木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
2019/04/27 更新
親を殺すことは普通では考えられませんが、日本各地に広がる『姥捨山(うばすてやま)』の伝説はかなり衝撃的なものとして後世に引き継がれています。戦国時代に実際にあった『姥捨山』の話や『姥捨山』の話を教訓にするものまで、伝説は様々な形で残されているようです。
姥捨山は棄老伝説を題材にした民話の一つです。口減らしなどで高齢の親を山に捨てることになった息子と、その親の物語です。
実はこの姥捨山は2つの種類があることはご存知でしょうか?
そこで姥捨山について見ていきたいと思います。
姥捨山は棄老伝説を題材にした民話です。
姥捨山は高齢の親を山に捨てるというものですが、この姥捨山の話は大きく分けると「枝折型」「難題型」の2種類あります。
姥捨山の「枝折型」・「難題型」の2種類の話について詳しく見ていきます。
一つ目の話は枝折型の話です、
年老いた親を山に捨てるために息子が親を背負っていくときに親が道すがら小枝を折っているのを見た息子が何をしているのかを訪ねると親は「お前が帰るときに迷わないように」と答えました。息子は自分が捨てられる状況でも子供のことを思う親心に打たれ、親を連れ帰るという話です。
他にも年老いた親を山に捨てに行く際に息子の子供も連れていくが、親を捨てる際にもっこごと捨てようとすると、子供が父親を捨てるのにもっこを使うから持って帰ろうと言われ、親を捨てることの非道さに気づいて、姥捨てをやめるという話です。
このような物語は中国やヨーロッパ、アフリカなどに広く分布しています。
もう一つの話は難題型の話です。
ある国の殿様が年老いて動けなくなった老人を不要として山に遺棄するようにお触れを出します。ある家でもお触れに逆らえず泣く泣く捨てようとしますが、できずにひそかに床下に隠しました。
その後、隣国からいくつかの難題が出され、解けなければ国を攻め滅ぼすと脅されるが、その難題を老人の知恵で解き、隣国を撤退させることに成功しました。そして老人には長い人生で培った知恵があり、それが粗末にできないものであると知ると、お触れを撤回させるという話です。
姥捨山の難題型の骨格は大陸輸入です。その習俗はエスキモー,アメリカ・インディアンなどの移動民族の間で食糧欠乏や老人の同伴困難から行われたことがあり、ヒンドゥー教,ゾロアスター教の経典にも見られる話です。
世界各国に類似の伝説が残っています。
世界各国に分布され様々な形で拾っている姥捨山伝説ですが、この難題型の話の源流は古代インドの仏教経典『雑宝蔵経』の説話です。
『雑宝蔵経』巻1「棄老因縁」に基づくもので、『今昔物語集』・『打聞集』・『雑談集』などに載せられています。
姥捨山の伝説は単なる童話ではなく実在する話がモデルであるとされています。
そんな姥捨山の伝説からわかる教訓や風習は何なのでしょうか?
姥捨山の伝説からわかる教訓や風習を見ていきます。
姥捨山という山は実在します。
姥捨山は現在の長野県千曲市東筑摩郡にある「冠着山」とそれに連なる山々だと言われています。これらの山々は武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの行われた川中島の合戦に隣接する山です。
これらのことは川中島合戦画屏風にも描かれています。武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦は5回にわたる合戦を繰り広げており、川中島は武田信玄と上杉謙信の国境であります。よって姥捨山は領国争いの絶えない一角にあった山であるといえます。
姥捨山で登場する殿様は老人を大切にしない、徹底したコスト管理による合理主義者ですが、武田信玄も名君で知られていますが、その陰では陰謀と合理化によって人々を傷つけることをしていました。川中島から武田氏滅亡までを追ってみると、節目節目で親・老人・重臣の意見を無視する姿が目立ちます。
武田信玄は5回に及ぶ川中島の合戦で山本勘助や弟信繁を失う激戦を繰り広げました。そして武田信玄は自分を神格化して三河から京都へ進軍するも病に没してしまいます。そして武田信玄の後を継いだ武田勝頼も自分を神格化して、そして武田信玄の愛用していた鎧を用いて重臣を黙らせて長篠合戦で無意味な突撃を繰り返し重臣を死に至らしめて、武田氏の滅亡へ突き進んでいきました。
姥捨山の地域は元々は寒村だったため「口減らし」という風習があったそうです。
「口減らし」は貧しくて食べるものがないので弱いものや働き手でないものから順番に殺していくというものです。この地方は子供たちは幼いうちに病気などで死んでしまうので、子供が対象になることはほどんどなかったそうです。
その一方で姥捨ては風習は実際にあったかもしれないらしいです。冠着山には山頂の近くやその向こうの山に連なる場所に小さな石碑が散見しているそうです。これは姥捨山に捨てられた老人の墓標ではないかということです。
年老いた親を山に捨てに行く伝説ある姥捨山ですが、実際にあった話なのでしょうか?姥捨山の伝説が実在したと考えると不合理な点も多いです。
姥捨て山の伝説が実在したかどうか、不合理な点はどこかなのかを見ていきます。
姥捨山の伝説の不合理な点の一つ目は山に捨てるのにはコストがかかるという点です。親を山に捨てるのはコストがかかるため、そんなことをしなくても窒息や絶食などの違う方法で殺害した方が手っ取り早いということです。
確かに親を山に捨てるという行為は労力や時間などの多大なコストがかかるため、そんな方法を取らなくても窒息や絶食などで殺害するなどもっと違う方法でやった方が手っ取り早いしコストも少なくて済むのではないでしょうか、
姥捨山の伝説の不合理な点の二つ目は生きようとする老人は従わないということです。人間が従容として死につくはずはないし、生に固執する老人はいくらでもいるというものです。つまりすべての老人が死を受け入れる訳ではなく、生きることを求める老人はいくらでもいるということです。
これに関連して運搬・引率されて来ることのできる程度の道なら死ぬのが怖くなったら帰ることができる、帰還する老人は高確率で出て、そのような老人は姥捨てを受け入れるわけはなく、結局は殺害するしかないということもあります。
姥捨山の伝説の不合理な点の三つ目は老人の権力で風習を廃止できるのではないかということです。自分が捨てられることを嫌だと思う中高年の権力者が風習の禁止に動き、制度の廃止に動くのではないかということです。
確かに中高年の権力者はいくらでもいるので、姥捨ての風習があるから将来、姥捨されることが分かっていて、それが嫌だった場合、風習や制度の廃止へ動いてもおかしくないですし、権力者ならば風習や制度の廃止は可能なのではないでしょうか。
姥捨山の伝説の不合理な点の四つ目は姥捨てする側に命の危険が及ぶというものです。
第一に姥捨てをする山が帰れないほどの険しい道のりの場合、姥捨て役である運搬者の命が危険にさらさせる恐れがあるということです。
第二に姥捨てされたくない側が抵抗して姥捨て役を殺害したり、同年代や姥捨て間際の年代で手を組んで姥捨て側に対抗して先制武装蜂起される恐れがありうるということです。これも先述した生きようとする老人は従わないの一つの考え方ではないでしょうか。
遊牧や狩猟系民族にもいわゆる『棄老』が発生する場合がありますが、日本の『棄老』とは全くの逆です。遊牧や狩猟系民族の『棄老』は部族の居住地移動の際に老人や病人が付いてくることが困難になった場合に仕方なく、置いていきます。
日本は老人を捨てますが、遊牧や狩猟系民族の場合は土地から離れるのが働き手で固定されるのが老人になります。少数の家畜と介護を希望する人をおいて出ていくそうです。エスキモーなどは極限的な生活を送っていたことから姥捨ては一般的だったそうです。
ノーベル物理学賞も受賞した世界的な偉人であるアインシュタイン博士は大正11年11月17日に来日していますが、その来日中にアインシュタイン博士は浄土真宗僧侶近角常観先生と対談して姥捨山の伝説の話を聞きました。
アインシュタイン博士は日本の仏教に興味を持っており、かねてから仏教の話が聞きたいと思っていたので、アインシュタイン博士は近角常観先生と対談しました。そこでアインシュタイン博士は仏様とはどういう方ですかと聞き、近角常観先生は姥捨山の話をしたそうです。
姥捨山の伝説の話は沖縄国際大学文学部の遠藤庄治教授によると沖縄にも民話としてあるそうです。この沖縄の民話は伊平屋村の民話があります。
この沖縄の民話には枝折型と難題型の二つを合わせたような民話があります。
その話は最初に枝折型の話で山に捨てた親を息子が連れ帰ります。その後に親を床下に隠しておき、その後、国に対して出た難題3種類を隠しておいた親の知恵で解くことによって、老人も長生きすれば国のためるになるということで姥捨ての命令がなくなったというものです。
日本は将来、超高齢化社会になるといわれています。このままいけば人口の半分が老人になると言われています。そんな日本の超高齢化社会に向けてビートたけしさんが姥捨山の復活などを提言しています。
ビートたけしさんは超高齢化社会に向けてどのような提言をしているのでしょうか?
ビートたけしさんの提言について見ていきます。
ビートたけしさんは新潮75に掲載されている「新潮75 どうする超高齢社会!」の中にある「いつまでも病院で死ねると思うなよ」のコラムで超高齢化社会に向けて提言しています。その中で姥捨山の復活についても提言しています。
それによると例え老人から権力を取り上げたとしても若者にとっては悪夢の社会なので、元気な人が老人を姥捨山に放り込むことを言い出したら面白いとのことです。
そうすれば100年後ぐらいに、あの人が立ち上がって老人を捨てたから、今の社会があると感謝されるのではないかということです。
ビートたけしさんは姥捨山の復活以外にも切腹の復活も提案しています。
それによると自分の生き死には自分で判断できるようにして、社会的に用がなくなったら自分で死ぬ覚悟を教えておくそうです。死ぬことを自分で選択できるようにするということです。
そして自分で死を選んだ人は薬物などによる積極的な安楽死を認め、日本人らしく「切腹」も復活させるということです。自分は覚悟を持って死ぬというのも見せることで、尊厳を守ることがいかにすごいことなのかを知らしめるのもいいということです。
ビーチたけしさんは姥捨山の復活や節婦の復活などを提言していますが他にもビートたけしさんは75歳以上の老人は医者にかからず自然に身を任せるべきであると提言しています。それによれば75歳以上からは医者にかかってはいけないという法律を作るべきだとしています。
75歳以上には薬を出すな、自然に任せろとした上で、昔は「人間五十年」といったものだから、75歳まで生きたのだから今更ジタバタするのではなく、あとは自然に任せて生きるぐらいの覚悟が欲しいということです。
姥捨山のその後を描いた映画があります。
その小説は佐藤友哉さんの小説「デンデラ」が原作の映画「デンデラ」です。
この映画「デンデラ」は2011年に浅丘ルリ子さん主演で公開されました。
この映画「デンデラ」について詳しいことを見ていきます。
映画『デンデラ』は姥捨山に捨てられた老人の後日の話を描いています。
『デンデラ』は浅丘ルリ子さんの演じる主人公のカユが姥捨山に捨てられ寒さで気を失い、目が覚めると、そこはデンデラと呼ばれる集落でした。
このデンデラは自分たちを捨てた村人に復讐しようと目論む創設者を始め、姥捨山に捨てられた老婆たち49人が暮らす集落です。この創業者はデンデラを作ったのが30年前のことで、つまり100歳まで生き延びていたのです。
姥捨山に捨てられてから30年も生き延びた創業者の目的は姥捨山に捨てられたことに対する村人への復讐でした。デンデラに50人目の入居者であるカユが入ったことで準備が整ったと判断した創業者は村人への復讐を実行に移します。
復讐など考えられなかったカユは村で唯一の親友で身体が不自由なクラと再会します。彼女は身体が不自由でも生きたいと願っていました。そしてカユは今まで70歳を超えたら極楽浄土へ召されるのが最善だと思っていたが、それに疑問を感じるようになります。
映画『デンデラ』は結末が壮絶なものです。
ある日、冬ごもりを逃した熊がデンデラを襲います。熊は寝ている老婆を殺すと、食べてしまいました。老婆もそのまま黙って殺されるわけもなく、子熊をやっつけてしまいます。
それに怒った母熊が再びデンデラを襲います。老婆と熊の戦いは壮絶なもので、老婆たちも村人への復讐どころではなく、熊への対応に追われます。そして一人二人と倒れていき、デンデラは壊滅状態で最後にカユだけが残ります。カユは自分たちを捨てた村の方向へ熊を導くかのようにわざと村の方へ走っていきました。
姥捨山は伝説ですが、現代にも姥捨山のようなところが存在します。
現代の姥捨山とはどのようなものなのでしょうか?
現代の姥捨山はどのようなものなのかなどについて見ていきます。
現代の姥捨山は老人ホームや病院の闇であると言えます。
近年、老人ホームなどの老人ホームなどを舞台にした様々な事件が発生しました。例えば老人ホームにおいて入居者に対する職員からの虐待や窃盗事件が明らかになったことがあります。そのようなところに姥捨山が存在し社会全体で見ぬふりをしているそうです。
また特別養護老人ホームなどは捨てられる老人はそう珍しくないそうです。入居から1年以上経っても面会に来ない入居者も珍しくなく、入居者自身が捨てられたと知っている場合もあるそうです。特別養護老人ホームの入居待機者は全国に沢山いてそのような姥捨山が増殖しているとのことです。
現代版姥捨山について海外ではいろいろな反応がありました。
いつかみんな老いるからこんなことはすべきではない、面倒を見切れない老人を捨てるなんて冷酷で間違っているなど反対の声もありますが、逆に擁護する声もあります。
擁護する声は老人ホームに預けることはヨーロッパにとっては普通、アメリカで老人ホームに預けるのと変わりない、日本だけではない世界中で起こっていることだなどの声がありました。他にも子供のいない場合や面倒を見切れない場合はこれもいい考えだと思うとの声もありました。
認知症の在宅介護は非常に大変なものです。介護疲れなどで精神的あるいは経済的に追い込まれていきます。そして認知症の親を捨てたいと思うようになる場合があります。姥捨山の話も親を捨てるという点で共通しています。実際に介護疲れから認知症の父親を娘が置き去りにしたという事件もあります。
現在の日本は介護職の人手不足が深刻です。そのため介護施設に入るのに何年も待たなければならない、あるいはサービスを続けることのできない事業所も珍しくない状況です。また在宅介護の場合、介護者が介護のために仕事をやめる人が増えてきたりと近年では介護弊害が社会問題になっています。
長野県千曲市の標高500m前後の山腹に位置する姨捨は姥捨山伝説の里として知られています。
そんな姥捨は名前のイメージとは違い、美しい景観が見られる場所です。
そんな姥捨山伝説の里である姥捨はどのような場所なのか見ていきます。
姥捨には日本の棚田百選に選ばれた美しい棚田の景観があります。また文化庁の重要文化的景観にも指定されています。この棚田がかつて小林一茶などの俳人が訪れて名月の棚田を「田毎の月」として詠んだ場所でもあります。
現在では大小約2000枚近くある水田が織りなす美しい景観が見ることができ、田植えの春から稲刈りの秋までではなく、冬は雪の棚田が見られ、四季折々の棚田を見ることができます。また棚田ハイキングコースも整備されており、ハイキングも楽しめます。
姥捨山の伝説は大きく分けて枝折型と難題型の二種類ありました。そして戦国時代には長野に姥捨山が実在したらしいです。また現在では老人ホームなどの闇が姥捨山となっていました。姥捨山の話を読んだことのある人は多いでしょうが、この機会に姥捨山の話に触れてみてはどうでしょうか?
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局