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    宮崎勤の家族が辿った末路とは?父親と母親の関係性についても言及

    平成の終わりを目前に、昭和と平成の狭間に起きた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤、そしてその家族の末路を辿ります。宮崎勤の父親が辿った結末、被害者への贖罪を果たすために売却した自宅、妹二人が送らなければならなくなった運命、宮崎勤家族の結末とは。

    今の世代は知らない?宮崎勤とは

    平成も残り数ヶ月、新元号を迎えようとしている今、宮崎勤を知らない世代になってきています。宮崎勤とは昭和から平成に切り替わる1988年から1989年に掛けて10歳以下の少女4人の命を奪った元死刑囚です。

    通称、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件と呼ばれるこの事件は、日本を震撼させました。また、「ロリコン」「オタク」と言った今はよく耳にする言葉もこの時から多く知られるようになりました。

    今回は、世を揺らがせたこの事件をきっかけに崩れていった宮崎勤の家族にスポットライトを当て、その運命を辿っていきます。

    宮崎勤という人物

    事件当時、宮崎勤は無職で自宅に引きこもっていた上、いわゆる「オタク」でした。家にはたくさんのビデオがあり、その中に「ロリコン趣味」のものや「ホラー」があったことが報道されました。
    その影響により、「オタク」に対する偏見や批判が増え、一部のアニメや漫画雑誌が規制されました。

    宮崎勤の少年時代とはどんなものだったのでしょうか。

    宮崎勤の生い立ち

    宮崎勤は裕福な家庭の長男として誕生しました。

    宮崎勤は生まれつき、”手首を回せない・手のひらを上に向けられない”という特殊な身体障害を患っており、幼稚園のお遊戯会ではみんなと同じポーズができないなど苦労しました。

    手の障害を気にしていた宮崎勤は、成績が優秀だったこともあり、成績を生かして地元から遠く離れた高校へ進学しました。
    しかし、高校生になると成績は落ち込み、大学までエスカレート式の付属高校だったのにも関わらず進学は別の学校を選ぶ他ありませんでした。

    宮崎勤の性格

    幼少期は、共働きで多忙な両親に変わって、祖父が引っ込み思案だった宮崎勤をよく可愛がっていました。
    しかし、中学生の時に所属していた部活では、異常に勝ちにこだわる負けず嫌いな一面も見せています。

    また、短期大学を卒業後印刷会社に就職しますが、勤務態度は極めて悪く、評判も良くありませんでした。就職して3年後に転勤を勧められますが、それを断り自主退職となりましたが、事実上の解雇でした。

    そして、自分を可愛がってくれていた祖父が亡くなった3ヶ月後に宮崎勤は事件を起こします。

    東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

    宮崎勤が起こしたは、幼女4人の命を1年という短い期間で次々と奪った“東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件”です。

    この事件は、例を見ない異常性から当時のメディアで多く取り上げられました。

    第一の被害者

    最初の事件を起こしたのは1988年8月22日です。
    当時4歳だった女児Aを誘拐し、殺害しました。その後、遺体に対しわいせつ行為を行い、その様子をビデオ撮影しています。後に、Aの遺骨の一部をA宅前に置きました。

    繰り返される事件

    二度目の事件を起こしたのは1988年10月3日です。
    当時小学1年生だった7歳の女児Bを誘拐し、殺害しました。Bにはまだ息があった時にわいせつ行為を行なったという主旨の供述をしています。

    三度目の事件を起こしたのは1988年12月9日です。
    当時4歳だった女児Cを誘拐し、殺害しました。Cの失禁により焦った宮崎勉は、遺体を山林に投げ捨てました。

    四度目の事件を起こしたのは1989年6月6日です。
    当時5歳だった女児Dを誘拐し、殺害しました。6月11日にDのバラバラになった遺体が発見されました。

    ついに逮捕

    そして、五度目の事件を起こそうと幼い姉妹を襲いますが、姉が隙を見て父親に助けを求め、姉妹の父親により取り押さえられました。

    捕まえた時、姉妹の父親は今世間を騒がせているあの連続殺人犯だとは思っていなかった、と後のインタビューで話しています。

    事件後、宮崎勤の家族が強いられた選択とは?

    事件後、裕福だった宮崎勤の家庭は見るも無残に崩れ落ちていったのです。
    世間は、宮崎勤だけではなく、その家族も加害者として捉えました。
    当時、ネットやメールが普及していなかった為、いやがらせは手紙で送られました。その数は膨大なものでした。

    「家族が加害者になる」とはどういうことを意味するのでしょうか。
    宮崎勤の家族を例に見ていきましょう。

    父親が選んだのは”死”

    宮崎勤の家族は事件の1年後、豪邸と呼ばれた自宅を手放し、東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)から引っ越しました。

    父親は、地元のローカル新聞「秋川新聞社」を経営していました。新聞社は自宅と併設していました。事件後、被害者へ償いの代金を支払う目的で豪邸だった新聞社兼自宅を売却する段取りを付けました。
    そして、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋から飛び込み自殺を遂げました。

    現在、取り壊された広大な宮崎勤自宅跡地は更地になっています。

    二人の妹が選んだのは”決別”

    宮崎勤には二人の妹がいます。
    長女は、会社を退職し、結婚間近の婚約者もいたが婚約破棄を余儀なくされた。
    次女は、看護学校に通っていたが自主退学に追い込まれ、事実上の退学となりました。

    大々的に事件が知れ渡ることとなり、両親を始め、家族である妹達にも「お前達も死ね」や「殺してやる」という旨の辛辣な手紙が殺到しました。
    宮崎勤の父の死の件もあり、メディアのあり方について論争も起こりました。

    宮崎家族が選べなかった”自らの人生”

    宮崎勤の父親には弟・妹達がいました。その二人の弟は退職に追い込まれました。
    弟の一人は離婚し、子供達に元妻の旧姓を名乗らせました。

    また、宮崎勤の母親の兄には息子二人がおり、警察官と高校教師でしたがいずれも辞職することとなりました。

    宮崎勤が人生を奪ったのは自分の家族だけではありません。影響はその一族に及びました。
    宮崎勤は両親・妹・おじ・おば、そしていとこまでも苦しめたのです。

    宮崎勤と両親の関係は?

    宮崎勤の父親は、息子の犯行により自宅を売却し、自殺をすることになりました。
    父親は宮崎勤の判決を前にこの世を去ったので、宮崎勤が死刑になったことを知りません。
    父親が自殺したのは事件から4年後のことでした。

    母親は宮崎勤を可愛く思っていました。宮崎勤の母親は、周囲に「うちの子は英語が得意」と自慢していた程です。
    宮崎勤も母とよく会話を交わしていました。

    宮崎勤は、取り調べで「(父親より)母親の方が好き」といった主旨の話をしていたようです。
    それを裏付けるように、家庭内では母親と会話を交わしても父親が来ると静かにその場を離れ自室に篭りました。
    それでも宮崎勤が事件後、父親に要求したものがあります。

    宮崎勤が父親に要求したもの

    宮崎勤は父親に私選弁護士を要求しました。しかし、父親はそれを拒否しました。結局、宮崎勤は国選弁護士に弁護されることになりました。

    国選弁護士は私選弁護士とは違い、国費が使われる為、これに対し父親を批判する見方もありました。また、自殺したことに関しても無責任であり身勝手であると捉える意見もありました。

    宮崎勤の死刑執行後、母親は

    宮崎勤は、2008年6月17日に東京拘置所で、死刑確定後異例の2年4ヶ月というスピード執行によりこの世を後にした。45歳でした。
    死刑が決まってからはアニメビデオを鑑賞することを許されていました。
    そして、宮崎勤は最後まで被害者そして被害者家族へ謝罪の言葉を口にしませんでした。最後まで気にしていたのはやはりアニメやマンガのことばかりでした。

    東京都豊島区、雑司ヶ谷霊園の一角に“法務省 納骨堂”があります。
    他の引き取り手のない獄死者や死刑囚の遺骨と一緒に、宮崎勤の遺骨は無縁仏としてそこに納骨されています。

    宮崎勤の母親は、宮崎勤の遺体対面後、遺体を拘置所に処置を任せました。事実上、受け取り拒否でした。
    そして、それ以降宮崎勤の母親の消息は途絶えています。

    宮崎勤が壊したのは被害者家族だけではなかった

    宮崎勤の父親と元々交流のあった元新聞記者へ、宮崎勤の父親が「こんなに苦しむのなら、死んだ方がどんなに良いだろう」と心境を吐露しました。
    元新聞記者は加害者家族の苦悩を知りました。

    宮崎勤は4人の被害者そしてその家族だけでなく、自分の家族の人生を壊したのです。

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