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2023/12/28
大今里
タコ部屋労働は、人権を守ることなく行われる、強制的な労働です。このタコ部屋労働はどのように生まれていったのでしょうか。現在でも行われているのでしょうか。タコ部屋労働について解説していきます。
タコ部屋とは、主に戦前の北海道や樺太において、非人間的な環境で拘束され働かされた労働者が置かれた宿舎のことで、そのような労働をタコ部屋労働と言われます。囚人労働の代わりに作られたもので、労働者は強引な方法で集められました。
タコ部屋労働では、親方 、帳場、世話やき、棒頭、中飯台、下飯台という序列があり、厳しく管理されていました。棒頭以下の労働者は「タコ」と呼ばれ、簡単に抜け出すことはできませんでした。
タコ部屋という名前の由来としては、蛸壺のタコから来ていると言われています。蛸壺は、漁師が蛸を捕獲するためのものです。蛸は自分の身を守るために絶好の隠れ場として蛸壺に入り、出て来ないようになります。その一旦入ったら出て来ない様子を形容しています。
多額の借金は奴隷的な労働へと追いやられる原因の一つでしょう。戦後、労働運動が盛んになることによって、非人道的な労働環境は改善されることとなりました。しかし、借金を返済できなくなった人を強制的に働かせることは、行われていました。
基本的に莫大な借金を負ったりしなければ、タコ部屋のようなところに送られることはありません。しかし外国人労働者を安い労働力として過酷な環境に置いたり、労働者に対してブラックすぎる業者がいることも確かです。
タコ部屋の語源としては、前述した蛸壺のほかに、蛸が自らの足を最後の食料とするように労働者が自分の身を売ること、他人に雇用されること、糸が切れた凧のように労働者が逃亡すること、などの説があります。そのほか経済学においては、「監獄部屋」の呼称で呼ばれ、問題とされてきました。
北海道中央部の旭川から東へ、北見を経て網走へと至る鉄道路線が石北本線です。遠軽と北見の間の常紋峠にある常紋トンネルは、タコ部屋労働で建設されたことで知られています。
常紋トンネルは1912年に工事が開始されました。人気がないところであり、石北本線建設の難所の一つでした。1914年の完成までにタコ部屋労働で働かされた労働者100人以上が重労働や栄養不足によって亡くなっています。
労働者は手当されることもなく、近隣に埋められたと言われています。また指示に従わなかった労働者は、見せしめのために殺されて埋められたという人柱説が語りつがれていましたが、戦後、実際に頭蓋骨に損傷がある人の頭蓋骨が見つかったり、発掘調査で遺体が見つかり、その説が裏付けられました。
2000年には実際の過酷な労働に従事した体験者がいとこに宛てた書簡が見つかりました。同書簡では、病気の労働者が生き埋めにされたことや逃亡者が火あぶりにされたことが述べられています。
明治期の北海道において囚人の労働力によって建設された道路を囚人道路と言います。札幌から旭川、北見を経て網走に至る道路などが知られています。道路建設から鉄道建設が必要になっていくと、逃亡のしやすさから囚人を使用すべきではないと言われるようになり、タコ部屋労働へと推移していきました。
明治19年に設置された北海道庁のもとで、明治20年代には囚人を利用した道路開削事業、民営土木請負業者による炭鉱鉄道建設が進められていきました。民営業者が労働者を拘束するタコ部屋労働は明治20年代前半にすでに見られ、後半に囚人労働は衰退しますが、タコ部屋労働は拡大化していきます。
北海道では本州で見られたような親分・子分の関係が一般労働者まで及ばず、前借金に縛られた労働者を監視し、搾取するタコ部屋が広まりました。
「北海タイムス」明治39年6月24日付では、北海道夕張のタコ部屋労働から逃亡した労働者の手記を掲載しています。同手記によると、労働者約90人のうち20人が真の土方で、約70人は素人、前者が後者を支配していたといいます。
著者もその素人の一人で周旋屋の甘言によって雇われてきました。労働は朝4時から土を運び、親方は手に棒を持って監視しており、休むことはできません。巡査が来ても訴えることはできず、文句を言えば棒で打たれ、働かなくても棒で打たれます。
逃げ出そうとしても、各停車場や要所には土方が配置されており、見つけ次第連れ戻し、裸にして水をかけ、殴ります。そのような見せしめにより、逃亡しないように威圧していました。
明治42年の王子製紙水力発電所工事でもタコ部屋労働が行われていました。本州から誘拐されてきた人夫が多く、逃亡すると見せしめのためにタコ部屋に入れられます。監視人付で働かされ、夜は部屋に鍵をかけて入れられます。山中には人夫が死んだときのために用いる空樽が山のように積まれていました。
大正5年、19歳のとき、定山渓鉄道地盤工事でタコ部屋労働を体験した、相埜太一郎は、北海道には何百人かの労働者で来て、みんなはじめての人ばかりであったと回想しています。彼は逃亡しますが、追いかけてきた棒頭に捕まりました。その後、逃亡防止のために着物を取られて裸で働かされます。
しかし真面目に働いて信用され、管理人の子分となって棒頭を務めるようになりました。彼によると警察の許可を得るために、実際の借金額と書面上の額は違っており、部屋の見取り図も実際とは異なっているといいます。病人は形だけでも一回は医者に連れて行きました。
また彼は月形の潅漑溝工事も経験しました。同工事は道庁の許可を取っていない工事で、臭い馬小屋に住まわされ、裸になって工事させられたといいます。同現場では彼を身が持たないと感じて、先頭に立って反乱を起こし、棒頭を打ちのめし、逃亡を果たしました。
北海道庁警察部の土工夫調査によると、大正3年から昭和13年の間で、最も死亡者が多いのは大正7年であり、雇い入れ17,888名のうち、484名もの死亡者を出しています。また同年の逃亡者は6,228名で、いかに酷い労働環境にあったかが窺われます。
経済学者の筆宝康之は、タコ部屋の確立から崩壊までを以下のように時期区分して述べています。日露戦後から大正12年頃までは確立期であり、第一期拓殖計画土木工事と鉄道建設が第一次大戦でピークを迎えます。
第一次大戦後から昭和恐慌までが再編期であり、取り締まりが強化されて再編を余儀なくされ、労働市場も停滞します。その後昭和12年までが沈衰期であり、強制労働条約が採択されて日本でも批准され、労働市場の統制が図られていきます。
日中戦争からアジア太平洋戦争の時期が再建期であり、外国人労働者移入による再編が行われます。敗戦により崩壊期を迎え、労働運動の高揚、民主化政策が行われていきます。
1964年5月3日付の『朝日新聞』の「天声人語」では、東京オリンピック、建設ブームの裏にタコ部屋労働があることを指摘しています。あてもなく上京した人が上野駅の辺りで手配師のカモにされて飯場に送られ、賃金をピンハネされ、働かされます。逃げると賃金がもらえないため、しぶしぶタダ働きをさせられます。
大阪でも駅に手配師が待ち構えているといいます。だまされた人は、諦めることが多く、警察や職安に訴えることはあまりないようです。手配師には暴力団が関わっているとみられ、職安も違法である裏付けを取りづらく、だまされた労働者に対して冷淡であるとされています。
常紋トンネルに関わるタコ部屋労働は、地元の郷土史家を中心に掘り起こしが行われ、記憶されています。1974年には郷土史家の小池喜孝さんを中心とする有志60人以上が、遺体の発掘作業に従事しました。小池喜孝さんは1977年に著書『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』を刊行しています。
またその後を継ぐように、郷土史家の中川功さんが調査を続け、2018年に北見市が発行した冊子『常紋トンネル なぜ労働者は死んだか』に寄稿し、工期の短さ、鉄道官僚の読みの甘さが犠牲者を出した原因と指摘しました。
1999年には劇団「さっぽろ」が劇団創立40周年を記念して、創作劇「常紋トンネル」を北海道各地や青森、東京で公演しました。同劇の初演は1980年で、全国で公演するのは初のことでした。劇ではタコ部屋労働の実態、労働者が脱走する模様が描かれています。
蛭⽥亜紗⼦さんは札幌在住の作家です。2010年刊行のデビュー作『自縄自縛の私』の性愛描写が話題となり、2013年には竹中直人監督が映画化しています。その蛭⽥亜紗⼦さんが2017年に刊行したのが『凜』です。
同小説は、現代の女学生沙⽮が常紋トンネルに興味を持つところから物語が始まります。そして100年前にだまされてタコ部屋に連れられてきた学生の麟太郎、借金返済のために網走の遊廓で働く八重子が過酷な環境のなかで生きていく模様が描かれています。
タコ部屋労働は、主に戦前について言われることですが、現在でもあるのでしょうか。闇金から借金をしたとあるライターがタコ部屋の経験を語っています。
そのライターはトイチの闇金業者から借金がありましたが、怪我して仕事ができなくなり、1か月返済が遅れて、タコ部屋に送られることになったといいます。
同ライターは、ある夏に山間部の冷房もない建物に連れていかれ、20人くらいの同じような境遇の男性と共同生活を始めました。1人1畳くらいのスペースのぎゅうぎゅう詰めの生活でした。
仕事は8時から夕方までで、組長と呼ばれる総責任者の下に班長がおり、労働者を監視していました。3度の食事に30分ほどの休憩があるだけで、倒れてもただ寝かされるだけです。
労働者は過酷な労働をこなしても、どれくらい借金が減っているかは把握できません。突然、組長から帰っていいと言われ、解放されます。そのため、多くの脱走者が出ました。
同ライターも脱走しています。ある日、班長とともに食料の買い出しに行く機会が訪れました。買い出しに行った際に電車に飛び乗り、脱走に成功しました。
同ライターによると、タコ部屋に送り込まれる人には2通りあるようです。闇金で借りて返済できなくなった場合と、寮完備、食事付きなどで求人で集める場合です。
現在では多重債務者が自己破産したり、闇金業者が摘発されるために、従業員として労働者を雇い、寮に入れるケースが増えているようです。
求人で集められた場合、日給はありますが、寮費や食費などの名目で諸経費が引かれ、お金が貯まらないようになっています。辞めようとしても、送る車代を請求されることとなります。
かつてのタコ部屋では、食事も白米に味噌汁、おかずが少しだったり、水分の多いカレーライスだったりしました。古参者が先に食べて新人にはほとんど残されていないということもありました。現在では人権意識が次第に高まり、食事など労働環境が改善されていると思われます。
同ライターがタコ部屋に送られたのは、日本が建設ブームにあり、宅地にするための山の掘削や鉄道の路線延長、ゴルフ場建設が求められていたなかのことでした。
しかし現代では普通に生活をしており、自制心をもって借金などをしなければ、タコ部屋に送られることはまずないでしょう。
留学生や観光で入国した外国人の不法就労、技能実習生の問題が話題となっています。その実態はどのようなものでしょうか。
外国人の不法就労には、悪徳なブローカーが関わっています。労働者は日本に渡航するために高額の費用をブローカーに払い、偽造の在留カードを手に入れます。労働者本人はそれが偽造であることをわかっていないこともあるでしょう。病気になったりして偽造であることがわかると、職場からの失踪が起きます。
北海道の倶知安では14人のベトナム人の不法就労が見つかりました。14人は元留学生や元技能実習生などで人材派遣会社によって派遣されて民家に大勢で住み、ホテルの清掃員として働いていました。
給料は歩合制で、一部屋の水回り清掃370円、ベッドメイク230円で、借金を返すために不法労働をしており、「現代のタコ部屋」として問題視されています。
技能実習生の意見を聞いてみると、日本に失望したという声が多々あります。あるフィリピン人の実習生は、親切な日本人がいた一方で、国に帰れと罵られた経験を語っています。
またベトナム人の実習生は、休日は年3日、寝室は狭く、雨漏りしているという劣悪な環境に置かれ、マナーがよくて文明的だと聞いていた日本に失望しています。
ある現代のタコ部屋経験者は、最低限の人権は保障されており、自由もあると述べています。建物の解体など重労働、週6勤務で2万円、借金の多い人はそれが5万円の人もいました。
部屋は表向き、社員寮ですが、浴室やトイレにも監視カメラが備え付けられていたそうです。食事は3食、エアコンも付いており、借金を返済しても居心地が良いと感じて残る人がいました。
1956年5月、静岡県の秋葉ダム飯場では、人夫目当ての闇売春宿が捜査されました。従業している女性には監視役としての用心棒が付けられて、逃げられないようにしていました。食費も女性もちで、人夫が支払いを踏み倒すと、女性の借金となりました。
1986年11月、大阪のスナックやキャバレーで働くフィリピン人女性らが保護されました。喫茶店経営者の男が彼女らを一人当たり一か月25万から35万円で斡旋料でスナックなどに送り込んでいました。
彼女らは6畳2間に18人で住み、万年床を敷いて、質素な食事で生活していました。許可された入国期間を超えており、中には売春をしている女性もいました。
2010年ある女性派遣社員は名古屋の労組に、強制解雇され、寮を出るように言われたと相談しました。給料は18万円のはずでしたが、寮費や保証金などの諸経費が引かれ、手取りは1万円、酷いときはマイナス9万円であったといいます。
給料は額面18万円であるので生活保護は受けられず、別の仕事をしようと会社を休もうとしたら、職務放棄として解雇させられています。
福本伸行による大人気漫画「賭博破戒録カイジ」において、借金を負った主人公カイジが強制的に労働させられる模様が描かれています。1000万円の借金を抱えるカイジは、地下強制労働施設に連れて行かれます。
そこで熱気と騒音と粉塵の中、穴を掘る重労働をしなければなりませんでした。一日の作業が終わると、整列させられたままシャワーへと進み、その後食堂で食事を摂り、5段ベットのある部屋へと進みます。すべて監視されており、プライバシーはありません。
班長や工事長も借金を負った者であり、労働者も脱走を諦めており、秩序は保たれていました。一日外出券が販売され、労働者のガス抜きも行われていました。
カイジの借金は、月14万返済しても利息分も払えない金額でした。地下労働施設では利息は免除されましたが、日給は安く抑えられていました。日給は3,500円で借金返済のために2,000円、食費や諸経費で1,150円が引かれ、手許に残るのは350円のみ、月額9,100円でした。
給料は日本円の10分の1の価値を持つ地下通貨のペリカで支払われます。月額にして91,000ペリカ。給料日にはビール350mlが5,000ペリカなどのように、酒やつまみが高額で販売され、多くの人は自分の欲求に敗けて多額の出費をしてしまいます。
そんな労働者の息抜きを兼ねて月に数回許されていたのが、賭場の開設でした。班長が主導して運営され、ギャンブルの種類はサイコロを3つ使って行う「チンチロリン」です。カイジは班長から給料の前借りをしてチンチロリンに臨みます。
2019年3月、東京福祉大学で留学生が約700人失踪したことが問題となりました。昨年2700人の留学生のうち、700人も所在不明という異常事態で、政府も実態調査に乗り出しました。
同大学では、留学生を研究生として受け入れていましたが、学部へ進学できる保証はありませんでした。語学力の足りない学生を大量に受け入れることによって、学費収入を見込んでいたとみられます。学費は年70万でした。
大量の学生を収容するためにコンビニの2階など様々な場所が教室として使われました。ある留学生はタコ部屋のような環境で勉強したと述べています。
留学生は、生活費や学費をアルバイトで稼ぎながら勉強を続けていました。しかし同校の研究生では将来に希望が見えず、失踪することとなりました。
同大学には8000人の学生がおり、そのうち留学生は5000人も在籍しています。ここ3年間で5700人の留学生のうち、1400人が所在不明となっています。ここからは外国人労働者を搾取するのと同様な経営者の意識が垣間見られます。
戦前の北海道における鉄道建設などの土木工事でタコ部屋労働は広まっていきました。労働者たちは劣悪な環境に置かれ、多くの人が命を落とし、逃亡も多発しました。労働者の権利意識が進み、徐々に労働環境は改善されていきました。
しかし、現代においても外国人など立場の弱い者を搾取しようとする経営者は、後が絶ちません。外国人に対する差別意識を改善し、人権意識を高めていくことは、今後もますます必要でしょう。
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