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    女郎屋っていったい何?専門用語や歴史、関連作品も徹底調査!

    皆さん、女郎屋という言葉をご存知でしょうか?この女郎屋は現代でいう風俗店のことなのですが、現代とは違う点も多々あったようです。そこで今回は女郎屋の専門用語や歴史、女郎達の実情など皆さんが気になるであろうことを徹底調査していきたいと思います!

    女郎屋とは

    江戸時代をテーマにした映画や小説などの文学作品では、よく「女郎屋」という言葉が使われることがあります。女郎屋とは現在でいうところの風俗店のようなものです。ここではまず女郎屋とはどういったものか、女郎屋の概要をみていきましょう。

    女郎屋は遊郭のこと

    女郎屋とは女郎たちを抱え客の相手をさせ遊ばせる商売を行う家のことです。女郎というのは現在でいう売春婦や娼婦の意味で古くは遊女とも呼ばれていました。女郎となるものには、貧しい村落で産まれ幼い時に女郎屋に売り飛ばされた者や女郎屋で生まれ育ちそのまま女郎になった者など様々な境遇の者がいました。

    女郎屋とは現在でいうところの風俗店や遊郭のことです。

    女郎屋のサービス内容は?

    女郎屋は風俗店のようなものであることは述べましたが、女郎屋のサービス内容について詳しく見ていきましょう。

    現在の風俗では、来店した客の相手をするタイプや客が指定した場所に風俗嬢が派遣されるものや一見風俗店には見えない風俗店に見せかけたタイプのものまで様々な営業形態があります。

    江戸時代の風俗である女郎屋にも同じように様々な営業形態がありました。幕府の公認を受けた吉原のような高級風俗から風呂屋のふりをして隠れて性的サービスを行う隠れ女郎屋まで様々なものがあったようです。

    サービスの内容も様々なものがあり、客とお目当ての女郎が座敷で宴会しそのまま一晩をともにする高級で大規模な女郎屋から、特定のサービスのみを低価格で提供する小規模な女郎屋まで色々なサービス内容があったようです。

    女郎屋の専門用語まとめ

    女郎屋はひとつの職場ですから、役職や仕事内容に応じて役名が与えられています。そういった専門用語について説明していきます。

    ①楼主

    女郎屋はまたの名を「妓楼」とも呼ばれ、主人は「楼主」と呼ばれていました。妓楼の奥には「内証」と呼ばれる事務所のような場所があり、楼主はそこで妓楼の運営を行いました。

    妓楼はほとんどが楼主とその家族による家族経営で行われており、家族とともに妓楼の中で生活をし、楼主とその家族の生活スペースが妓楼のなかに設けられていたようです。妓楼は二階建ての建物が多く二階には座敷があって客を通し、一階が家族スペースに当てられていたケースが多かったようです。

    また楼主には「忘八」という蔑称がありました。忘八とは「人間の八つの徳を忘れ、人間性を失った者」という意味です。実際、女郎屋の経営は女郎を売るという仕事の性質上、生半可な覚悟では務まりません。情にほだされないシビアな面があったのでしょう。しかし、女郎を人間扱いしていなかったのかというと実はそうでもなく毎年正月には女郎たちに新しい着物をプレゼントしていたことも事実でした。

    ②遣り手

    現在は物事を上手く切り盛りする女性のことを「遣り手ババア」と言ったりしますが、この言葉の由来は女郎屋で働いていた「遣り手」という役職のことです。

    女郎屋での遣り手とは、女郎屋で客の呼び込みや女郎たちの世話役をしていた女性たちのことです。遣り手は元々女郎をしていた女性が高齢になって客が付かなくなったり年季(期限付きの契約)を勤め上げ、背負っていた借金を返済して女郎を引退してもなお、女郎屋で働く道を選んだ女性です。

    つまりやり手は女郎の大御所ともいえ女郎の酸いも甘いも知り尽くした存在であり、それだけに現役の女性にはとても厳しく監視して小言を言ったり、悪さをしたら折檻したりと嫌われ役の仕事を自ら買って出ていたようです。

    ③若い衆

    現在でも若い衆と言いますが、女郎屋の若い衆は「わかいし」と読みます。妓楼で働く男性たちのことを表す呼び名です。ちなみに年齢は関係なく男であればみんな若い衆と呼ばれました。

    その仕事内容は様々であり、店の入り口の台に座って呼び込みや見張りをする「牛太郎」や、店全体を取り仕切る「番頭」、客の履物を預かり下足札をつけて下駄箱にしまう「下足番」、逆に女郎たちを手配する「廻し方」、花魁道中の際に先導に立つ「金棒ひき」、花魁に傘をさす「傘さし」、花魁に肩をかす「肩貸し」などの男衆がいました。花魁とは上位格の女郎のことです。

    ④雇い人

    若い衆とは別に接客をせず裏方の仕事をする男女の奉公人のことを「雇い人」といいました。こちらも仕事内容は様々であり、客に出す料理や女郎たちの賄をつくる「料理番」、風呂の管理を担当する「風呂番」、夜中に妓楼内の見回りや火の番をする「寝ずの番」、女郎の着物の繕いなどをする「お針子」などがありました。

    ⑤芸者・幇間

    客と女郎の間の間を取り持ち助ける役割をしていた人たちを芸者・幇間と読んでいました。芸者とは座敷で三味線や笛など音楽を奏でる役目、幇間(ほうかん)とはそれに合わせてひょうきんな踊りや百面相などの7芸をして座敷を盛り上げる仕事です。幇間(ほうかん)は主に男性がつとめ、またの名を「太鼓持ち」ともいいます。

    実際には芸者や幇間を抱える妓楼はは多くなく、彼らのほとんどが引手茶屋に所属していました。引手茶屋を通さずあがれるような小規模の妓楼は直接雇っていたようです。

    大見出し:女郎と間違われやすい類似した言葉まとめ!

    女郎と間違われやすい類似した言葉がいくつかあるのでご紹介します。紹介するのは「花魁」「遊女」「湯女」「太夫」です、

    ①花魁(おいらん)

    花魁(おいらん)という言葉を耳にしたことがある方は多いでしょう。花魁は女郎のなかでも上位の人気を持つ遊女です。ルックスだけでなく教養も必要とされ、花魁の候補となる人材には幼少の頃から様々な芸事が仕込まれました。

    ②遊女

    遊女とは女郎などを含む娼婦や売春婦の総称です。遊女はかなり古い言葉で、平安期やそれ以前から似たニュアンスの言葉が使われていました。

    ③湯女

    湯所とは幕府公認ではなく、銭湯などで男性客に性的なサービスを行う女性のことです。当初は垢すりなどのサービスを行う職業を指していましたが、次第に売春も行うよう変化していきました。

    湯女が性的サービスを行う風呂屋が増えたため、幕府は度々禁止令を発しました。湯女のサービスは人気を博し、一時期は吉原とその人気を二分する地位まで上り詰めたそうです。

    ④太夫

    女郎たちのなかで花魁よりもさらに上の最上級のらんくにいる女郎は「太夫」と呼ばれました。美貌と高い教養をそなえ、公家などの上流階級や、大名や上級武士などの相手をしました。

    太夫と遊ぶのにかかる費用は総額にして1,000万円程度だと言われており、当時の男性にとって太夫と遊ぶことは最高のステータスとされていました。

    女郎屋に関する謎を徹底解説!

    江戸時代に営業していた女郎屋には様々な謎があります。女郎屋で働く人たちはどのように避妊していたのかということや女郎屋の値段はいくらだったのかという謎です。その謎に関して説明していきます。

    女郎屋で働く人達はどのように避妊していた?

    現在の風俗店ではコンドームのような避妊具を使用しますが、女郎屋の時代にも避妊具は存在していたようです。その時代の避妊具は牛の腸や動物の皮などを加工したもので今のコンドームの原型だったと言われています。

    一応あったにはあったのですがこの避妊具はあまり使われていなかったようです。実際には、上質紙を唾液でしめらせてペッサリーのように使用したり中に出さないようにしたりして避妊していたそうです。

    しかし、どの方法も完全に妊娠を防止できるものではなく、妊娠してしまうことも多々あったようです。その場合にはホオズキの葉や水銀などの劇薬を飲ませて無理やり堕胎させていたという記録が残っています。

    階級ごとに違う!女郎屋の値段はどれくらいだったのか

    当時女郎屋には多くの階級がありその階級によっても値段も上下にかなり幅があったという記録が残っています。最高ランクの「太夫」の場合、連れの妹分なども含めた宴会の飲食代、芸者などへの玉代、女郎屋への祝儀なども必要で、総額床入りまでに約50両、現在の値段にして約1000万円ほどが必要でした。

    一方、格式が低い女郎屋「河岸見世」は現在の価格にして約5000円程度で利用でき、高級遊郭の吉原でも中堅どころの「散茶」という階級の遊女であれば、現在の値段で5万円程度で利用でき、かなり幅広い価格設定でした。

    女郎の歴史まとめ!現代も残る遊郭「飛田新地」って何?

    女郎屋の歴史についてまとめていきます。なんと女郎屋は古代中国にも存在していたそうです。まだ現代も残る遊郭「飛田新地」に関しても説明していきます。

    女郎は元々芸能に従事していた!

    女郎(遊女)とは元々、芸能関係の仕事で働く女性を指した言葉だったと言われています。遊女たちは神仏の伝播を目的に、歌や踊りを生業として各地を漂泊していました。それが次第に生活のために、各地で性サービスを行うようになったと考えられています。

    古代中国から存在している

    中国最古の詩編「詩経」に「遊女」という言葉が記載されています。しかし、ここでの遊女は風俗嬢という意味ではなく、川べりで遊んでいる女、すなわち川の女神を指しています。古代中国においては遊女と同じような意味では「妓女」という言葉を使っていました。また古代中国では女郎という言葉は「若い女性」のことを指していました。

    日本では万葉集に登場している

    日本で遊女という言葉が登場したのは7世紀後半に成立した日本最古の和歌集「万葉集」です。万葉集のなかでは「遊行女婦(うかれめ)」という言葉で登場しています。

    源氏物語、栄花物語、更級日記での女郎の呼び名

    それ以降、平安期にはいると「源氏物語」にて「あそび共の集いまいれるも」という記述があります。「栄華物語」では「あそびども笠に月をいだし」と出てきます。「更級日記」には「あそび三人」とあります。この「あそび」が遊女を指していると言われています。

    さらに中世に入ると「傀儡女」、「白拍子」、「娼妓」などの呼び方が見られるようになります。

    1584年に大阪で最初の遊郭が誕生

    1584年に豊臣秀吉が大阪城の築城を開始しましたが、それに伴い道頓堀付近で日本最初の遊郭が作られたと伝わっています。ただし、1589年に秀吉が開いたと言われている「京都柳町遊郭」が日本の歴史上はじめての遊郭たとする説もあります。

    様々な場所で作られ1612年に吉原が誕生

    1589年に作られた京都柳町遊郭は後に移転を何度かし、1640年には京都下京区の花町「島原遊郭」として成立しています。有名な吉原が出来たのは1612年、庄司甚右衛門という遊女屋の主人が幕府に願い出た遊郭設置許可申請が通り、幕府公認の最初の遊郭「葭原」が日本
    橋人形町に作られます。

    これがのちに「吉原」と呼ばれるようになります。

    売春防止法により消え、現在はソープランドに

    このように遊郭は長い歴史があり、明治、大正と形を変えて遊郭は存在を続けました。太平洋戦争後のGHQ統治下に公娼廃止指令が出されてもなお、「赤線」と名称を変えて存在を続けます。1956年「売春禁止法」が成立したことで遊郭は完全に消えました。

    とはいっても現在も「吉原」は日本一のソープ街として営業を続けています。売春禁止法で遊郭は消えても、各地でソープランドに業態を変えることで存続しているのです。

    現代の遊郭・飛田新地とは?

    大阪西成にある「飛田新地」には遊郭の伝統を色濃く残した色町があり、現在でも営業を続けています。その営業スタイルですが、通りから見える1階部分に遊女が座り、年配の女性が客引きを行っています。客がはいると、二階にある部屋で1階にいた遊女からサービスを受けることが出来ます。

    飛田新地には遊郭が禁止された今でも遊郭のシステムが色濃く残されていて、ノスタルジックな雰囲気も相まって、まるでタイムスリップしたような感覚を味わえます。

    女郎の実情が悲惨だったって本当?

    自分の意思で女郎になるものはほぼおらず、人身売買によって女郎屋に売られた女郎がほとんどです。このような女郎の悲惨な実態に関して説明していきます。

    女郎の多くは借金を背負わされた女性達

    女郎の多くは借金のカタや生活難であることを理由に、幼いころに女郎屋に売られてきた女性たちばかりでした。幼い子どもを親から買って遊郭に斡旋する「女衒(ぜげん)」と呼ばれる仲介業者によって遊郭に売り飛ばされていたようです。

    非道な話に思えますが、当時の価値観では生活難で飢えさせるくらいなら、遊郭でしっかり食べさせてもらったほうがいいという価値観があったのです。

    女郎の年齢と定年

    女郎たちは幼い頃に遊郭に売られ、初潮を迎えると客相手に働きだします。女郎たちの定年は早く20代を過ぎるとだんだんと需要が落ちてしまいます。概ね28歳になると勤めていた女郎屋を出されてしまいます。

    病気で亡くなる女郎も多くいた

    病気で亡くなる女郎たちも数多くいました。避妊や性病への意識が低かった当時、梅毒に感染し命を落としてしまう女性が後を絶ちませんでした。

    梅毒には死に至るまでに潜伏期間があり、その間は何をしてもいい期間とされてもてはやされ人気が高まったといいます。しかし、徐々に症状は悪化し、最後は客が付かなくなり女郎屋からも放り出されます。

    本当に人間の仕業かと思えるほど恐ろしい結末です。当時には人情という概念が存在していなかったのでしょうか。

    身請けされた女郎は幸せに

    そんな厳しい現実の中で女郎たちにとって最も幸せとされたのが、高級女郎となって富豪のお気に入りになり、富豪の家に見受けされることでした。お金もちの下で幸せな人生が送れるので、多くの女郎の夢でした。

    女郎屋の一日を紹介!

    女郎たちの一日の流れについて紹介します。まず前日の客が午前6時頃に帰宅していきます。客が帰ったら女郎たちはすぐに身支度を開始し、今日の客の準備を始めます。午前8時~10時頃には「雇い人」などの男衆が前日の痕跡を消すために掃除を行います。午前10時には女郎たちは朝食を食べ、昼見世にはいり客がつくのを待ちます。

    午後6時頃になると本格営業ともいうべき夜の見世がはじまります。0時になると店は終了しますが、客が付いた女郎は朝まで客と過ごします。こうした毎日を女郎は送っているのです。

    女郎の関連作品まとめ!

    女郎が取り上げられている作品は多くありますので、いくつかご紹介します。

    ①『さくらん』

    人気漫画家安野モヨコの漫画「さくらん」を原作として映画化された「さくらん」です。江戸吉原を舞台に土屋アンナさんを主演に、幼くして遊郭に売られ人気の花魁になるまでの女性の半生を描きました。

    監督は蜷川実花さんで鮮やかで独特の色使いによって、遊郭の華やかでありながら毒々しい世界観をうまくえがき話題となりました。

    ②『写楽』

    1995年に公開された映画「写楽」は俳優真田広之さんが天才浮世絵師「東洲斎写楽」を演じ、女優、葉月里緒奈さんが吉原の花魁を演じました。葉月里緒奈さんの花魁姿が美しすぎて話題となりました。

    『花宵道中』

    宮木あやこの小説「花宵道中」は江戸の女郎屋を舞台にした小説です。2014年に映画化され、安達祐実さんのヌード姿が話題を集めました。

    ④『吉原炎上』

    このタイトルは誰もがきいたことがあるでしょう。「吉原炎上」とは1987年の映画作品で1998年には舞台化、2007年にはテレビドラマ化もしています。明治時代の吉原を舞台に、5人の女郎たちの壮絶な半生を描きました。

    ⑤『花園の迷宮』

    山崎洋子のミステリー小説「花園の迷宮」は1988年に映画化、ドラマ化がされています。昭和初期の横浜の遊郭を舞台にした異色のミステリー作品です。

    女郎屋は壮絶な場所だった

    女郎屋は江戸時代の風俗店のことですが、そこで働く女郎たちの実態は壮絶なものでした。幼い頃に借金のカタのために女郎屋に売り飛ばされ、女郎屋では男性客の相手をするなかで梅毒などの性病にかかり命を落とす女郎も多かったそうです。

    現在は女郎屋は法律で禁止されたので撲滅されましたが、ソープランドと名をかえて営業を続けています。ソープランドでは江戸時代の女郎たちのような無理な働き方を強要しないでよしいものです。

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