました。そして、その後1980年には日生学園第二高等学校(現在・青山高等学校)が開校しています。さらに1982年に日生学園附属中学校(現在・桜丘中学校)と、付属幼稚園(現在、休園中)が開校しました。
それから1983年になると、日生学園第三高等学校(現在・自由が丘高等学校)が開校しました。自由が丘高校は、2021年に新型コロナウイルスの影響で生徒の募集を停止しました。在校生は青山高等学校へと転校しています。
日生学園第二高等学校当時の偏差値は39とされており、当時のレベルでは底辺だったといわれています。素行不良で他の高校を受験できなかった生徒達を受け入れる学校だったため、偏差値が低くなっていて可能性があります。そして現在、青山高等学校の偏差値は38~42であり、大体40前後です。
あまり昔と偏差値が変わらないとはいえ、現在不登校の生徒たちを受け入れる学校に変わっています。不登校で学校を休んでいたため勉強が追いつかなかった生徒が多く、受け入れやすくするためにも偏差値を低くしてあるのだと考えられます。
偏差値は昔も今も低いのかもしれませんが、現在は学業にしっかりと取り組むことで大学に進学できるような取り組みを行っている模様です。イギリスのパブリックスクール「イートン校」をモデルにしているとされています。
欧米の全寮制教育を日本にも取り入れようと、イートン校から学んでいる部分が大きいようです。その教育をもとに取り組んでいるからなのか、青山高等学校の生徒の中には国立大学に進学する生徒や、早稲田大学や明治大学などの有名私立大学に進学する生徒もいます。
現在の青山高等学校は学園長が変わり、徐々にスパルタ学校ではなくなっていきました。では、校則などはどうなったのでしょうか。噂では他の高校と比べてやはり厳しいとも言われているようですが、実際はどうなのか見ていきましょう。
青山高等学校は、髪型や服装、時間厳守にはとても厳しいとされています。髪型に関しては男子生徒は坊主では無くても大丈夫になっているものの、朝昼晩の生活リズムを徹底して3年間積み上げていくように心掛けているようです。
元々日生学園第二高等学校は、不登校などで生活リズムの乱れなどもあった生徒が多い学校でもありました。そのため寮生活や学校生活の中で決められた毎日のパターンを繰り返し、社会性を身につけることを目的として時間厳守などは厳しいのでしょう。
青山高等学校では月曜日から土曜日まで毎朝マラソンをする習慣があるといいます。大変そうに思えますがジョギング程度の軽いもので、中には参加しない生徒もいたりするようです。ジョギング程度のマラソンであれば、健康維持のためにも良い事かもしれません。
2学期にはマラソン大会がある模様であり、毎朝のマラソンの成果を試すことができるでしょう。昔の日生学園第二高等学校のスパルタ指導の頃は、放課後には必ず10キロマラソンをしなければならなかったという話があり、その時代と比べるとかなり緩くなったと考えられます。
青山高等学校では大声で大合唱するという習慣もあるといいます。実は、スパルタ指導をしていた日生学園第二高等学校の頃から、大声を出すという事が重視されていた模様です。返事は必ず大声でしなければならない決まりがあり、入学して3日後には声がかれてしまうこともあったのです。
そして掃除をする際も、大声を張り上げながら床を拭く風習もありました。現在も大声を出すという事は重視しているものの、当時と比べると、大合唱なら大分楽なのではないでしょうか。
共学の高校で、男女交際禁止の学校も存在します。ましてや青山高等学校は寮生活なので、問題が起こらないように規則があるのは当然のようにも思えるでしょう。現在、青山高等学校では生徒で男女交際していることが見つかった場合、停学処分などで罰せられるといいます。
しかし、バレないようにこっそり付き合っているケースもあるといい、意外にも生徒側が罰則に怯えている様子などはあまり無いかもしれません。 スパルタ指導の頃は、男女が話しているだけでも退学処分になり得るほど厳しかったそうなので、異性に会いに行くには決死の覚悟だったようです。
青山高等学校は、上級生たちや教師に対して必ず敬語を使うという規則があります。学校に来客者が車で通りすがった場合には、立ち止まってお辞儀をするという決まりもあるといいます。生徒たちがしっかりとした社会性を身につけるためにも、挨拶や敬語にはとても厳しく指導しているのでしょう。
青山高等学校は校則が厳しいと言われていますが、日生学園第二高等学校の頃と比較してみると現在より昔は厳しかったのです。続いては、日生学園第二高等学校はどれほど厳しい学校だったのかについて見ていきたいと思います。
日生学園第二高等学校がスパルタ教育だった時代は、現在の校則であるマラソン、大声を出す、男女交際の禁止、服装や髪型、時間厳守などはもちろんの事、他にも様々な厳しい校則が存在していました。まず、「トイレ掃除は素手で便器を洗わなくてはならない」という点です。
汚れがこびりついていれば、それは爪で取って綺麗にしなければいけません。日生学園第二高等学校には「便器は心の鏡」という教えがあり、便器が汚れていると心も汚れているとされたのです。
さらに起床時間は水曜日・日曜日を除く曜日は、4時に起きなくてはならなかったそうです。起きた後は、大声を出しながら掃除をするという日課が待っていました。これは”心行”という修行なのだといいます。心行では各部屋10分間と各階の廊下などを10分間行ってから、体育館に集合し1時間ほど行われます。
心行が終わった後は体育館と寮で1度ずつ点呼があるでしょう。自室に戻ってからは制服に着替えて、整列して食堂の前まで集団で登校します。食堂前では国旗と校旗の掲揚を行い、食堂で朝食をとります。しかし、朝食もスピーディーに食べなければいけません。
手早く朝食を終えた後は、食堂前で校歌を斉唱して朝食は終了です。このようなスパルタである日課が、刑務所みたいだと言われる事もあったでしょう。
高校生も、休日くらい休みたいという人もいるでしょう。しかし、日生学園第二高等学校はそういうわけにはいきません。日曜日の起床時間は午前7時となりますが、点呼や歯磨き、洗顔の後に心行が行われます。一年中毎日行う必要があるのが、心行です。
心行の後は食堂で朝食を済ませ、日曜日といっても休みはありません。自習を行わなければならず、昼食としては寮でパンが支給されます。そして午後もひたすら自習を行います。午後には15分の昼寝タイムも自習の途中で設けられており、リラックスをすることが可能です。
ただし、寝過ごしてしまうと『誤睡』だとして教師(もしくは監督者)に怒られてしまうでしょう。その後は、また夕食まで自習を行います。
日生学園第二高等学校は全寮制ですが、一部屋に48名が収容できる規模だとされています。1年生から3年生までが混じって生活をしているため、上下関係は厳しくなっています。1年生は人権などないようなものであり、まるで奴隷のように上級生に従う必要があるのです。
もし3年生に口答えしたなら、それは”死”に値するほどであり3年生の言うことには絶対服従でしょう。日生学園というのは、軍隊のような上下関係の中で生活をしなければならない学校です。
生徒たちが過酷な日々を送る日生学園第二高等学校では、怪我人や病気になる生徒が出てくる可能性もあるでしょう。しかし日生学園第二高等学校では、少しのことでは病院には連れていってくれません。市販の薬を渡されて終わることが多いとされています。
なお生徒たちが学校を出られるのは、夏休みなどの長期休暇と部活の試合の時のみです。それ以外については、外出の許可がなかなか下りないといいます。また高校といったら文化祭などのイベントも楽しいものです。しかし日生学園第二高等学校には、文化祭や修学旅行といったイベントがありません。
さらに日生学園第二高等学校の生徒たちは、お菓子や雑誌など娯楽になるものを持ち込むことが禁止されていました。夏休みなどの長期休暇は家に帰ることが出来たので、家に帰る休暇の時だけ、好きな娯楽を楽しむことが出来たようです。
ただ、どうしても寮生活中に我慢できない生徒は、親からの仕送りの荷物にこっそりお菓子や雑誌を入れてもらうこともあったのだといいます。しかし、教師にバレてしまうと厳しい体罰が待っていました。お菓子などの持ち込みは寮生活中に絶対にしてはいけない事でした。
そのため、お菓子や雑誌を持ち込むことを「密輸」と例えて横行していたという話があります。
日生学園第二高等学校は生徒だけでなく、教師もとても厳しい決まりを守っていました。教師の場合、生徒たちよりも1時間早い午前3時に起床し、男子生徒と同じように男性教師は丸坊主にしなければならなかったといいます。
そして生徒が問題を起こすと、教師が体罰を行うという事が日生学園第二高等学校では当たり前だったとされています。しかし教師側も、指導に不手際やミスがあった場合に校長や教頭に頭を叩かれるなどされていたのです。
当時の日生学園第二高等学校で働いていた教師たちもまた、厳しい校則に耐えて守ってきたのでしょう。
日生学園の教育方針は「一流の人間を育てる」というものであり、日生学園の創設者である青田強氏が掲げました。過去にはは荒れている学校が多かったこともあり、青田強氏のスパルタ指導は保護者達から絶大な信頼があったといいます。
手に負えない子供を持つ親からは、藁にもすがる思いで日生学園第二高等学校で立派に成長して欲しいと願っていた事でしょう。そして、素行不良や不登校だった生徒たちをスパルタで指導していましたが、勉強に熱心に取り組んで大学へ進学する生徒も増えたのです。
このような実績があった事から、青田強氏は亡くなった後に銅像が建てられるなど、現在もカリスマ的存在であるようです。
日生学園で有名な「全力体操」は日本体育大学の「エッサッサ」をもとに作られていると噂されています。
当時の日生学園では、テスト前日は消灯後の勉強が許され、この時間に先生が出題されるテスト問題を教えてくれていたと言われています。当日に出題される内容を教えていたことがわかっており、生徒の点数が悪いと教師が上(教頭など)から体罰を受けるからと言われています。
当時の日生学園には成績や内申点が悪く、どこの地元にもある名前を書けば受かるような高校にも行くことができない生徒や、警察のお世話になった経験がある生徒が入学していたと噂されています。
厳しいスパルタ指導で、24時間自由のない生活を過ごしていた、日生学園第二高等学校の生徒や教師。勉強が出来なかった生徒が大学へ進学するなど、学業に真面目に取り組んでいる様子もあり、厳しいながらも良い方向へ行っているように見えました。
しかし、生徒や教師の24時間管理された生活の中では、見て見ぬフリが出来ない大きな問題がたくさん起こっていたのです。では、一体どんな問題が起きてしまっていたのでしょうか。
『日生学園第二高等学校で問題が起きている』と教師から内部告発があったのは、1985年頃でした。この告発でマスコミに報道されるようになり、日生学園第二高等学校がスパルタ指導をしている学校だと、一気に有名になったのです。日生学園第二高等学校は、教師も校長などから暴力を受けるほど厳しい学校でした。
告発した教師はそんな現状に耐えられなかったのでしょう。
日生学園第二高等学校では、実は厳しすぎるスパルタ指導に我慢が出来ず、脱走を試みる生徒がたくさん居たといいます。日生学園第二高等学校は山の上に位置し、山奥から頑張って逃げようとするものの教師たちに見つかってしまい、体罰や正座をさせられるなどしたのです。
さらに生徒間の厳しい上下関係から、後輩が先輩に殴られたりする事も日常茶飯事だったとされています。その暴力は行き過ぎたものが多く、中には骨折してしまったり、殴られたことで意識不明になってしまう生徒もいたのです。
娯楽がない寮生活の中で、暴力が楽しみになっている生徒や教師もいたそうで、皆が過酷な環境の中で生きていく為に、ストレスを暴力で発散させてしまっていた模様です。
日生学園第二高等学校では、自殺者が出ることや不自然な死亡事故が度々起こるなどしていたといいます。なぜ不自然な事故で終わらせてしまったのか、現在ならすぐにでも大きな問題になるような出来事です。しかし当時の時代背景もあり、大事にならず見過ごされていたよう模様です。
自殺してしまった生徒は、厳しい校則や体罰に耐えられなくなってしまったのでしょう。そして死亡事故は、上級生の行き過ぎた暴力が原因だったのではないかといわれています。教師の生徒に対する体罰も、死亡事故になりそうな出来事もあったといいます。
暴力で支配されていた日生学園第二高等学校は、心の闇を生み出し、命までも奪う結果になってしまったのでした。
教師から内部告発をされるまで、学校側は今までの自殺者や死亡事故が起きていた事実を明るみにしようとはしませんでした。そして、教育指導をまったく改善することなく何年も同じような事件が起きても見過ごしてきたのです。
しかし、内部告発によって一気に世間の話題となった日生学園第二高等学校に、国会議員が国政調査を行い、三重県が行政指導するようになりました。それからは暴力を取り除き、徐々に緩やかな指導になり現在の校則になっていったのでした。
日生学園第二高等学校がとてもスパルタ指導で死亡者も出すほどの学校だったという事がわかりました。そのスパルタ校時代や校則が緩くなっていった時代に、日生学園第二高等学校や系列の学校に通っていた有名人たちがいます。
では、日生学園第二高等学校など日生学園にはどういった有名人が通っていたのでしょうか。
お笑い芸人のダウンタウン・浜田雅功は、1979年に日生学園第一高等学校(桜丘高等学校)に入学し、2年生の時に開校した日生学園第二高等学校(青山高等学校)へ移動して学校生活を送っていました。寮では副学寮長を務めていたといいます。
浜田雅功は中学時代に友人の家に遊びに行き、友人が不在だったためノコギリを使い友人の家のドアを切ったというエピソードがあります。浜田雅功としては「どうしても(家に)入りたくなって」と言っていますが、父親が中学校の担任に相談しました。
その際に、日生学園を勧められ受験することになったのです。なお浜田雅功は一度日生学園を脱走したことがありました。その際には、現在の相方でもある松本人志に電話をして、大阪の鶴橋まで迎えに来て欲しいと頼んだといいます。松本人志はその時に、浜田雅功にうどんを奢ったのでした。
お笑い芸人の今田耕司は、1981年に日生学園第一高等学校(桜丘高等学校)へ入学しました。しかし彼は、スパルタ指導に耐えられなくなり、2回脱走した後に退学しています。その後定時制の高校(清風高校定時制)を卒業しました。浜田雅功は今田耕司の日生学園第一高等学校の3学年上の先輩です。
ただ、浜田雅功は2年生の時に日生学園第二高等学校に転校しているため、今田耕司と同時期に在籍はしていません。なお今田耕司が日生学園第一高等学校に入学したのは、中学3年生の頃に万引きがバレたことがきっかけだった模様です。今田耕司はバレた後に友人たちと島根県まで逃げ、警察に保護されました。
そして自宅に連れ戻されて自宅謹慎となっています。教師などからは、『日生学園に行かせないと、ろくな大人にならない』と言われたといいます、そして父親からは「日生学園に行ったら、3年間毎日貯金箱に100円入れる」と言われます。これにより、今田耕司は日生学園へと進学することを決めました。
お笑い芸人のなおき(旧芸名・中田なおき)は、1981年に日生学園第一高等学校(桜丘高等学校)に入学し、当時は今田耕司さんと同級生でした。1983年に卒業し、その後吉本興業へ入りデビューして間もなく、「中田カウス・ボタン」の中田カウスに弟子入りをしています。
プロサッカー選手の千葉和彦は、北海道岩見沢市出身であり、2001年に特待生として日生学園第二高等学校(青山高等学校)へ入学しています。そして、三重県の選抜メンバーとして毎年夏になると海外に遠征する事もありました。高校2年の時には、「全国高校サッカー選手権大会」に出場しています。
高校卒業後にプロサッカー選手になりたかったようですが、Jリーグからオファーがなかったため、単身でオランダに渡り、オランダのリーグからキャリアを積んでいった、珍しい経歴の持ち主でもあります。現在は37歳となっていますが、J2リーグのアルビレックス新潟でプレー中です。
元プロ野球選手(捕手)の鮫島秀旗は、1989年に日生学園第二高等学校(青山高等学校)に入学し、1991年に卒業しています。高校でも野球をやっていた模様であり、3年生の頃には夏の県大会初戦で敗退したでしょう。そして高校を卒業後には、ドラフト6位で「ヤクルトスワローズ」に入団しました。
引退後の現在は、東京ヤクルトスワローズのチームスタッフとして活躍しています。鮫島秀旗が担っているのは、ブルペン捕手です。
現在の青山高等学校やスパルタ校だった頃の日生学園第二高等学校、通っていた有名人などを見てきました。続いては、スパルタ指導が緩やかになっていった青山高等学校に対しての評判や口コミを見ていきましょう。青山高等学校にはどういった評判があるのでしょうか。
日生学園(青山高等学校)の良い点は、制服が可愛いことや文化祭が年に5回あること、進学しやすいことです。またいじめが少ないことやiPhoneを学校から支給されて持つことが許されている点も挙げられます。制服は有名デザイナーがデザインしたものであり、人気が高いでしょう。
また文化祭はスパルタ校時代には無かった行事であり、現在は実行委員などに選ばれると進学する際にとても有利になるといいます。そして、不登校やひきこもりだった生徒が多いので、表立ったいじめが少なく人の痛みがわかる生徒が多いとされています。
iPhoneは、生徒のホームシックや保護者の不便を解消するために導入され、校舎がとても広いので、生徒たちの連絡手段として使う為にも全生徒に使用させている模様です。授業にもiPhoneが活用されているでしょう。
青山高等学校の良くない点はどこにあるのでしょうか。2021年に入学したという青山高等学校の在校生は、食事が美味しくないと言っています。野菜に関しては、例外なく毎日キャベツの千切りなのだといいます。そして、あまりにも酷いことから給食改革委員会というものまで発足しているでしょう。
巨大ネット掲示板・2ちゃんねるでは、“なんでも実況(ジュピター)”板(話題のジャンル)と呼ばれるものが2014年に発足しました。この”なんj”には様々な話題のジャンルがありますが、日生学園に関する話題は話題になっているのでしょうか。
最後に、なんjで語られている日生学園の話題についてご紹介します。
『nanjpost』というサイトに、『【悲報】浜田雅功さん、友人宅のドアをノコギリで破壊し、日生学園に行かされる』というスレッドが立っています。スレッドには浜田雅功が友人の家のドアをノコギリで壊した逸話が紹介されています。そして、ユーザーの意見も多数書かれているでしょう。
例えば、『あんな収容所みたいなとこでのしあがるのは凄い』などのコメントも寄せられています。
『なんJ 高校野球まとめ速報』というサイトには、『今田耕司、日生学園の思い出は「リンチで死んだ先輩の命日だけ出た」』というスレッドが掲載中です。2022年1月に、千原ジュニアのYouTubeチャンネルで、今田耕司が日生学園での思い出を語ったことについてのスレッドです。
この際には、自身が日生学園に通うことになった理由について語られていました。そして、寮の食事に珍しく菓子パンが出た時に、今田耕司が「なんで菓子パン出た?」と先輩に聞いたところ、先輩は「リンチで死んだ先輩の命日やねん」と答えたというエピソードなどを語っています。
日生学園第二高等学校は、厳しい校則がありました。しかし日生学園の本質である「一流の人間を育てる」という教育方針を変えることなく、現在はスパルタ校時代よりも規則が緩やかに、そして暴力を一切取り除いた指導を行っている模様です。
現在は青山高等学校として、不登校や引きこもりで困っていた生徒などに社会性を身につけてサポートし、進学できるように指導を行っています。今後も困っている生徒たちの救いの場所であって欲しいと願うばかりです。
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【この記事は2021/6/30に更新されました。】